第19話 お金持ちになります
和也が教室に入ってきたのは、約束の時間から五分遅れてのことだった。
引き戸を開けた瞬間、教室の空気が一瞬だけ止まった。
紺のスーツは、縫い目が光の角度によって微妙に青みを帯びる素材で、シャツの袖口から覗くカフスボタンは小ぶりだが鈍い輝きを持っていた。
左手首には、文字盤が白い機械式時計。
靴は床に傷をつけることを恐れているかのように静かな音を立てた。
ひとことで言えば、「浮いていた」。
元六年二組の木の机と椅子の中では、どう見ても浮いていた。
「いやあ、ごめんごめん」
和也は笑顔で手を振った。
感じのいい笑顔だった。
テレビのインタビューか何かで覚えた笑い方のような、少しだけ計算された笑顔。
「渋滞が・・って、言い訳だな。移動は車だし、渋滞なんてドライバーが判断することで、俺の責任じゃないんだが」
「ドライバー!」
徹が声を上げた。
「専属のドライバーがいるってこと?」
「まあ、今日は使ったな。駐車場が見つからないかもしれないから」
「いや、この辺、駐車場ばっかりだぞ」
「でも高級車を停めると心配で」
「心配するくらいなら自分で運転してこいよ!」
教室に笑いが起きた。
和也も苦笑いで「ごもっとも」と言い、手近な椅子を引いて腰を下ろした。
それでも椅子を床に引きずる音を立てなかったのは、長年の習慣か、あるいは場の空気をちゃんと読む人間だからかもしれない。
由美が「時計、またすごいの買ったじゃない。見せてよ」と身を乗り出した。
和也は慣れた手つきで左腕を差し出した。
「ちょっと待って、これって・・」
由美が顎を上げて値段を考えるような顔をした。
「百万?」
「もうちょっと」
「三百万?」
「もうちょっと」
「ちょっと、って言ったら何百万なんだよ!」
徹が机を叩いて笑い、和也も声を立てて笑った。
本当に笑っていた。
胸を張っているのでも、自慢しているのでもなく、久しぶりに自分の「ろくでもない部分」を笑われて、それを楽しんでいるような笑い方だった。
和也が三十五歳でIT企業を起業したとき、まわりのほとんどが「無謀だ」と言った。
名もない中小企業のシステム部に勤めていた和也が、突然辞表を出して会社を立ち上げると言い出した。
貯金はほとんどなかった。
自己資金で始め、最初の二年はアパートの一室で、食事をケチりながらコードを書き続けた。
当時の和也の信条は、シンプルだった。
負けるな。
それだけだった。
感動的な使命感があったわけでも、世界を変えようとしていたわけでもない。
ただ、負けたくなかった。
同じ時代を生きている誰かに、一歩でも先んじたかった。
それが原動力だった。
その燃料で、和也は走り続けた。
会社が軌道に乗り始めた頃、最初のパートナーと別れた。
「あなたといるのに、あなたがいない」と言われた。
意味がわからなかった。
家には帰っていたし、お金に困らせたことなど一度もなかった。
次の恋人とは三年続いたが、やはり終わった。
「あなたの優先順位の中に、私がいない」と言われた。
それも意味がわからなかった。
大切にしていたつもりだった。
上場したとき、社内は沸いた。
シャンパンを開けて、部下たちと乾杯した。
翌朝、マンションに一人で帰った。
リビングのソファに座って、窓の外の夜景を眺めた。
それは確かに美しい景色だった。
でも和也は、十分も経たないうちに「腹が減った」と思い、スマートフォンで食べ物を検索した。
深夜でも届けてくれる店を探しながら、ぼんやりと思った。
「今夜、一緒に飯を食う相手がいない・・」
社員の連絡先はもちろん入っている。
仕事の相手なら何十人でもいる。
しかし、夜中に「飯を食おう」と気軽に声をかけられる相手が、一人もいなかった。
上場した夜のことを、今も覚えている。
自分の人生で一番大きな日に、一人で出前を待ったことを。
「では、次は和也くんだな」
洋平が言い、和也は「ああ」と短く返した。
封筒はすでに机の上に出してあった。
色あせた紙製の封筒で、宛名の字は子どもらしいぎこちない筆跡で「三十年後のぼくへ」と書かれている。
「俺のはどうせ、えげつないこと書いてあるぞ」
和也は封筒を手に取りながら、先に言い訳をするように笑った。
「子どもの頃から、金のことしか頭になかったからな」
「どうせ『億万長者になります』とかだろ」と徹が言った。
「それより直接的かもしれない」
「社長になります、かな」と由美が言った。
「もっと具体的に書いてそう」と菜摘が笑う。
和也は「じゃあ開けるぞ」と言い、封を切った。
丁寧に折り畳まれた便箋が出てきた。
一枚だけ。
開くと、横書きの文字がゆっくりと目に入ってきた。
一行目を読んで、和也は吹き出した。
笑いをこらえることもせず、ぼろっと笑い声が出た。
「ほら見ろ。一行目から『ぼくは、お金持ちになります』だってさ」
教室が沸いた。
「そのまますぎる!」
「そりゃあ正直な子どもだ!」
「夢に一ミリもロマンがない!」
「でも有言実行じゃないか!」と誠が言い、全員がまた笑った。
確かに、これほど直接的に夢を書いた人間はいなかった。
野球選手でもない、宇宙飛行士でもない、花屋でもない。
「お金持ち」。
ストレートすぎて逆に清々しい。
「しかも叶えたもんな」と徹が言い、「今日の飲み代は全部おごりな」と付け加えた。
「それは構わないが」と和也は笑いながら言いかけた。
そこで、言葉が止まった。
視線が便箋の二行目に落ちていた。
手が、わずかに静止した。
「和也?」
洋平が少し首を傾けて、声をかけた。
和也は答えなかった。
「どうした」と徹が言う。
和也はゆっくりと顔を上げた。
笑顔は、いつの間にか消えていた。
代わりに、どういう表情をしていいかわからない人間の、少し固まった顔があった。
「・・続きが、ある」
「なんだよ、続きくらいあるだろ」
「読めよ」と誰かが言った。
和也はもう一度便箋を見た。
二行目は短かった。
ほんの数文字だった。
けれど和也は、その数文字を声に出すまでに、少し時間がかかった。
喉に何かが詰まっているような間だった。
「『お金持ちになります。そして、友達を大切にします』」
教室が静かになった。
笑い声が波のように引いて、代わりに別の空気が満ちてきた。
誰も何も言わなかった。
言えなかったのではなく、なんと言っていいかを、全員がゆっくり探していた。
和也は便箋を机の上に置き、両手をそっと重ねた。
「・・俺さ」
声が出た。
出したのは和也自身だったが、まるで別のところから聞こえてくるような声だった。
「金は、あるんだ。ある、どころじゃない。どれだけあるか、自分でも正確には把握してない」
笑い話のような出だしだったが、続く声が違った。
「でも俺のスマートフォン、仕事の電話しか鳴らない」
静かな一言だった。
「ランチを誰かと食べたのは・・いつだろう。ゴルフは付き合いで行くから相手はいる。会食もある。でも、用事のない日に『とりあえず飯でも食わないか』って、誘える相手が・・」
和也は天井を見上げた。
「いないんだよな」
誰も何も言わなかった。
空気が、重くなるのとは少し違った。
何か柔らかいものが、ゆっくり降りてくるような感じだった。
「三十代の頃、恋人に言われた。あなたといるのに、あなたがいないって。そのときは何を言ってるのかわからなかった。でも今はわかる。俺はずっとそこにいなかった。体はあっても、頭の中は常に次の仕事のことで、そこにある人間を見ていなかった」
和也は便箋に目を戻した。
十二歳の自分の字。
「友達を大切にします」
小学生のぼくは、なぜこれを書いたのだろう。
なぜ「お金持ち」と「友達」を同じ紙に書いたのだろう。
どちらが本当に欲しかったものか、まだその頃の自分には見分けがついていたのかもしれない。
「俺、こんな集まりに来る気、最初はなかったんだ」
和也は声のトーンを少し変えず、続けた。
「洋平から連絡が来たとき、正直めんどうだと思った。三十年ぶりに小学校の同級生と集まって何になる、って。でも、なぜか来た。来る気になった」
「なんで来たんだ」と徹が聞いた。
和也は少し考えてから、「わからなかった」と言った。
「来てみて、今日初めてわかった気がする。俺が来た理由。・・十二歳のぼくが、来いって言ったんだと思う。友達を大切にしろ、って」
声が、最後の方でわずかに震えた。
和也は自分の声が震えたことに、たぶん気づいていた。
でも取り繕わなかった。
「俺、人生で一度も、こういう場所がなかった。利害のない場所。金も肩書も関係ない場所。みんな俺のこと、和也って呼ぶじゃないか。社長でもなく、山本でもなく、和也。それが、こんなに久しぶりに聞く呼び方だとは思わなかった」
由美が静かにハンカチを取り出していた。
菜摘はテーブルの上で指を組んでいた。
誰も笑っていなかったが、誰も暗くもなかった。
ただ、和也の言葉の一つ一つを、ちゃんと受け取っていた。
「ちょっと待ってくれよ」
口を開いたのは徹だった。
「お前、一人で焼肉食ってたりするだろ。絶対してる」
「・・たまに、する」
「一人で高級焼肉」
「個室があるから」
「個室で一人!」徹が大きな声で言った。
「お前、それだけのためにこの三十年、頑張ってきたのか!」
教室にまた笑いが起きた。
和也も、笑った。
泣きそうになりながら笑った。
「俺のどこが悲しくて個室の焼肉屋に一人で行くんだよ。いい加減にしろ」と和也は言い、でも声はもう普通ではなかった。
「俺たちを呼べよ」と徹は言った。
冗談のトーンで言ったが、目は笑っていなかった。
「焼肉でも、寿司でも、高い店でも安い店でも、呼べばよかったんだよ。お前、連絡先を消してなかったら、俺の番号、今でも持ってるだろ」
和也は何も言わなかった。
「持ってるよな」と徹は確かめるように言った。
「・・持ってる」
「じゃあ、呼べよ」
それだけだった。
たった一言だった。
でも和也には、その一言がどこかの壁に当たって跳ね返ってきて、ずっと鳴り続けているような感じがした。
「今日の帰りに飯でも食おうぜ」と徹が続けた。
「高い店じゃなくていい。和也の奢りで」
「最後に奢らせるな」
「勝ち組からは取り立てるもんだ」
笑い声が戻ってきた。
さっきより、少し柔らかい笑い声。
和也は両手で顔を覆った。
隠すためだったか、押さえるためだったかは、本人にもわからなかった。
顔を覆った手の内側で、涙が出た。
情けなかった。
これだけの年月を生きて、これだけのものを手に入れて、木の椅子に座って泣いているのかと思った。
でも止まらなかった。
「和也くん」
洋平の声がした。
「来てくれて、よかった」
その一言が、ずっと探していた何かに触れた感じがした。
来てよかった、ではなく、来てくれてよかった。
来ることを、待っていてくれた人がいたということだった。
集まりが終わって廊下に出ると、夜の空気は冷えていた。
秋の深みがまだ残る、しかし冬ではない温度。
徹が「約束通り飯行くぞ」と言い、何人かがぞろぞろとついてきた。
高い店じゃなくていい、という意見が通り、駅前の大衆居酒屋に入ることになった。
スーツ姿の和也が赤ちょうちんの下に入っていくのは、絵的にはひどく似合わなかった。
「お前、場違いすぎる」と徹が笑い、「でも来たからえらい」と続けた。
席について、生ビールが運ばれてきた。
乾杯をした。
和也はジョッキを持ち上げて、その重さを確かめるように少し持ち直した。
「なあ、徹」
「なんだ」
「十二歳のぼくに、もし今日のことを見せてやれたら、なんて言うと思う」
徹は少し考えた。
「『それで夢、叶ったじゃん』って言うんじゃないか」
和也はジョッキを置いた。
「そうだな」とつぶやいた。
「お金持ちになって、友達と飯を食えた。両方、叶えた」
言いながら、自分でも気づいていなかった。
「友達を大切にします」というのは、目標ではなかったのかもしれない。
十二歳のぼくは「お金持ち」と「友達」を同じ場所に並べた。
どちらも同じくらい欲しかったのだ。
だから、両方書いた。
ただ、大人になるにつれて、一方しか見えなくなっていた。
それだけのことだった。
「俺さ」と和也は言った。
「次の集まりも来る」
「来なかったら迎えに行くぞ」と徹が言った。
「ドライバー呼んで逃げる」
「ドライバーごと連れてくる」
笑い声が上がった。
夜の居酒屋の喧騒の中で、和也は久しぶりに声を立てて笑った。
計算のない笑い方で、お腹から笑った。
帰りの車の中で、和也はスマートフォンを開いた。
ドライバーに「お疲れさまです、社長」と言われ、「ああ」と短く答えた。
画面には、家計管理アプリの自動通知が入っていた。
毎月定額で引き落とされる、国際支援のNPOへの寄付。
十年続けてきた。
節税対策のつもりで始めたが、なぜかやめられなかった。
団体の名前を、誰かに聞いたことがある気がする。
どこかで、たぶん誰かの口から聞いた。
和也はしばらく通知を見ていたが、結局そのままスマートフォンをポケットにしまった。
夜の都心を車は滑るように走った。
窓の外の街灯が、次々と流れていく。
和也は目を閉じた。
ジョッキの重さと、乾杯の音と、徹の笑い声が、まだ体のどこかに残っていた。
豪邸に帰っても、今夜は少しだけ違う気がした。
「おかえり」と言ってくれる人は、まだいない。
でも、「また来い」と言ってくれる人は、いた。
それは、三十年分の孤独を一晩で埋めるようなものではなかった。
ただ。
確かな入り口が、今夜、開いた。
そのことを、和也は目を閉じたまま、静かに感じていた。
国際支援のNPOへの寄付を、十年続けてきた。
なぜかやめられなかった。
団体の名前を、誰かに聞いたことがある気がする。
帳簿の上の、金額よりも先に、その名前がいつも目に入る。




