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19/22

番外編 半年後のある冬の朝

 雪は、音もなく降り積もっていた。


 灰色の空から舞い落ちる白い結晶は、校庭の土を覆い隠し、ジャングルジムの鉄パイプをなぞるように白く縁取っている。

 洋平はコートの襟を立て、吐く息の白さを目で追いながら、閉ざされた校門の前に立っていた。

 日曜日の早朝。

 時計の針は午前七時を回ったばかりで、周囲に人影はない。

 遠くで除雪車が走る重い音が、冬の朝の静寂をかえって際立たせていた。


 廃校が決まり、桜の木の下で錆びた缶を掘り起こした日から、季節はふた周りして、もう半年が過ぎていた。

 取り壊しの工事は年明けから本格的に始まる予定で、この風景を見られるのもあとわずかだ。

 校舎の窓ガラスにはバツ印のテープが貼られ、かつて子どもたちの声がこだましていた空間は、ただ冷たい空気を溜め込むだけの巨大な箱と化している。

 それでも、洋平は週末になるとこうして足が向いてしまうことがあった。

 誰と待ち合わせているわけでもないのに、吸い寄せられるように、この場所に立ってしまう。


「・・寒いな」


 独り言は、マフラーの隙間に吸い込まれて消えた。

 革の手袋をはめた両手をこすり合わせ、洋平は校庭を眺めた。


 この半年間、あの教室で、毎週のように行われてきた集まり。

 一人、また一人と、三十年前の自分からの手紙を開封し、声に出して読む。

 最初は軽い同窓会の延長のような、半分は冗談めかした空気だった。

 しかし、手紙が一通読まれるたびに、教室の空気は少しずつ、確実に変わっていった。


 三十年という時間は、想像以上に重かった。


 最初の週、徹が「プロ野球選手になっていますか」と書かれた便箋を読んだとき、教室には一瞬の笑いが起きた。

 だが、その直後の徹の顔を、洋平は忘れられない。

 夢破れて営業マンになり、週末だけ少年野球の監督をしている男の、笑いきれない苦い表情。

 あの瞬間、全員が悟ったのだ。

 これはただのタイムカプセルではない。

 自分の人生の答え合わせを、三十年前の無垢な自分から突きつけられる儀式なのだと。


 家族のために生きてきた美穂が、絶縁状態の娘の不在に直面して唇を震わせた夜。

 工場を潰し、ビル清掃をしながら孫におもちゃを作っている浩二が、皺の刻まれた顔で静かに微笑んだ夜。

 ALSで車椅子に乗る翔太が、星の見えない曇り空の屋上で、それでも「宇宙の近くにいる」と語った夜。

 正義を信じて刑事になった誠が、非行に走った息子と向き合うために、初めて崩れ落ちるように泣いた夜。

 妻を亡くし、一人でクリームパンを焼き続ける大輔の手から、小麦粉の匂いが立ち上っていた夜。

 認知症の母に「きれいなお花屋さん」と呼ばれながら、花を売り続ける菜摘が、それでも花を愛していると言い切った夜。


 重かった。

 どれもこれも、簡単に受け止められるような話ではなかった。


 十二歳の頃、彼らはただの無邪気な子どもだった。

 教室でふざけ合い、給食のおかわりでじゃんけんをし、夕焼けの校庭で泥だらけになって遊んでいた。

 その子どもたちが、三十年の間に、これほどまでに様々な喪失や挫折、孤独や痛みを抱え込んでいた。

 誰もが、傷だらけだった。

 大人になるということは、何かを得ることではなく、何かを少しずつ諦め、手放していくことなのかもしれないと、彼らの背中を見るたびに洋平は思った。


 それでも。

 それでも不思議なことに、手紙を読み終えた後の彼らの顔は、読む前よりもどこか清々しく見えた。

 過去の自分から突きつけられた純粋な刃に血を流しながらも、彼らは決して逃げなかった。

 自分の現在地を受け入れ、無様に、泥臭く、それでも「今の自分」を肯定しようと立ち上がっていた。


「みんな、それぞれ重いものを抱えてきたんだな・・」


 洋平は校門の鉄格子にそっと手を触れた。

 冷たさが手袋越しに伝わってくる。

 自分はどうだろうか、と考えた。

 市役所の職員として、波風の立たない平坦な人生を送ってきた。

 結婚もせず、大きな野望もなく、ただ与えられた仕事をこなす日々。

 自分には、彼らのような劇的な喪失もなければ、誇れるような再生の物語もない。

 洋平の手紙は、まだあの缶の中にある。

 自分の番が来たとき、自分は彼らのように、過去の自分と正面から向き合うことができるのだろうか。


 ゆっくりと歩き出し、校門の脇に立つ古い赤いポストの前に立った。

 すっかり色褪せ、投函口のあたりは錆びついている。

 町内のあちこちが新しくなっていく中で、このポストだけが三十年前から変わらない姿でそこにあった。

 洋平はポストの上の雪を手袋で軽く払い落とした。


 手紙を出す、という行為。

 それは本来、遠く離れた誰かに思いを届けるためのものだ。

 しかし、あのタイムカプセルに入っていた手紙は、誰に向けたものでもない。

 未来の自分という、最も近くて最も遠い他者へ向けたものだった。


 いや、本当にそうだろうか。

 洋平の脳裏に、あの缶の一番底から出てきた、宛名のない一通の封筒が浮かんだ。


 誰が書いたのかも、誰に宛てたのかもわからない、謎の封筒。

 あの封筒を見たとき、洋平の胸の奥で、何かが小さく引っかかった。

 はっきりとした理由はない。

 ただ、直感のようなものが、洋平に何かを告げていた。

 あの字の形。封筒の隅の折れ具合。

 もしかしたら、あれは・・。


 洋平はかぶりを振って、その思考を追い払った。

 まだ、その時ではない。


 それよりも、自分の中にある「言えなかった言葉」の方が、雪の冷たさとともに輪郭を強めていた。

 担任だった佐々木先生。

 十年前に病気で亡くなった恩師。

 タイムカプセルを埋めたあの日、先生に対してどうしても口に出せなかった一言がある。

 それは三十年間、洋平の心の底にヘドロのように沈殿し、事あるごとに浮上しては彼を苦しめてきた。

 市役所で理不尽なクレームに頭を下げているとき。

 夜中のコンビニで一人分の弁当を買っているとき。

 ふとした瞬間に、先生の顔が浮かぶ。

『洋平、お前はどうしたいんだ』

 先生の問いかけに、答えられなかった自分。


「・・先生」


 声に出してみたが、返事はもちろんない。

 ポストの投函口にそっと指を這わせる。

 もし、このポストに手紙を入れれば、過去に届くのだろうか。

 十年前の、あるいは三十年前の先生のもとへ。

 そんな馬鹿なことを本気で考えてしまうほど、今の洋平は過去に縛られていた。


 だが、この半年間、仲間たちの姿を見続けてきた洋平の中に、確かな変化が起きていた。

 懐かしさに涙し、失われた時間を嘆く段階は、もう終わったのだ。

 翔太が空を見上げたように。

 誠が息子と向き合ったように。

 菜摘が母に笑いかけたように。

 自分も、向き合わなければならない。

 過去の自分と。

 そして、あの時言えなかった言葉と。


 雪は降り続いている。

 これから春が来るまでに、残りの仲間たち・・健一郎や、和也や、隆たち・・の手紙が読まれるだろう。

 彼らもまた、それぞれの真実に向き合うはずだ。

 そして、自分の番が来る。


 洋平はポストから手を離し、大きく深呼吸をした。

 冷たい空気が肺の奥まで入り込み、淀んでいた何かを少しだけ押し流してくれた気がした。

 覚悟、と呼べるほど大層なものではないかもしれない。

 それでも、このまま逃げ続けることはできないという確信だけはあった。


 缶の中には、まだ開けられていない手紙がある。

 宛名のない封筒がある。

 そして、自分自身の「三十年後のぼくへ」がある。


「もう少しだ」


 洋平は誰にともなく呟き、もう一度だけ校舎を見上げた。

 白い雪に覆われた学び舎は、静かに彼を見下ろしている。

 懐かしさと悲しみの季節は過ぎ去った。

 ここから先は、見えない明日へ向けて、自分たちの足で歩き出すための儀式になる。

 そのために、彼らはこの手紙を開け続けなければならない。


 洋平はコートのポケットに両手を突っ込み、踵を返した。

 雪の上に残った自分の足跡を踏みしめながら、来た道を戻り始める。

 明日の夜には、またみんなが集まる。

 次は誰の番だっただろうか。

 誰の番であっても、自分が一番にあの教室の鍵を開け、ストーブに火を入れて待っていよう。


 凍てつくような冬の朝だったが、洋平の胸の奥には、小さな火が灯っていた。

 それは三十年前に埋められた火種が、長い時を経て、ようやく酸素に触れた証だった。

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