第18話 外国へ行きます
健一郎は、いつも一番最後に教室へ入ってくる。
出入り口の引き戸を開けるなり、「おっ、みんないるじゃん」と当たり前のことを嬉しそうに言い、空いた椅子を見つけると迷わず腰を下ろす。
その所作には、どこか旅人の軽やかさが残っていた。
何十キロもの荷物を何年も背負ってきた人間の、疲れをすでに手放した身体の動き。
今夜も彼はそうやってやってきた。
紺のフリースジャケット。
色落ちしたジーンズ。
右腕に革紐を何本か巻いた腕時計。
どれも、旅先で手に入れたのか、それとも何年も使い込んだのか、ほどよく褪せている。
手ぶらに近い格好だったが、胸ポケットには折り畳まれた紙が一枚、きっちり差し込まれていた。
「今日、俺だっけ」と彼は言い、誰かがうなずくと、「じゃあ、あったまってから」と笑った。
ストーブが赤く燃えている。
洋平が早めに来てスイッチを入れておいてくれたので、教室の空気はもうずいぶん柔らかくなっていた。
今夜の集まりは、新しい季節のような空気が、薄く、でも確かに漂っていた。
健一郎が二十三歳で青年海外協力隊に志願したとき、彼の頭の中には「世界を変える」という言葉が輝いていた。
誇張でも比喩でもなく、文字どおりそう信じていた。
アフリカのある地方都市に赴任した最初の年、彼は毎日日記を書いた。
現地の子どもたちと一緒に井戸を掘った日も、赤土の道で自転車が壊れた日も、久しぶりに日本語で話したくて電波の届く丘まで登った夜も、全部書き留めた。
いつか帰ったら本にしよう、と本気で思っていた。
現地語を覚えた。
飲み水の衛生管理を教えた。
学校の壁を塗り直した。
子どもたちに算数を教えた。
毎週通ってきた少女が、ある朝突然来なくなり、数週間後に近所の人から「嫁に行った」と聞かされた。
十二歳だった。
何も言えなかった。
それでも、健一郎は信じていた。
この積み重ねが、いつか何かを変えると。
任期が終わり、帰国し、一年後に再び出発した。
今度はNGOのスタッフとして。
支援地域は広がった。
内戦の続く国の難民キャンプに入ったこともある。
砂埃の中で、水タンクを運んだ。
医薬品の仕分けをした。
食料の列で押し合う人々を整理した。
カメラを持って歩くと、子どもたちがわっと集まってきた。
みんな、笑っていた。
その笑顔がいつも健一郎の足を前へ運んだ。
しかし・・。
三十代半ばに差し掛かった頃から、何かがじわじわと変わり始めた。
支援した地区が、一年後に再び紛争に巻き込まれた。
立て直した学校の壁が、また銃弾で傷ついた。
仲良くなった現地スタッフが、政情不安で連絡が取れなくなった。
いくら水を運んでも、いくら食料を届けても、構造の根っこにある貧困と暴力と腐敗は、びくともしない。
「世界を変えたい」という言葉が、ある夜を境に急に軽くなった。
空っぽの容器のようになった。
叩いても、なんの音もしない。
帰国したのは、三年前。
四十一歳の秋のことだった。
健一郎はコーヒーカップを両手で包み、ゆっくりと口を開いた。
「あのさ」と前置きして、それから少し間を置いた。
「俺、かなり長いこと、『何もできなかった』って思ってたんだよね」
誰も口を挟まなかった。
菜摘がカップを机に置く小さな音だけがして、また静かになった。
「協力隊で二年、NGOで十五年くらい活動してたんだけど。帰ってきて、自分の部屋で段ボールを開けてたとき、急に泣けてきて。何に泣いてるのかもわからなくて。でも、たぶん、ちゃんとわかってたんだと思う。俺が出て行った地域は、今でもあんまり変わってない。変わったとしても、それが俺のせいなのか誰のせいなのか、もうわからない。俺がいなくなった後も、誰かが来て続けてる。世界は、全然変わってない、って」
小さく笑った。
自分をからかうような笑い方で、でも本当に傷ついている人間の顔だった。
「もちろん、それは最初からわかってた話なんだけどさ。二十三歳の俺は、本気で信じてたんだよ。世界、変えられると思ってたんだ」
「信じてたからこそ、行けたんじゃないか」
口を開いたのは、徹だった。
顔を上げると、徹は「俺も、プロになれると本気で信じてたから、毎日素振りできた。あの信じる力って、バカじゃないと持てないから」と言い、最後の一言のところで自分でちょっと笑った。
健一郎は「バカか、俺たち」と言い、全員が少し笑った。
その笑いが収まった後、健一郎は胸ポケットから折り畳んだ紙を取り出した。
何度も折り直されて、縁がすり切れかけている。
手紙を入れていた封筒は、もうずいぶん前に破れてしまったので、中の便箋だけを保管してきたらしかった。
開くと、大きくて少し丸っこい字が現れた。
十二歳の健一郎の筆跡。
「読むよ」
彼は一度咳払いをしてから、はっきりした声で読み始めた。
「三十年後のけんいちろうへ。ぼくは外国へ行きます。こまっている人を助けに行きます。せかいじゅうのこまっている人を助けたいです。アフリカとかインドとかに行きたいです。先生に言ったら「夢があっていいね」と言ってくれました。ぼくは先生が大好きです。三十年後のぼくは英語が話せますか? 外国へ行けましたか? なかやまけんいちろう」
しばらく誰も何も言わなかった。
「外国へ行けましたか」という問いが、やけに空気の中に残った。
行った、と健一郎は思った。
行った。
何年も、何度も、行った。
英語だって話せるし、現地語だって少しは話せる。
目標には全部、外形的には届いている。
それでも三年前の自分は泣いていた。
段ボールの中の写真を前に、泥だらけのまま倒れ込んでいた。
「行けました、は行けたんだよな」と健一郎は自分で言った。
「でも、『こまっている人を助けられましたか』は、ずっと、よくわからないままで」
教室の窓の外では、風が鳴っていた。
冬の終わりの、まだ冷たい風。
でも一月前より確実に柔らかくなっている。
「ちょっと聞いていい?」
声を上げたのは、莉子だった。
施設で働く彼女の声は、低く落ち着いていて、問いかける前に相手の気持ちをそっと確かめるような間があった。
「健一郎が、一番覚えてる顔って、誰?」
健一郎は少し首を傾けた。
答えを探しているのではなく、そこにすでにある何かを確認するような動き。
「・・女の子」と彼は言った。
「名前はアミナ。七歳か、八歳か。はっきりわからない。俺がいた地区で一番なつっこい子で、毎日会うたびに俺のカバンをひっぱるんだよ。中に何か入ってないか確かめて、あ、今日もお菓子くれない、みたいな感じで」
口元がほぐれた。
本人も気づいていないような笑い方だった。
「ある朝ね、彼女の家族が急病になって。お母さんが急激に容体が悪化して、俺がたまたまその日、近くで医療NGOのスタッフと合流する予定があったから、連絡して。ちょうどその日、医師が来てた。間に合った。お母さん、助かった」
静かになった。
「そのときのアミナの顔が、俺の中で一番鮮明に残ってる。なんていうか、泣いてるんだけど、それだけじゃなくて。ちゃんと笑ってるんだよ、泣きながら。そういう顔って、作れないじゃないか。あの子が俺のカバンをひっぱって笑ってた顔より、あの日の顔の方が、ずっと・・」
言葉が止まった。
健一郎は顔を上げず、コーヒーカップに視線を落としていた。
それから大きく、ゆっくり息を吐いた。
「俺さ、今日、来るまでずっと考えてたんだ。世界は変えられなかった、ってどう説明しようか。みんながどんな顔するか、ちょっとこわかった」
「こわかったって何が」と徹が聞いた。
「なんていうか。あれだけ行って、戻ってきて、で、結局何もできなかった、ってなったら。かっこわるいかなって」
誰かが小さく笑った。
でも笑い飛ばすような感じではなく、「それはわかる」という笑い方だった。
「かっこわるくはないよ」と誠が言った。
刑事として生きてきた誠の声は、普段は硬い。
でも今夜は違った。
「俺も長いこと、正義を守れなかったって自分を責めてたから。できなかったことの方が、大きく見えるんだよな、最初は」
健一郎は顔を上げた。
誠と目が合った。
「最初は」
「ああ。最初は」
静かな繰り返しだった。
それだけで、ずいぶんのことが伝わった。
話が続くうちに、教室の温度がじわりと上がっていった。
ストーブのせいだけではない。
洋平が「アミナちゃんは今、どうしてるんだろうな」と言うと、健一郎は「わからない」と答えた。
「もう二十歳超えてるはずだけど、あの辺りはまだ不安定で、連絡は取れてない。元気でいてほしいけど」と続けて、そこで一瞬口を閉じた。
「でもさ」と彼は言った。
「あの日、助かった。それは事実じゃないか」
誰もすぐには答えなかった。
「あの日、俺がたまたまそこにいて、たまたまあのスタッフと連絡がついて、たまたま医師が来てた。全部たまたまだよ。俺の手柄でもなんでもない。でも、お母さんは助かった。アミナは、泣きながら笑った」
窓の外で風が止んだ。
「世界は変えられなかった。でも、その一回は、確かにあった」
声が、少し低くなっていた。
それは弁解でも諦めでもなく、長い時間をかけてやっと地に足がついた人間の声だった。
「俺、今夜、たぶん初めて言える気がするんだけど」
健一郎は両手をテーブルに乗せ、まっすぐ前を向いた。
「世界じゃなくて、目の前の一人でよかったんだよ。最初から、そうだったんだよ」
言葉が、落ちた。
石が水に落ちるときの、あの静けさで。
教室は少しの間、水の底にあるような静けさに包まれた。
美穂がそっとハンカチを出していた。
由美が天井を見上げていた。
浩二は目を細めたまま、じっと健一郎を見ていた。
洋平は、自分の手のひらを見た。
何年も、この手で書類をめくって、電話を取って、ハンコを押してきた手。
世界を変えた手ではない。
でも、目の前の誰かのために差し出したことが、確かにあった。
「それでいいよ」と誰かが言った。
誰が言ったのか、あとから全員に聞いても、誰もわからなかった。
でも確かに誰かが言った言葉だった。
「それでいいよ、健一郎」
もう一度、誰かが言った。
今度は、全員がなんとなく頷いていた。
徹が「お前、昔から正義感だけは俺の三倍あったもんな」と笑った。
「ひとの三倍無駄に走り回って疲れ果てただけかもしれないけど」と健一郎は言い、でも表情は先ほどより柔らかかった。
「疲れ果てるくらい走れたなら、十分じゃないか」と徹は言った。
健一郎はすぐには返事をしなかった。
ただ、ゆっくりとコーヒーカップを持ち上げ、冷めかけた液体を一口飲んだ。
飲み終えてから、小さく「ありがとう」と言った。
誰に向けているのかわからない言葉だったが、それでよかった。
集まりが終わり、ぞろぞろと廊下へ出た。
玄関先で別れ際、健一郎は洋平に並んで外に出た。
空は晴れていて、星が出ていた。
二月の終わりの夜。
冷たいが、刺さるほどではない。
「洋平、俺さ」と健一郎は空を見上げながら言った。
「NPOの今の活動、縮小しないといけない時期があったんだよ。資金が尽きかけて。そのとき、匿名で寄付が来た」
「知らなかった」と洋平は言った。
「俺も誰だかわからない。今もわからないままだけど」健一郎は息を吐いた。
白い。
「あれがなかったら、活動終わってたと思う。もしかしたらアミナのお母さんのこともなかったかもしれない。一本の糸みたいなものでさ。誰かの選択が、見えないところでつながってんだよな」
洋平は答えなかった。
ただ、隣で同じように空を見上げていた。
「俺が世界を変えようとしてた間、誰かが静かに俺を支えてくれてたのかもしれない。そう思ったら、一人で頑張ってたって気持ちが、少し溶けてくんだよ」
健一郎は星を一つ、指さした。
特に意味もなかっただろうが、その仕草は子どもみたいで、洋平はなんとなく目をほそめた。
「来てよかった。今日」
「毎週来てるじゃないか」と洋平は言った。
「でも今日は特別だった」と健一郎は笑った。
「初めて、ちゃんと言えた気がするから」
風が一瞬止んで、それからゆっくり吹き直した。
冬の終わりの風には、どこかに春の気配がもうまぎれている。
健一郎は手を振り、人通りの少ない夜道を歩き始めた。
その背中は、少しだけ軽くなったように見えた。
長い旅を終えた人間の歩き方ではなく、また明日から歩く人間の足どりで。
洋平は彼が角を曲がるまで見送ってから、空を見上げた。
星は変わらずそこにあった。
目の前の一人でよかった、という言葉が、まだ耳の奥に残っていた。
それは、洋平自身にも、どこかで刺さっていた言葉だった。
資金が尽きかけたあの年、匿名の寄付者が現れた。
その寄付がなければ、活動は終わっていた。
アミナのお母さんが助かることも、なかったかもしれない。
差出人の名前は今もわからない。
ただ、寄付が振り込まれた日付だけは、帳簿の中に残っている。




