第17話 花屋さんになります
菜摘の母は、毎日店に来る。
午前十時を少し過ぎたころ、ドアのベルが鳴って、母が入ってくる。
えんじ色のカーディガンを着ていることが多い。
母の好きな色だ。
歩き方が少しゆっくりになったが、背筋は昔から変わらず、まっすぐだ。
「あら」と母は言う。
いつも「あら」から始まる。
入ってきたとき、店の中が花でいっぱいなのに気づいて、目が少し丸くなる。
「きれいねえ」と母は言う。
「ありがとうございます」と菜摘は言う。
「いいにおいがする」と母は言う。
「今日はユリとジャスミンが入ったので」と菜摘は言う。
「そう」と母は言う。
それから母は店の中をゆっくり歩いて、花を一つひとつ見て回る。
白いカーネーション。黄色のフリージア。濃い紫のトルコキキョウ。
母は立ち止まって、顔を近づけて、においを嗅ぐ。
目を閉じることもある。
菜摘はその間、カウンターの後ろに立って、花の水を切っていたり、伝票を書いていたりする。
仕事をしているふりをしながら、母の後ろ姿をずっと見ている。
「あなた、きれいなお花屋さんね」
帰り際に、母は必ずそう言う。
毎日、同じ言葉。
「ありがとうございます」と菜摘は言う。
毎日、同じ返事。
母はドアのベルを鳴らして出ていく。
菜摘はカウンターの内側から、母が帰っていくのを見送る。
それが、今の菜摘の一日の始まり方だった。
菜摘が花屋を開いたのは、二十五のときだった。
子どものころから花が好きで、フラワーアレンジメントの専門学校に通い、卒業後は市内の花屋に七年間勤めた。
「いつか自分の店を持つ」と決めていた。
店を出す前の晩、菜摘は母に電話をした。
「明日から自分の店になる」と告げた。
母はしばらく黙って、それから「あなたなら大丈夫よ」と言った。
「どうして」と菜摘は聞いた。
「花が好きで、花と長くいる人間のそばには、いい空気が集まるから」と母は言った。
「店に入ってきたとき、いいにおいがするでしょう。そのにおいが続く限り、お客さんは来るよ。」
菜摘はその言葉を今でも覚えている。
店に入ってきたとき、いいにおいがする。
母が初めて店に来た日、母はそう言った。
今でも、毎日、そう言う。
問題は、母がそれを覚えていない、ということだ。
母に認知症の診断が出たのは、三年前のことだった。
最初は小さなことだった。
財布の置き場所がわからなくなる。
同じ話を短い間に二度する。
昨日の夕食に何を食べたか思い出せない。
菜摘は最初、疲れているのだと思っていた。
母はもう七十二だ。
疲れることがあっていい、と思っていた。
しかし、ある日、母から電話がかかってきた。
「菜摘、今どこにいるの」と母は言った。
「家よ、お母さん。どうしたの」
「ちょっと聞きたかっただけ」
「どこかに行くの?」
「・・そうそう。花屋さんに行こうと思って」
菜摘は少し止まった。
「どの花屋さん?」
「駅の近くの、きれいなところよ。一度行ったことがある。いいにおいがする花屋さん。あなた、知ってる?」
菜摘は答えなかった。
「知ってる?」と母がもう一度聞いた。
「・・知ってるよ」と菜摘は言った。
「そう。じゃあ行ってくる」
母は電話を切った。
菜摘はしばらくそのまま座っていた。
窓の外が見えなかった。
目の前がぼやけていた。
病院の診断は「アルツハイマー型認知症、初期」というものだった。
医師は「すぐに何もわからなくなるわけではありません」と言った。
「ゆっくり進みます。環境を変えないことが大切です。」
菜摘は「わかりました」と言って、帰り道でコンビニに寄って、トイレで泣いた。
誰かに見られたくなかったから、コンビニを選んだ。
ドアを閉めて、便座に座って、両手で口を押さえて、声が出ないように泣いた。
それだけ泣いて、顔を洗って、また歩いた。
認知症は、ゆっくり進んだ。
医師の言ったとおり、すぐに何もわからなくなるわけではなかった。
母は、自分が認知症だということはわかっていた。
「最近、忘れることが増えた」と自分で言った。
でも、忘れていることに気づかないことが、少しずつ増えていった。
菜摘を、娘だとわからなくなったのは、一年半ほど前からだ。
最初は、疲れているときや、夕方に混乱することが多かった。
「菜摘はどこにいるの?」と菜摘に向かって聞いた日があった。
「ここにいるよ」と菜摘は言った。
母は少し首を傾けた。
「あら、そう。そう見えるけど、なんか違う気がして」
なんか違う気がする。
その言葉を聞いたとき、菜摘は何も言えなかった。
言えることが何もなかった。
「違くないよ」と言えばよかったのかもしれない。
でも、母の目の中に「菜摘」がいなかった。
母が菜摘を見ていなかった。
見ているのに、見えていなかった。
菜摘はそのとき、笑顔でいることだけを考えた。
「大丈夫よ、お母さん。そこに座っていて。お茶、いれるね。」
今の母は、菜摘が娘だとわからない。
ときどき「菜摘に似ている」と言うことがある。
「うちの娘に似てる。顔の感じが」
菜摘は「そうですか」と言う。
「菜摘さんって、どんな子なんですか」と聞くことがある。
母は少し考えて、「花が好きな子よ」と言う。
「小さいころから花が好きで、家にいつも花を持って帰ってくる子だった。摘んできた、って言って。だから菜摘、って名前にしたの。」
菜摘は口を少し開いて・・それから閉じた。
「素敵な名前ですね」と言った。
「ええ」と母は言う。
嬉しそうに言う。
「もうずいぶん経つけど、今でも花屋をやってるのよ。こんな近くで。」
「知っています」と菜摘は言う。
母は少し驚いた顔をする。
「あら、来たことがある?」
「何度も」と菜摘は言う。
「そう」と母は言って、嬉しそうに笑う。
「じゃあわかるでしょう。いいにおいがするでしょう?」
「します」と菜摘は言う。
「いつも、します。」
同窓会の日、菜摘は迷っていた。
行くかどうか、ではなく、何を話すかについて。
自分の話を人前でするのが、昔から得意ではなかった。
電車の中で、封筒を何度も出したり入れたりした。
廃校になる小学校の教室に着いたとき、みんなはもう揃っていた。
さくらとさくらの話の余韻がまだ漂っていた。
洋平が「菜摘の番だ」と言ったとき、菜摘はまだ心の準備ができていなかった。
「読む」と菜摘は言った。
「自分で」
封筒を出した。
封筒の表に「なつみへ」と書いてあった。
ひらがなで、丸い字だ。
昔から、菜摘は字を書くとき、丸くなった。
国語が得意ではなかった。
花が好きだったから、理科の成績だけは良かった。
「花屋さんになります」と菜摘は読み始めた。
声が、少し震えた。
震えるとは思っていなかったから、菜摘は少し驚いた。
でも続けた。
「わたしは三十年後、きれいな花屋さんになっています。自分のお店があって、毎日花に囲まれています。お母さんが花が好きなので、お母さんのためにも花を飾りたいです。店においしそうなにおいがして、お客さんがたくさん来ます。花は話せないけど、話せない人の気持ちを代わりに言ってくれると思います。悲しいときも嬉しいときも、花があるといい気がします。三十年後のなつみへ。お母さんに、きれいな花をたくさんあげてください。なつみより。」
読み終えた。
「お母さんのためにも花を飾りたいです」という部分を読んだとき、菜摘の声は明らかに一瞬止まった。
みんなも気づいたと思う。
でも誰も何も言わなかった。
教室が、静かだった。
菜摘は手紙を折って、膝の上に置いた。
「お母さん、認知症になった」と菜摘は言った。
静かに言った。
「三年前から」
誰かが小さく息を吸う音がした。
「今は・・娘だとわからない。毎日店に来るんだけど、お客さんとして来る。『きれいなお花屋さんね』って言って、花を見て、帰っていく。」
「菜摘」と洋平が言った。
「大丈夫」と菜摘は言った。
さくらも、さっきそう言っていた。
「大丈夫って、どう大丈夫なのかよくわからないんだけど・・でも、来てくれるから。毎日来てくれるから。娘だとわからなくても、花が好きだということは変わらないから、店に来てくれる。それが今の・・なんていうか、支えになってる。」
「お母さん、今も花が好きなんだな」と徹が言った。
「うん」と菜摘は言った。
「好き。今でも、店に来るたびに、すごく嬉しそうに花を見てる。昨日も来たんだけど、ラナンキュラスの前で長いこと立ってた。薄いピンクのやつ。ラナンキュラスは昔からお母さんの好きな花で・・でも、それを覚えてるのは今は私だけで。」
由美が何か言いかけて、止めた。
それでよかったと思う。
言葉がいらない場面というのが、ある。
菜摘が小学生のころ、母はよく庭に花を植えていた。
春になると、チューリップが列になって咲いた。
夏になると、ひまわりが塀のそばに立った。
菜摘は庭から花を一本ちぎって、母に持っていくのが好きだった。
「はい」と言って渡すと、母は「ありがとう」と言って、台所のコップに差してくれた。
どんなに小さな花でも、コップに差してくれた。
菜摘の名前の由来を、以前の母はこう言っていた。
生まれた日の朝、病院の窓から外が見えた。
そこに、名前も知らない野の花が、風に揺れていた。
この子には花のそばで生きる人になってほしいと思って、菜摘にした、と。
「そうしたらあなた、本当に庭から花を摘んでくる子になって」と、母はいつも笑って続けた。
「あなたが外から何か持って帰るたびに、家の中が明るくなった。名前って不思議ね。」
・・今日の母は、「摘んできた、って言って。だから菜摘にしたの」と言った。
菜摘は花屋になってから、母の誕生日に必ず花束を作った。
毎年、母の好きな花を入れた。
ラナンキュラス。
フリージア。
白いスイートピー。
「重くない?」と母は毎年聞いた。
「持てるよ」と菜摘は毎年言った。
「あなたが作ったの?」
「うん」
「きれいね」と母は言って、花束を両手で抱えた。
その抱え方が、昔から変わらなかった。
胸に近いところで、両腕で包むように抱えた。
花束を、子どもを抱くように持った。
三年前の誕生日から、菜摘は花束を作らなくなった。
正確には、作るが、渡さなくなった。
誰から、なぜ、何のために贈られたのかが、母にはもうわからない。
贈られた事実が残らないまま、花束だけが残る。
それが、どうしても受け入れられなかった。
「お誕生日、おめでとうございます」と花屋の店員として言うことはできる。
でも「お母さん、おめでとう」と言えなくなった。
言っても、その言葉が届かない。
届かないことが、怖いのではなく・・届かないことより、届いたことを母が覚えていないことのほうが、菜摘にはつらかった。
それならいっそ届けない方が、という気持ちが、ある。
それが正しいことかどうかは、今でもわからない。
「お母さん、怒ったことある?」と由美が聞いた。
みんなの前でそれを聞いた由美を、菜摘は少し好きだと思った。
「ある」と菜摘は言った。
「最初のころ。同じことを三回聞かれて、三回目に、うっとうしいと思った。思って、すぐに後悔した。」
「後悔したんだな」と誠が言った。
「した。すごくした。でも、その後悔もずっとは続かなくて・・慣れてしまうんだよね。慣れることも、なんか申し訳ない気がして。」
「慣れていいよ」と大輔が言った。
静かな声だった。
「慣れることが、続けることだから。」
菜摘は大輔の顔を見た。
大輔は窓の外を見ていた。
さっき、自分の話をしたばかりの大輔が、そう言った。
「続けることが大事なんだよ、たぶん。理由を持って続けるんじゃなくて、続けてることがそのまま理由になっていく。」
菜摘は何も言わなかった。
でも、その言葉が、何かを緩めてくれた気がした。
胸の奥のほうにある、ずっと固いままでいたところが、少しだけほぐれた。
その夜、菜摘はいつもより遅くまで店にいた。
明日の仕入れの準備をしながら、花の水を替えた。
バケツから花を出して、水を切って、新しい水に差す。
その繰り返しをしながら、母のことを考えていた。
明日も来るだろう。
午前十時を少し過ぎたころに、えんじ色のカーディガンを着て、ドアのベルを鳴らして。
「あら、きれいねえ」と言って、花を見て回る。
ラナンキュラスの前で立ち止まるかもしれない。
白いスイートピーのにおいを嗅ぐかもしれない。
そして帰り際に、「あなた、きれいなお花屋さんね」と言う。
菜摘は「ありがとうございます」と言う。
それだけだ。
それだけのことが、毎日ある。
毎日、ある。
菜摘は店の奥から、一本だけ花を取り出した。
ラナンキュラス。
薄いピンク。
小さなコップに差して、カウンターの隅に置いた。
お母さん用に、ここに置いておこう、と思った。
明日、母が店に来たとき、「このお花はお客様にとっておいたんですよ」と言おうと思った。
渡しながら、「お誕生日、おめでとうございます」と言おうと思った。
今年の誕生日は、もうずいぶん前に過ぎているが、それでもいい。
母はきっと「あら、わたしに?」と言う。
「はい、とっておいたんです」と菜摘は言う。
「ありがとう」と母は言う。
花を、両手で、胸に近いところで、包むように抱える。
その抱え方が、昔から変わらない。
花束を、子どもを抱くように抱える。
それを見るだけで、菜摘は、もう一日立てる。
いつ気づいたのか、はっきりとはわからない。
ある日ふと、そう思った。
母は娘のことを忘れた。
でも、花のことは忘れていない。
花が好きということは、忘れていない。
花のそばに来ると、嬉しそうな顔をすることも、忘れていない。
菜摘が選んだ仕事が、花屋だった。
菜摘の店に、母が毎日来る。
だとしたら、菜摘が花を好きになったことは、ずっとつながっている。
母が花を好きで、菜摘が花を好きで、その花を商う店に母が来る。
娘だとわからなくても、花のにおいは変わらない。
菜摘が選んだ花には、菜摘の気持ちが入っている。
母はその花のそばに、毎日来る。
届いているのかもしれない、と菜摘は思う。
言葉では届かなくても。
名前では届かなくても。
においとして、色として、形として・・届いているのかもしれない。
花は、言葉を持たない人の代わりに語ることができる。
菜摘が三十年かけて、本当だと思うようになった言葉。
言葉を持たない人というのは、話せない人のことだと思っていた。
今は違う、と思う。
言葉が届かなくなった人のそばでも、花は語る。
言葉を受け取れなくなった人のそばでも、花は語る。
届いているかどうかは、わからない。
でも、語り続けることだけが、菜摘にできること。
店の電気を消した。
ドアに鍵をかけた。
外はもう暗くなっていた。
明日の朝、また花が届く。
バラ、カスミソウ、あとはラナンキュラスを追加で頼んでおいた。
薄いピンクのラナンキュラスを、少し多めに。
母のために、一本とっておくために。
先週、市の担当者から一通のメールが届いた。
廃校利用プロジェクトのオープニングに花を飾りたいので協力してほしい、という内容だった。
担当者の名前に、見覚えがあった。




