第14話 歌手になります
莉子の部屋には、ギターが二本ある。
一本は壁に立てかけてある。
細かい傷がたくさんついていて、ヘッドのステッカーが半分剥がれかけている。
十七歳のときに買った、最初の一本だ。
今は弾かない。弾けないわけじゃない。
ただ、この一本はもう弾かない、と決めている。
理由は自分でもうまく説明できないけれど、とにかくそう決めている。
もう一本は、クローゼットの中に仕舞ってある。
傷はほとんどない。ケースもきれいだ。
こちらは今も弾く。週に三回、施設に持っていく。
壁のギターは、夢のためのギターだった。
クローゼットのギターは、今のためのギターだ。
その違いを、莉子は四十二歳になるまで、あまり意識していなかった。
あの日、教室に持ってきた封筒は、ずいぶん薄かった。
みんなの前で開けると、一枚だけ折りたたまれた紙が入っていた。
他の人たちより短かった。
莉子は少し恥ずかしかったが、そのまま読んだ。
三十年後のりこへ。
わたしは歌手になります。
有名でなくてもいいです。
でもだれかに、わたしの歌をきいてほしいです。
ちゃんと、とどいてほしいです。
それだけだった。
読み終えると、教室がしんとした。
いつもの回のように笑いが起きるわけでもなく、かといって重苦しいわけでもなく、ただ静かだった。
洋平が「歌ってたもんな、莉子」と言った。
莉子はうなずいた。
「歌ってた」
「今は?」と誰かが聞いた。
莉子は少し間を置いて、「歌ってる」と答えた。
「え、デビューしてたの?」と徹が言った。
「してない」と莉子は言った。
「施設で弾いてる。ギターで」
全員が少し意外そうな顔をした。
莉子もその顔を予想していたので、特に何も言わなかった。
うまく説明できる気がしなかった、というのが本当のところだった。
二十代の莉子は、本気だった。
高校を卒業して上京し、音楽の専門学校に入った。
アルバイトをしながらライブハウスに通い、バンドを組み、一人でも活動した。
「いい声だ」と言われることは多かった。
「ちゃんと届く声だ」と、あるプロデューサーにも言われた。
その言葉を、莉子はずっと大切にしていた。
でも届かなかった。
正確に言えば、届きはしたが、届く先が少なかった。
ライブハウスのキャパは百人だった。
その百人に届いた。
でも音楽業界というのは、もっとたくさんの人に届けることを「成功」と呼ぶ。
莉子にはそのたくさんが、なかなか来なかった。
二十七歳のとき、デモテープを送ったレコード会社から返事が来た。
丁寧な文面だったが、要するに「今回はご縁がなかった」という手紙だった。
莉子はそれを読んで、少しだけ泣いた。
それから洗濯機を回した。
泣きながら洗濯機の前に座っていたら、洗濯が終わった。
洗濯物を干しながら、また少し泣いた。
干し終えたら、泣くのをやめた。
そういうことが、何度かあった。
三十歳になったとき、莉子は考えた。
このまま続けるのか。
続けたとして、どこへ向かうのか。
向かう先は、変わっていないか。
最初から「有名でなくてもいい」と書いた十二歳のわたしと、今のわたしとで、どこか変わってしまってはいないか。
考えながら、答えは出なかった。
三十二歳で東京を離れた。
田舎に戻ったわけではなく、少し郊外の街に引っ越した。
実家から電車で三駅のところだ。
仕事を探しながら、ギターだけは続けた。
仕事は介護施設のスタッフとして見つかった。
資格を取りながら続けるつもりが、いつの間にか十年経っていた。
施設でギターを弾くようになったのは、偶然だった。
入職して二年目の冬のことだ。
忘年会の出し物として、何かできないかと上司に聞かれた。
莉子は「ギターが弾ける」と答えた。
「じゃあ一曲やってみて」と言われた。
当日、莉子は休憩室に入居者のみなさんを集めて、ギターを弾いた。
昔よく歌っていた曲ではなく、みんなが知っていそうな歌謡曲を選んだ。
あまり深く考えずに選んだ曲だったが、弾き始めると、おかしなことが起きた。
一人のおばあさんが、一緒に歌い始めた。
それにつられて、もう一人が歌い始めた。
口を開けているだけで声が出ていない人も、唇が動いていた。
いつもはほとんど表情が変わらない人が、目を細めていた。
莉子は歌いながら、手が少し震えた。
弾き終えると、拍手が来た。
大きくはなかった。
でも確かにあった。
上司が「莉子さん、また来月もやってくれる?」と言った。
莉子は「はい」と答えた。
来月もやった。
その次の月もやった。
今も続けている。
莉子が弾くのは、決まって午後だ。
夕食前の、少し眠たくなる時間帯。
施設の日当たりのいい部屋に、入居者が集まってくる。
車椅子の人も、杖をついた人も、ソファに深く沈んだ人も、思い思いのところに座る。
莉子はその真ん中あたりに椅子を持ってきて、ギターを膝に置く。
弾き始める前に、必ず一言言う。
「今日も来ました。よかったら、一緒に歌ってください」
声が大きい人も、小さい人も、歌えない人も、全部ひっくるめての「一緒に」だ。
最初の一曲は決まってゆっくりした曲から始める。
テンポが速いと、ついていけない人が出る。
莉子はそれを初めて気づいたとき、自分の感覚が変わっていることに驚いた。
ライブハウスにいたころの莉子は、テンポを上げることで場を「盛り上げる」ことを考えていた。
今は逆だ。ゆっくりすることで、場が「ひらく」感覚がある。
二曲目になると、少しずつ声が出始める。
声と呼んでいいかわからないくらい小さい声もある。
でも莉子には聞こえる。
聞こえているからこそ、莉子は少し音量を下げる。
押しつぶさないように。
その声が消えないように。
三曲目になると、だいたい誰かが目を閉じる。
その顔を見るのが、莉子は好きだった。
ある午後のことだ。
三曲目を弾いていたとき、窓際に座っていた田村さんという九十一歳の男性が、静かに泣いていた。
泣いているとわかったのは、田村さんが手の甲で目を拭うのが見えたからだ。
莉子は歌いながら、そちらを見た。
田村さんはこちらを見ていなかった。
ただ、窓の外を向いて、目を細めていた。
莉子は歌い続けた。止める理由がなかった。
曲が終わったあとで、田村さんが言った。
「この歌、うちの婆さんが好きでな」
それだけ言って、また窓の外を見た。
莉子は「そうですか」と言った。
何も足さなかった。
足すものが見つからなかった、というより、何も足さなくていいと思った。
しばらく、静かだった。
田村さんは、それからギターを指差した。
「もう一回、弾いてくれるか」
莉子はうなずいて、同じ曲をもう一度弾いた。
今度は田村さんが、ほんの少しだけ口ずさんでいた。
歌詞を全部覚えているわけではないようで、途中で声が消えたり、また戻ってきたりした。
でも、確かに歌っていた。
その声は、莉子のギターよりずっと小さかった。
でも、莉子にはちゃんと聞こえた。
ある夜、一人で部屋にいて、ふと手紙のことを思い出した。
ちゃんと、とどいてほしいです。
十二歳の自分が書いた言葉が、頭の中で静かに浮かんだ。
莉子は少し考えた。
デビューはしていない。
CDも出していない。
大きなステージに立ったこともない。
「売れた」とか「成功した」とか、そういう言葉からは遠い場所に、ずっといる。
でも・・
田村さんは、泣いていた。
莉子の歌を聴きながら、奥さんのことを思い出して、泣いていた。
それは確かだ。
莉子にはそれが、届いていないとは思えなかった。
どこに届けば、「届いた」ことになるのだろう。
莉子は壁のギターを見た。
十七歳のときに買った、最初の一本。
ステッカーが半分剥がれている。
あのころ莉子は「届く」ということを、もっと広い意味で考えていた。
たくさんの人に。知らない人に。
遠くの人に。
ラジオから流れて、誰かの耳に届く。
そういう「届く」を思い描いていた。
間違いじゃなかったと思う。
ちゃんとした夢だった。
でも、目の前に座っている田村さんに届く、ということは・・夢じゃなかったのか。
あの涙を、夢の外のことだと言えるのか。
莉子には言えなかった。
翌週の午後、莉子はいつもと同じようにギターを持っていった。
田村さんはいつもの窓際に座っていた。
莉子が入ってきたのを見て、目だけで少し笑った。
「今日も来たか」
「来ました」
「何を弾く?」
「何がいいですか」と莉子は聞いた。
いつもはこちらで決めることが多いけれど、この日は聞いてみたくなった。
田村さんはしばらく考えた。
天井を見て、また莉子を見た。
「先週のやつ、もう一回」
莉子は「わかりました」と言って、椅子を引いた。
ギターをチューニングしながら、莉子は思った。
先週のやつ。
田村さんは曲名を言わなかったが、どの曲かはわかった。
奥さんが好きだったという、あの曲だ。
古い歌謡曲で、今では誰もほとんど歌わない曲だ。
弾き始めると、田村さんはすぐに目を閉じた。
今日は泣かなかった。
ただ、目を閉じて、静かに聴いていた。
その顔が穏やかだった。
他の入居者も、それぞれの場所で静かになっていた。
うとうとしている人もいた。
窓の外を見ている人もいた。
莉子のほうを見ている人もいた。
曲が終わった。
拍手が来た。
大きくはないが、確かにあった。
莉子はギターを膝の上に置いたまま、少しだけ目が熱くなるのを感じた。
泣いているわけじゃなかった。
ただ、何かが満ちてくるような感覚があった。
それを泣く前につかまえて、莉子は自分の中にしまった。
夢は、叶わなかった。
そう言えば、たぶん本当だ。
デビューはしていない。
有名にもなっていない。
三十年前に封筒に書いた「歌手」という言葉のイメージとは、ずいぶん違う場所にいる。
でも、「だれかに、わたしの歌をきいてほしい」という言葉は・・
叶っている。
届いている。
毎週、届いている。
田村さんだけじゃない。
窓の外を見ながら口ずさんでいたおばあさんも、目だけで笑っていたおじいさんも、唇だけが動いていたあの人も。
みんな、莉子の歌を聴いていた。
莉子の声が、その人たちの記憶の中の何かに、そっと触れていた。
舞台じゃなくても、届いていた。
マイクがなくても、届いていた。
照明がなくても、客席がなくても・・
ちゃんと、届いていた。
その日の帰り際、田村さんがぽつりと言った。
「来週も来るか?」
「来ます」と莉子は答えた。
田村さんはそれ以上何も言わなかった。
ただ、またあの目だけの笑い方をした。
皺が深い目の端が、少しだけ細くなる。
莉子はケースにギターを仕舞いながら、十七歳のときのことを思い出した。
初めてライブハウスに立った夜。
照明が眩しくて、客席がほとんど見えなかった。
でも、誰かが聴いてくれているという感覚だけはあった。
あの緊張と、あの高揚と・・今この場所で感じているものは、種類が違うかもしれない。
でも、根っこのところで、何かが繋がっている気がした。
ずっと、歌っていたんだ。
莉子はそう思った。
舞台が変わっただけで、ずっと歌っていた。
家に帰ると、莉子は壁のギターを少し見た。
久しぶりに、触れてみた。
弦が少し緩んでいた。
チューニングだけ合わせて、また壁に戻した。
弾かなかった。
弾かないと決めているから。
でもチューニングは、合わせておいた。
なぜそうしたのか、うまく言えなかった。
ただ、そうしたかった。
十七歳のわたしが持っていた夢を、乱暴に扱いたくなかった。
それは確かだ。
あの夢がなければ、今の莉子はここにいない。
田村さんの前でギターを弾く莉子も、ここにいない。
夢の形は変わった。
でも、夢そのものは消えていなかった。
変わりながら、ずっとそこにあった。
翌週、莉子はいつもどおり施設に行った。
廊下で田村さんと目が合った。
田村さんは何も言わなかった。
ただ、莉子が持っているギターケースを一度見て、また前を向いた。
それで十分だった。
午後になって、莉子は部屋の真ん中に椅子を持ってきて、ギターを膝に置いた。
「今日も来ました。よかったら、一緒に歌ってください」
いつもの一言。
田村さんはいつもの窓際にいた。
目を閉じる前に、一度だけ莉子を見た。
莉子は弦を鳴らした。
音が、部屋の中にゆっくり広がった。
施設のある男性が、必ず同じ曲をリクエストする。
古い歌謡曲で、今では誰も歌わない曲だ。
その曲のタイトルが、直樹の苗字と同じだということに、ある日ふと気づいた。
気のせいかと思ったが、確かに同じだった。
直樹がどんな気持ちでその名前を持って生きてきたのか、莉子には知る由もない。
ただ、なぜかその日の帰り道、莉子は直樹のことを考えた。




