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第16話 学校の先生になります

 さくらが教師になって最初に覚えたのは、「黒板の文字を書き終えたあと、振り返るまでの三秒間」のことだった。

 背中のまま、黒板の文字を書いている間、教室の空気が聞こえる。

 椅子の軋む音。

 誰かの鼻をすする音。

 窓の外の校庭から運動部の声。

 そして、「何かがある」と思う空気。

 うまく言えないが、教室というのは、黒板に向かっているときのほうが、よく聞こえることがある。


 前を向いていると、子どもたちは先生を見ている。

 後ろを向いていると、子どもたちは自分でいる。

 そのときの空気のほうが、正直だ。

 さくらはそう思って、板書の時間を、少しだけ長くとることにしていた。

 書き終えても、すぐに振り返らない。

 三秒だけ、待つ。

 その三秒が、教室の「今」を教えてくれる気がした。

 二十年続けた習慣だった。

 しかし、一度だけ、聞こえなかった。


 さくらが中学校の国語を教えはじめて六年目のことだった。

 クラスに、涼太という生徒がいた。

 おとなしくて、図書室によく来る男の子だった。

 本が好きで、放課後になると必ず図書室のコーナーの奥の席に座り、分厚い本を、誰とも話さずに読んでいた。

 さくらは涼太が好きだった。

 好きだった、というのはえこひいきをしたということではなく、涼太のそういう静かさを、心のどこかで大切に思っていた、ということだ。

 教室には、騒がしい子どもと、静かな子どもがいる。

 どちらが良い悪いではない。

 ただ、静かな子というのは、見えていないと思われやすい。

 存在していないと思われやすい。

 さくらはいつも静かな子の方をきちんと見ていようと思っていた。

 そう思っていた。

 しかし、見えていなかった。


 涼太が学校に来なくなったのは、五月の連休明けだった。

 最初の一日は、体調不良ということだった。

 二日目も。

 三日目になったとき、さくらは連絡帳に返事を書いた。

「ゆっくり休んでください。待っています。」

 待っていますと書いて、さくらは少し安心した。

 待っています、と言えたから。

 しかし涼太は来なかった。


 一週間経って、二週間経って、一ヶ月が経った。

 家庭訪問をした。

 玄関先で、お母さんがため息をついた。

「ちょっと・・複雑なんです。本人も、話したくないって言っていて」

 さくらはそのとき、何かを聞こうとした。

 でも聞けなかった。

 複雑、という言葉に圧倒されて、それ以上踏み込めなかった。

 その夜、さくらは職員室に残って、涼太のことを考えた。

 なぜ来ないのか。

 クラスで何かあったのか。

 誰かに何かをされたのか。

 考えて、考えて、わからなくて、次の朝また教壇に立った。

 クラスの三十二人が座っていた。

 三十二人を見渡した。

 ひとつひとつの顔を見た。

 何も変わっていないように見えた。

 何も変わっていないように見えた、ということを、さくらは長い時間をかけて、悔いることになる。


 真相がわかったのは、二学期が始まってからだった。

 別の生徒が、保護者を通じて担任に伝えた。

 涼太は、ずっとからかわれていた。

 一対一ではなく、グループで。

 毎日ではなく、不規則に。

 授業中に机に消しゴムのカスを積まれることから始まって、ランドセルの中身が廊下に出される日が続いて、そのうち「鈍感」「図書館の幽霊」と呼ばれるようになった。

 さくらはその報告を聞きながら、頭の中で三十日以上の日々を遡っていた。


 授業中、涼太の席の周りに何かなかったか。

 給食のとき、隣の席と話しているのを見たか。

 体育のとき、チームに入れてもらえていたか。

 振り返るほどに、見えていなかったことが増えていった。

 黒板に向かって後ろを向いている三秒の間に、さくらが聞こうとしていた「教室の正直な空気」は、涼太には届いていなかった。

 あのとき、聞こえていなかったのは、さくらのほうだった。


 同窓会の日、さくらは一番最後に着いた。

 廃校になる小学校の旧校舎に向かいながら、さくらはずっと考えていた。

 先生になることについて、こんなに考え続けた三十年だったとは、十二歳の自分は思っていなかっただろう。

 教室に入ると、洋平が「さくら、遅かったな」と言った。

「ごめん、少し道に迷った」とさくらは言った。

 本当は迷っていなかった。

 少し、外で立っていた。

 校舎の前に立って、三十年前の自分のことを思い出していた。

 六年二組の教室が二階にあること。

 佐々木先生の声が廊下から聞こえてくると、なんだか急いで本を閉じた気がすること。

 それ以外のことはほとんど覚えていないが、佐々木先生の声だけは、今でも耳に残っている。

 低くて、太くて、よく通る声だった。

「いいか、みんな。先生はいつでも見ているから。」

 そう言うとき、先生はいつも笑っていた。

 怖くなかった。

 でも確かに、見られている、と思った。


 洋平が「さくらの番だ」と言ったとき、さくらは封筒を持っていた。

 封筒の表に「さくらへ」と書いてあった。

 字がきれいだった。

 小学生のころのさくらは、字を書くのが好きだった。

 国語の先生になったのだから、字が好きというのは、もうすでにそのころから決まっていたのかもしれない。

「読む」とさくらは言って、封を切った。

 便箋が一枚半。

 丁寧な字で、びっしり書いてあった。

「わたしは三十年後、学校の先生になっています。」

 さくらは最初の一文を読んで、少し間を置いた。

 なった、と心の中で言った。

 なれた。


「こどもたちに国語を教えたいです。本を読むことと、作文を書くことを教えたいです。言葉というのは、気持ちを外に出すための道具だと思うので、言葉の使い方を教えることが、気持ちを伝えることを教えることになると思います。三十年後の先生のわたしへ。あなたはちゃんと子どもたちのことを、見ていますか。佐々木先生みたいに、全員のことを、ちゃんと見ていますか。もし見えていないことがあっても、諦めずに見ようとし続けてください。佐々木先生は、いつでも見ているから、と言っていました。先生ってそういうものだと思います。さくらより。」


 教室が静かだった。

 洋平が何も言わなかった。

 徹も、浩二も、由美も、大輔も、さっきまで大輔のクリームパンを食べていたのに、誰も何も言わなかった。

 さくらは手紙を膝の上に折りたたんで、視線を上げた。

「見えていなかったことがある」と、さくらは言った。

 声が思ったより平らだった。

 泣きそうな声になると思っていたが、ならなかった。

 ずっと考えてきたことだから、言葉に慣れてしまっているのかもしれない。


「担任のクラスで、いじめがあった。一ヶ月以上、気づかなかった。見ていたつもりだったのに、見えていなかった。」

 誰かが息を吐いた。

「十年前のこと」とさくらは続けた。

「今でも時々思い出す。あのとき、なぜ気づけなかったんだろう、って。あの子が図書室に来なくなったとき、なぜすぐに聞けなかったんだろう、って。」

「さくら」と洋平が言った。

「大丈夫」とさくらは言った。

「大丈夫、っていうか、もう大丈夫になったわけじゃなくて、大丈夫じゃなくても、立ち続けてきた、っていう感じで。」

 洋平が少し頷いた。


 涼太が転校したのは、二学期の終わりだった。

 さくらは転校の前の日、涼太に会った。

 昇降口のところで、偶然だった。

 涼太は小さなリュックを背負って、忘れ物を取りに来た、と言った。

 さくらは「ちょっと話せる?」と聞いた。

 涼太は少し考えて、「少しなら」と言った。

 二人で、昇降口の前のベンチに座った。

 冬だった。

 息が白かった。


「涼太、本は好き?」とさくらは聞いた。

「好きです」と涼太は言った。

「何が好きなの」

「冒険の話が好きです。主人公が一人でどこかに行って、いろんな人に会って、帰ってくる話が好きです。」

「帰ってくる話が好きなの?」

「はい。帰ってくるのがいい。」

 さくらはその言葉を聞いて、何かが喉のあたりに来た。

 泣きそうになった。

 でも泣かなかった。

「先生、一つだけ言っていい?」とさくらは言った。

 涼太が顔を上げた。

「先生はもっと早く気づくべきだった。気づけなくて、ごめん。」

 涼太は少し黙っていた。

「謝らなくていいです」と涼太は言った。

「先生は、ちゃんと見てくれてました。気づいてないとき、先生が図書室でそばにいてくれたこと、覚えてます。それだけで、来られてたんだと思う。」


 さくらは何も言えなかった。

 来られてた。

 図書室に。

 そうか。

 見えていたのかもしれない。

 全部ではなく、少しだけ。

 それが、涼太にとって何かだったのかもしれない。

「また本を読んで」とさくらは言った。

「読みます」と涼太は言った。

「冒険して、帰ってきます。」

 さくらは笑った。

 涼太も、少し笑った。

 それきりになった。


 教室で、さくらはその話をした。

 みんなが聞いていた。

「それから十年。ずっと気になってた。あの子が今、どうしているのか。先生なんていう仕事を選んで、本当によかったのか、今でも自信があるかといえば、ない。毎年教壇に立つたびに、佐々木先生のことを思う。先生みたいに見られているかって。先生が一人ひとりを見る目を、自分は持てているかって。」

「先生って、怖いな」と大輔が言った。

 静かに言った。

「誰かの一年を預かるんだな、って。」

「そう」とさくらは言った。

「怖い仕事だよ。毎年四月になると、怖い。三十二人を見渡して、この子たちの一年間、失敗したくない、って思う。でも失敗する。毎年、失敗する。失敗するたびに、どうすれば良かったのか考えて、また次の年に立つ。それを、ずっとやってきた。」

「それが先生だろう」と徹が言った。

「そうかもしれない」とさくらは言った。

「でも本当に、先生って、重い仕事だと思う。子どもに何かを言うとき、この言葉が何年後かに届くかもしれないと思うから。良い言葉かもしれないし、悪い言葉かもしれない。気をつけていても、傷つけることがある。気をつけていなくても、救っていることがある。どっちかわからないまま、言葉を選んで、言い続ける。」


 窓の外から風の音がした。

 校庭の桜の木が揺れているのが見えた。

 さくらは少し、その桜を見た。

 三十年前も、この木はここにあった。

 佐々木先生も、この教室から、この木を見たことがあるだろうか。

 先生は、この木を見て何を思っていたのだろう。

「佐々木先生みたいな先生に、なれたか」と洋平が聞いた。

 さくらは少し考えた。

 なれていない、と思う。

 先生みたいにはなれていない。

 でも・・

「なろうとし続けてきたよ」とさくらは言った。

「三十年間、なろうとし続けてきた。それだけは、言える。」

 洋平が「それでいい」と言った。

 さっぱりした口調だった。

「先生みたいになれる人間なんていないよ。でも、なろうとし続けてる人間のことを、先生って呼ぶんじゃないのか。」

 さくらは答えなかった。

 答えなくていいと思った。


 帰り道、さくらは一人になってから、立ち止まった。

 郵便局の前だった。

 ずっと書けていなかった手紙を、今夜書こうと思った。

 涼太への手紙ではない。

 佐々木先生への手紙だ。

 先生は十年前に亡くなった。

 届かない。

 それはわかっている。

 でも書こうと思った。

「先生、わたしはまだ教壇に立っています」という一行が、ずっと頭の中にあった。

 届かなくても、書く。

 言葉は、届く先がなくても、書いた人間の中に残る。

 それがさくらの考えだった。

 十二歳のさくらが「言葉は気持ちを外に出す道具」と書いた、その続きが今もある。

 外に出した言葉は、誰かに届く前に、まず自分の中に残る。

 それが三十年分積み上がって、さくらの教え方になった。


 その夜、さくらは手紙を書いた。

 便箋二枚。

「先生へ」と書き出した。

 書きながら、涙が出た。

 おかしいな、と思った。

 同窓会では泣かなかったのに、一人になったら泣いた。

 みんなの前では泣けなかったのではない。

 一人になってようやく、泣く用意ができたのだと思う。

 教室では、さくらはまだ先生のつもりでいた。

 一人になったとき、さくらはただの、先生が大好きだった子どもになった。


「先生、わたしはまだ教壇に立っています。三十年経っても、先生に聞きたいことが増えていきます。うまくいかなかったこと、気づくのが遅かったこと、言葉を選び間違えたこと。全部、先生に話したいことです。でも、話せない代わりに、毎年四月に先生のことを思います。先生みたいになれているか、思います。なれていないけれど、立っています。来年も、立つと思います。先生、ありがとうございました。」


 書いた。

 届かない手紙を書いた。

 でも書けた。

 封をした。

 宛名のないまま、机の引き出しにしまった。


 外では夜の風が窓を鳴らしていた。

 さくらはしばらくそのまま座っていた。

 それから立って、台所でお茶を入れた。

 温かいお茶を飲みながら、今年の三十人の顔を一人ずつ思い浮かべた。

 全員の顔が浮かんだ。

 よかった、と思った。

 まだ、全員の顔が見えている。


 今年の四月、また三十人の新しい顔が教室に並んだ。

 さくらはいつものように黒板に向かって文字を書いて、書き終えて、三秒待った。

 教室の空気を聞いた。

 椅子の音。

 鉛筆の音。

 誰かが小声で隣の子に話しかける音。

 それから振り返った。

 三十人の顔が、こちらを見ていた。

 さくらは少し笑った。

「おはよう」と言った。

 三十人が「おはようございます」と言った。

 声の揃い方が、まだバラバラだった。

 四月の教室は、いつもバラバラだ。

 それでいい。

 一年かけて、少しずつ揃っていく。

 そのバラバラを見ていること。

 揃っていくのを見ていること。

 それが、さくらの仕事。


 先生は、教えることよりも、見ていることが仕事かもしれない。

 さくらが、三十年かけてたどり着いた言葉。

 そして、佐々木先生がとっくに知っていた言葉でもある。

あの子から手紙が来た。

医師になり、今は難病の患者と向き合っているという。

先生の言葉どおり、ちゃんと「見ている」と書いてあった。

嬉しくて、しばらく泣いた。

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