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第15話 パン屋さんになります

 大輔の一日は、夜明けの少し前に始まる。

 午前四時に目が覚める。

 目覚まし時計は要らない。

 身体が覚えてしまっている。


 暗い台所に行って、コーヒーをいれる。

 飲む。

 洗い物をする。

 エプロンをつける。

 白い粉を計量する。

 塩を計量する。

 砂糖を計量する。

 イーストを水に溶く。

 バターを常温に出しておく。

 その間、ラジオはつけない。

 何年か前まではラジオをつけていた。

 夜が明けきらないうちから動き出す職人たちのために編成された、静かなおしゃべりのプログラムがあった。

 パーソナリティの声が台所に満ちていると、少しだけ誰かがいる気がした。

 今はつけない。

 誰かがいる気がするのは、余計に困るから。


 大輔のパン屋は、駅から歩いて七分のところにある。

 店の名前は「パン屋ハル」という。

 看板には、ひらがなで「はる」とだけ書いてある。

 妻の名前から一文字もらった。

 妻は「大げさだよ」と笑ったが、大輔は譲らなかった。

 妻の名前が入っていなければ、この店は成立しなかった、と思っていたから。

 妻の名前は、春子といった。

 三年前に、春子は死んだ。

 四十歳だった。

 乳がんの診断から一年半後のことだった。


 この日曜日、大輔は洋平から連絡をもらっていた。

「今週は大輔の番だ」という一行のメッセージが届いたとき、大輔はちょうど仕込みの途中で、小麦粉の袋を閉じるのを止めて、スマートフォンの画面を見た。

 そうか。今週か。

 来ることは、最初から決めていた。

 みんなが来るから来る。

 それだけだ。

 手紙については、考えていなかった。

 三週間前に読んだ自分の手紙の内容は、もうほぼ覚えていなかった。

 あの封筒を缶から出したとき、字を見ただけで胸のあたりが熱くなって、すぐに封に戻してしまった。

 その封筒が今も台所の棚の上に置いてある。

 置いたまま、見ていない。


 日曜日、大輔は店を閉めた。

 午前中だけ開けて、昼に閉めた。

 閉める前に、クリームパンを一つ、袋に入れた。

 紙袋ではなく、透明なポリ袋に。

 手紙より先に、これを持っていこうと思った。


 洋平が「大輔の番だ」と言ったとき、教室に十一人がいた。

 大輔は封筒を持ってきていたが、すぐには出さなかった。

 椅子に座ったまま、窓の外を少し見た。

 梅雨の晴れ間で、空が濃い青だった。

 六月の空は、雲が高くて、少し遠い。


「大輔」と洋平が声をかけた。

「ああ」と大輔は言って、封筒を出した。

 封筒の表に「大輔へ」と書いてあった。

 字が下手だ。

 筆圧が強くて、縦棒が曲がっている。

 小学生のころの大輔は不器用な子どもだったが、四十二になっても手先が不器用なままで・・ただし、パンを焼くことだけは違った。

「読んでいいか」と洋平が聞いた。

「読む」と大輔は言った。

「自分で読む」

 封を切った。

 便箋が一枚。

 両面に字が詰まっていた。


「パン屋さんになります」と大輔は読み始めた。

 声は普通だった。

 低くも高くもなく、いつもと同じ声だった。


「ぼくは三十年後、パン屋さんになっています。おいしいパンをたくさんやいて、お客さんに食べてもらうのが夢です。お父さんのお店でパンをてつだうのが好きです。生地をこねるのが好きです。できたてのパンのにおいが好きです。ぼくが一番好きなパンはクリームパンです。クリームパンは外はふわふわで中はあまいクリームがたっぷりはいっていてパンとクリームが一緒にとけていくのがおいしいです。三十年後のパン屋さんのぼくへ。ずっと好きなパンを焼いていてください。ずっとパン屋さんでいてください。あと、もし好きな人ができたら、クリームパンを焼いてあげてください。クリームパンは一番気持ちがはいるパンだと思います。大輔より」


 読み終えた。

 教室が静かだった。

「パン屋さん、なれたじゃないか」と浩二が言った。

「なれた」と大輔は言った。

 笑いはなかった。

 笑うような感じではなかった、と誰もがあとで言っていた。

 大輔の読み方がそうだったのか、内容がそうだったのか・・それとも、読み終えてから少しの間、大輔が手紙の最後の一行を見たまま動かなかったことが、そうさせたのかもしれない。

「クリームパンは一番気持ちがはいるパンだと思います」という文章が、教室の空気の中に少しのあいだ残っていた。


「大輔」と洋平が静かに言った。

「春子に」と大輔は言った。

 誰かが息を吸う音がした。

「春子に、焼いた。毎日、焼いた。病気になる前から焼いてたけど、病気になってからは・・なんていうか、毎朝焼かないといけないと思って、焼いた」

「そうか」と洋平が言った。

「今も焼いてる」と大輔は言った。

「毎朝、一つ焼いてる。店に出す分とは別に、一つだけ。それは売らない。焼いて、店の奥に置く。最後、閉店してから食べる。毎日そうしてる」

 誰も何も言わなかった。

「変かな」と大輔は言った。

「変じゃない」と由美が言った。

 すぐに言った。


 大輔がパン屋を開いたのは二十八のときだ。

 商業高校を出て、父親の友人が経営するパン屋に弟子入りし、七年修業して独立した。

 夢どおりだった。

 手紙に書いたとおり、夢はちゃんと叶っていた。

 春子と出会ったのは、三十一のときだった。

 来客用の打ち合わせスペースを借りようと、商工会に行ったとき、受付にいたのが春子だった。

 事務職員の春子は、大輔より二歳年下だった。

 顔が笑顔の形をしているような人だった・・と大輔は後から思った。

 意識して笑っているのではなく、安静にしているときの顔が、少し笑っているように見えた。

 目の端が、わずかに上がっていた。

 大輔が打ち合わせの予約を入れ、用件を済ませて帰ろうとしたとき、春子が「パン屋さんですか?」と聞いた。

「そうです」と大輔は言った。

「『はる』ですか。駅の近くの」

 大輔は驚いた。

「知ってますか」

「行ったことあります。クリームパン、おいしかったです」

 大輔は何も言えなかった。

 照れたのではなく、ただ何を言えばいいかわからなかった。

 商売の誉め言葉を受け取る方法を、大輔は長年うまく習得できていない。

「ありがとうございます」とだけ言って、出口に向かった。


 三日後、大輔はもう一度商工会に行った。

 用件はなかった。

 受付に春子がいた。

「また来てくださったんですね」と春子は言った。

 大輔はクリームパンを三つ、袋に入れて持ってきていた。

 黙って差し出した。

 春子は少し笑って、「ありがとうございます」と言った。

 今度は春子が何を言えばいいかわからないような顔をした。

 それが始まりだった。


 結婚したのは三十四のときだ。

 籍を入れた日の夜、大輔は朝五時から仕込みをして、クリームパンを十個焼いた。

 春子の両親の家に持っていくため、それとは別に八個焼いた。

 春子が「こんなに焼くの」と言った。

「焼く」と大輔は言った。

「今日だから」。

 春子は笑って、台所に並んで生地を丸めた。

 春子は料理が得意ではなかったが、パン生地を丸めることだけは大輔より上手だった。

 手の返し方が自然だった。

「才能があるな」と大輔が言ったら、「そんなわけないでしょ」と春子は言ったが、その日以来、仕込みの土曜日には春子が台所に来るようになった。

 二人で並んで生地を丸める土曜日が、週の中で大輔の一番好きな時間になった。


 春子が丸めた生地を大輔が焼くと、ふっくらと膨らんだ。

 気のせいかもしれない。

 でも、大輔にはそう思えた。

 春子の手が触れた生地は、いつもより少しだけよく膨らむ気がした。

「春子が丸めると、おいしくなる」と大輔は言った。

 春子は「それはたぶん、焼いた人の気持ちのせいです」と言った。


 診断が出たのは春子が三十八のときだった。

 春子は大輔に一人で告げた。

 検査の結果を聞いて帰ってきた春子が、台所で大輔の仕込み仕事が終わるのを待っていた。

 春子が「座って」と言ったので、大輔はエプロンを外して椅子に座った。

「乳がんだった」と春子は言った。

 大輔は何も言えなかった。

「ステージ二。早くはないけど、すごく遅くもない。手術して、抗がん剤して、放射線して、って感じになると思う」

「うん」と大輔は言った。

「うんって、それだけ?」と春子は言った。

 笑おうとしていた。

 笑えなかった。


 大輔は立って、春子の隣に座り直した。

 春子の手を握った。

 春子の手は冷たかった。

「一緒に焼くから」と大輔は言った。

 春子が「パンの話?」と聞いた。

「そう」

 春子はしばらく黙っていた。

 それから、「わかった」と言った。


 その夜、二人は遅くまで台所にいた。

 パンを焼いたわけではない。

 ただ、台所に並んで座っていた。

 外から風の音がして、冷蔵庫のモーターが低く鳴っていた。

 大輔はずっと春子の手を握っていた。

 春子は途中から泣いていた。

 声を出さずに泣いていた。

 泣いていることに大輔は気づいていたが、何も言わなかった。

 言えることが何もなかった。

 ただ、手を握り続けた。


 手術は成功した。

 抗がん剤の時期は、春子の髪が抜けた。

 春子は最初「怖い」と言ったが、抜け始めたら意外と平気だったと言った。

「なんか、すっきりした」と春子は言って、頭を触った。

 大輔は「似合う」と言った。

「嘘ばっかり」と春子は言ったが、本当に似合っていた。

 頭の形が、丸くてきれいだった。


 治療の間も、大輔は毎朝パンを焼いた。

 春子のために、クリームパンを一つ余分に焼いた。

 副作用がひどい時期は、春子は食べられないことが多かった。

 それでも焼いた。

 食べなくていい、においだけ嗅いでいればいい、という日もあった。

 春子は枕を抱えたまま「においはわかる」と言った。

「おいしそう」と言った。

 焼いたパンが届いていた。

 食べることはできなくても、においとして届いていた。

 それだけで、大輔は焼き続けられた。


 再発したのは、治療が終わって二年後のことだった。

 今度は肺だった。

 がんが転移していた。

 春子は大輔に告げるのを、一週間悩んだらしかった。

 一週間後に、「言わなきゃと思って」と前置きして告げた。

 大輔は黙っていた。

 春子が「何か言って」と言った。

「また焼く」と大輔は言った。

 春子は泣いた。

 今度は声を出して泣いた。

 大輔も泣いた。

 泣きながら春子の手を握った。

 春子の手はあのときよりも少し細くなっていた。


 再発から一年半。

 春子は四十歳で死んだ。

 四月の終わりだった。

 桜が散ったあとの、静かな春の朝だった。

 大輔は病院で春子の手を握っていた。

 春子の手が動かなくなったあとも、しばらく握っていた。

 どのくらいの時間、そうしていたか、大輔は覚えていない。


 教室が静かだった。

 大輔は手紙を折りたたんで、膝の上に置いた。

「三年経つ」と大輔は言った。

 誰かに向かって言うのではなく、ただ言った。

「まだ毎朝焼いてる」

「パン屋さん、続けてるんだな」と洋平が言った。

「続けてる」

「春子さんに教わりたいって、昔言ってたな」と徹が言った。

「二人でやりたいって」

 大輔はしばらく黙った。

「言ってたな」

「悔しかったか」

 大輔は答えなかった。

 少し考えた。

「悔しい」という言葉が合っているかどうか、正確に確かめてから言いたかった。

「悔しいっていうより」と大輔はゆっくり言った。

「なんていうか・・まだ焼き続けてたら、いつかまた一緒に焼ける気がして」

   誰かが「うん」と言った。

   そんな気がずっとしてて、それがあるから毎朝起きられる、みたいな。理屈じゃなくて」

「うん」とまた誰かが言った。

 大輔は窓の外を見た。

 空は変わらず青かった。


 帰り際、大輔は袋に入れたクリームパンを洋平に渡した。

「みんなで食べてくれ」と言った。

「十一個あるから」

「ありがとう」と洋平は言った。

 みんなで食べた。

 教室の中で、立ちながら食べた。

 由美が「おいしい」と言い、浩二が「これが本物だな」と言い、さくらが「しみじみする」と言った。

 大輔は自分の分は食べなかった。

 みんなが食べているのを見ていた。

 おいしい、という顔をしている人たちを、大輔はいつも見ていた。

 店で、毎日見ていた。

 それが仕事だった。

 夢どおりの仕事だった。


 春子もそういう顔をしていた。

 おいしい、という顔は、人によって違う。

 春子のそれは、少し目を細めて、口の端がほんの少し上がる顔だった。

 目の端がわずかに上がる、あの顔と同じだった。

 春子はいつも、そういう顔でパンを食べた。


 大輔は今日も覚えている。

 三年経っても、忘れない。

 焼いている間に思い出す。

 生地をこねるときに思い出す。

 窯を開けるときに思い出す。

 忘れることはない。


 帰り道、大輔は一人で歩いた。

 駅の近くに来たとき、少年が一人、自転車を止めて店の前に立っているのが見えた。

 日曜は閉店している。

 店の前で、少年が張り紙を読んでいた。

「日曜は定休日です。また来週どうぞ」という張り紙だ。

 少年は野球帽をかぶっていた。

 野球のユニフォームを着ていた。

 試合帰りか、あるいはこれから試合なのか、土の色がズボンについていた。

 大輔は少年に近づいた。

「ごめんな、今日は休みだ」と言った。

 少年が振り返った。

 十二か三くらいの男の子だった。

「クリームパンを買いに来たんです」と少年は言った。

「今日、試合で勝ったので」

「試合で勝ったら、クリームパンか」

「はい。いつもそうしてるんです。勝ったらここに来て、クリームパンを買って食べます」

 大輔は少年を見た。

 知らない子だ。でも、見覚えがある気がした。

 どこかで見たことがある・・けれど、思い出せなかった。

「待ってろ」と大輔は言った。

 店の鍵を開けて、中に入った。

 閉店前に焼いておいたクリームパンが二つ、奥の棚にあった。

 今日の春子の分と、大輔の分だ。

 大輔は一つを袋に入れて、少年に渡した。

「お金は」と少年が言った。

「いらない。試合で勝ったお祝いだ」

 少年は少し躊躇して、それから「ありがとうございます」と頭を下げた。

 礼儀正しい子だった。


 少年はパンを袋ごと両手で持って、その場でかじった。

 大きな口で、がぶっとかじった。

 それから少し目を細めて、口の端が上がった。

 大輔はその顔を見た。

 おいしい、という顔。

 それぞれ違う顔で、でも同じ場所に届く顔。

 大輔はしばらくその顔を見ていた。

「また来てくれ」と大輔は言った。

「はい」と少年は言った。

「毎週来ます」

 少年は自転車に乗って、走り去った。

 大輔は店の前に一人で立った。

 少年が曲がり角に消えるのを見送った。

 台所に戻って、棚を見た。

 春子の分のクリームパンが一つ、袋の中に残っていた。

 大輔はそれを手に取って、台所の椅子に座った。

 少し考えて、袋を開けた。

 今日は、一緒に食べることにした。

 窓の外に、夕方の光が落ちていた。


 翌朝も、大輔は午前四時に起きた。

 台所に行って、コーヒーをいれた。

 エプロンをつけた。

 白い粉を計量した。

 塩を計量した。

 砂糖を計量した。

 イーストを水に溶いた。

 バターを常温に出した。

 クリームパンの仕込みを始めた。


 一番気持ちがはいるパン、と十二歳の大輔は書いた。

 今もそう思う。

 クリームパンを焼くとき、大輔は一番丁寧になる。

 生地の厚さに気をつける。

 クリームの甘さに気をつける。

 焼き色に気をつける。

 手を抜けない。

 手を抜きたくない。

 誰かのために焼くパンが、一番おいしくなる。

 大輔はそう思っている。

 店に来るお客さんのために焼く。

 あの少年のために焼く。

 そして、春子のために焼く。

 毎朝。

 ずっと。


 それだけが今の大輔の、生きる形だった。

 言い訳でも諦めでもなく、ただそれが今の自分の形だと、大輔は知っていた。

 夜明けの前の台所に、生地をこねる音だけがあった。

 窓の外は、まだ暗かった。

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