↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
22/32

第20話 お父さんにはなりません

   隆が自分の声に気づいたのは、怒鳴り終わってからのことだった。

  「だから言ったじゃないですか! 数字が合ってないって、先週も確認しろって言ったでしょう!」

   営業部の島にいる全員が、ちらりと視線を上げた。

 そして何事もなかったかのように、また画面に目を戻した。

 もう慣れているのだ。隆が怒鳴るのは珍しいことではなかった。

 

 相手の田中は、新卒三年目の真面目な若手だった。

 肩が小さくなり、「すみません」と繰り返した。

 隆はもう一言言いかけて・・それを飲み込んだ。

 飲み込んだ自分に、少しだけほっとした。

  「・・やり直してくれ。夕方までに」

   そう言って席に戻り、デスクの引き出しを開けた。

 何を取り出すつもりだったのかわからなくなって、そのまま閉めた。

 

 窓の外、曇り空。

 廊下の先のトイレに立ち、洗面台の前に立った。

 蛍光灯の白い光の中で、スーツの上着を着た四十二歳の男が鏡の中に立っていた。

 隆は、その男から目を逸らせなかった。

 額の皺。

 眉間の刻み。すっと立った顎の線。

 伏し目がちの目。怒ったときに唇の端が少し下がる癖・・。

「・・お父さん」

 声に出してしまってから、急いで蛇口を開いた。

 水音で消した。

 誰もいなかったが、消した。


 隆の父、田辺義雄は、隆が記憶している限り、ほとんど笑わない男だった。

 仕事から帰ってくると、まず靴を音を立てて脱ぎ、廊下を歩き、居間のソファに座って、何も言わなかった。

 夕食の間も無口で、テレビを見ながらときどき舌打ちをして、母が何か話しかけると「ん」か「そうか」で返した。

 腹が立ったときは声が大きくなった。

 特別に意地悪な人間ではなかったと思う。

 だが、優しくもなかった。

 話しかけると「うるさい」と言われることがあった。

 通知表を見せると「もっと頑張れ」と言われた。

 うれしい話をしても「そうか」と言われた。

 隆は子どもの頃から、父が苦手だった。


 苦手というより、嫌いだった。

 その人が家にいると、空気が重くなる気がした。

 笑えなかった。

 夕方、玄関の引き戸が開く音がするたびに、何とも言えない緊張が胸に走った。

 だから学校から帰っても、父が帰宅する時間が来ると自分の部屋に入り、夕食が終わるとまた部屋に戻った。

 そうして三十年。

 今、隆は自分の部屋から出られない息子を持っていた。


 教室に向かうとき、隆はいつもより十分早く家を出る。

 会社の近くに廃校がある。

 正確には会社から少し離れているが、遠回りしていくほどの距離ではない。

 洋平から電話をもらったとき、最初は断ろうと思った。

 三十年ぶりに小学校の同級生に会う気力が、そのときの隆にはなかった。

 でも断れなかった。

 洋平の声のせいだったと思う。

 電話口で「みんな来るから」と言った声が、なぜかあの頃の洋平の声とぴったり重なった。

 学級委員長だった洋平が、遠足の集合場所で「みんな来てるか?」と確認するときの、あの真剣な声と。

 一度だけ、と思って来た。

 それが半年経つ今も、隆はここに来ている。

 毎週ではないが、月に二、三度は顔を出す。

 理由を問われてもうまく答えられないが、たぶん、ここにいる間だけ、隆は「隆」でいられるのだと思う。

 部長でも、父親でも、息子でもなく、ただの「田辺隆」でいられる。

 今日は、自分の手紙を読む番だった。


「読む?」

 洋平が封筒を差し出した。

 隆は受け取り、しばらく眺めた。

 表に「田辺隆くんへ」と書いてある。

 サインペンで書かれた字は茶色く滲んでいて、三十年前のものだと一目でわかった。

「声に出す?」

 由美が「声に出して!」と言い、徹が「そうそう」とうなずいた。


 隆は封筒の端を指でなぞって、ゆっくりと開いた。

 中から二つ折りの便箋が出てきた。

 罫線のある白い紙に、小学生の丸っこい字が並んでいる。

 隆は、一度だけ小さく息をついてから、声に出して読み始めた。


「ぼくは三十年後、えいぎょう会社の社員になっています。たくさん仕事をして、お金を稼ぎます。けっこんして、子どもが二人います」

「おお」と誰かが言った。

「いちばん大事なことは、お父さんにはなりません」

 教室が静かになった。

 隆は手紙から目を上げなかった。

「いつもぶすっとしていて、しゃべらなくて、おこってばかりのお父さんにはなりません。ぼくは、子どもといっぱいしゃべって、いっぱいわらって、ありがとうって言える大人になります。たのしいお父さんになります。ぜったいに」

「ぜったいに」という字のところで、元の字より少し太く書いてあった。力を込めたのだと思う。


 隆は手紙をゆっくり折りたたんで、テーブルに置いた。

「・・叶いませんでした」

 誰かが笑おうとして、でも笑えなかった。

「営業部の部長にはなりましたよ。結婚して、子どもも二人います。で、怒鳴ってばかりです。先週も部下を怒鳴った。子どもは・・、最近、あまり話してくれない」

 隆は視線を窓の外に向けた。曇り空が広がっていた。

「父にそっくりです」

 由美がそっと「隆・・」と呼んだ。

 隆は「大丈夫です」と言ったが、窓から目を離せなかった。


 その夜、隆は実家に電話をかけた。

 父は三年前に脳梗塞で倒れ、今は母と二人でひっそりと暮らしている。

 自分では歩けるが、長い会話は疲れると言う。

 隆が電話をかけるのは、正月と盆と、あとは母の誕生日くらいだった。

「もしもし」

 電話口の声は、以前より少し細くなっていた。

「俺。隆」

「ああ・・なんだ、どうした」

 相変わらず愛想がない。

 それでも隆は、今日は切ろうと思わなかった。

「お父さんの昔の日記って、まだ家にある?」

 少し間があった。

「・・なんで日記を」

  「ちょっと見たくなった」

 また間があった。

 今度は長かった。


「本棚の奥に入れてある。持っていきたいなら持って行け。捨てようとして、捨てられなかった」

「わかった」

「・・なんかあったか」

 隆は少しだけ考えた。

「なんかあった、というより・・自分が嫌になった」

「そうか」

 いつもの「そうか」だった。

 しかし今日は、その声の中に何か違うものを感じた気がした。

 あるいは、感じたかっただけかもしれない。

「また今度行く」

「ああ」

 電話を切った後、隆はしばらく画面を見つめた。


 翌週末、隆は一人で実家に向かった。

 玄関を開けると母が出てきて、「お父さん、昼寝してる」と言った。隆は「起こさなくていい」と言い、本棚のある小部屋に入った。

 古い文庫本と辞書に挟まれて、ノートが三冊重なっていた。

 表紙に「日記」とだけ書いてある。

 父の字ではなく、手芸用のマジックで母が書いたような字だった。

 整理したのは母なのだろう。


 隆は、一番古いノートを手に取った。

 開くと、父が三十代の頃の字があった。

 今の隆より少し若い頃の字だ。


 今日も怒鳴ってしまった。

 隆に。

 宿題をなぜやらないのかと聞いたら、言い訳ばかりするから、つい声が大きくなった。

 あとで後悔した。

 後悔するなら最初からやるなと、自分でも思う。

 でもできない。

 なぜできないのかわからない。

 自分の父親がそうだったから、そうなってしまうのかもしれない。


 隆は、ページをめくる手が止まった。


 隆が朝、学校に行く前に声をかけてきた。

 何を言ったのか、うまく聞き取れなかった。

「行ってきます」だったかもしれない。

 俺は「ああ」と言ってしまった。

 なぜもっとちゃんと答えられないのか。

 玄関の音が閉まった後、しばらく動けなかった。


 隆の通知表を見た。

 前より点が上がっていた。

「よく頑張った」と言うつもりだった。

 でも「もっと頑張れ」と言ってしまった。

 なぜそうなるのか。自分でも意味がわからない。

 良かったと思っているのに、なぜそう言えないのか。


 隆は、ページを閉じることができなかった。

 文字は乱れていなかった。

 父は字がきれいだった。

 けれどその字が並ぶたびに、どこかに力が入りすぎているような、押さえつけるような、そんな書き方だった。

 もう一ページ。


 今日、仕事で大きなミスをした。

 取引先の担当者が怒鳴ってきた。

 俺は謝った。

 上司にも怒鳴られた。

 帰り道、電車の中で、ずっと窓の外を見ていた。

 家に帰ったら、隆が居間でテレビを見ていた。

 俺の顔を見て、すぐに部屋に入ってしまった。

 それが一番きつかった。

 自分が帰ってくると、息子が部屋に逃げる。

 それが三十年後も続くのかと思うと、なんとも言えない気持ちになった。


 隆は、膝の上でノートを閉じた。

 小部屋の古い時計が、ゆっくりと刻んでいた。

 父が仕事から帰ってくるとき、玄関の引き戸が開く音がした。

 あの音が怖かった。

 父が来ると、空気が重くなると思っていた。

 でも父は、あの引き戸を開けるたびに、逃げていく息子の背中を見ていた。

 帰ってきた、という気持ちよりも、また逃げられた、という気持ちで、ソファに座っていたのかもしれない。

 だから無口だったのかもしれない。

 怒鳴ったのも、怒鳴り方しか知らなかったからかもしれない。


 隆は、目が熱くなっていることに気づいた。

 泣くつもりはなかった。

 ただ、知らなかった、と思った。

 父がそんなことを考えていたとは、一度も思わなかった。

「父もこうして悩んでいたのか」という言葉が、声にならずに喉の中で転がった。


 廊下に物音がして、隆は顔を上げた。

 父が昼寝から覚めて廊下を歩いていた。

 腰が少し曲がっている。

 杖はついていないが、壁に手を当てながら歩いていた。

 隆が戸口に立っていることに気づくと、父は一瞬だけ足を止めた。

「来てたのか」

「うん。日記、借りていいか」

 父はしばらく隆を見た。

 目が細くなった。

 怒っているのではなく、まぶしいものを見ているような目だった。

「・・恥ずかしいものが書いてあるぞ」

「知ってる。もう読んだ」

「そうか」

 父は「そうか」と言って、廊下を歩き続けた。

 台所のほうへ向かっていった。


 隆は父の背中を見た。

 丸くなった肩。

 細くなった首。

 それでもまだ、歩き方に少しだけ頑固さが残っている。

「お父さん」

 父が振り返った。

「・・子どもの頃、俺が怖くしてたか」

 父の表情が、一瞬だけ止まった。

 それからゆっくりと、何かを確かめるような顔になった。

「わからん」

「そうか」

「ただ、お前が部屋に入るたびに、俺の声が大きすぎたと、あとで思っていた」

 それだけ言って、父は台所へ消えた。


 隆は廊下に一人立っていた。

 外から秋の日差しが窓を通して入ってきて、廊下の木目を薄く照らした。

 子どもの頃の廊下と同じ廊下だった。

 同じ光だった。

 ただ、自分の目が違うだけで、こんなにも違って見えるものなのか。


 実家から帰る夜、隆はスマートフォンを開いた。

 息子の連絡先。

 弘樹、と書いてある。

 二十歳になった息子は今、大学の近くで一人暮らしをしている。

 隆とはほとんど話さない。

 盆と正月に帰ってくるが、食事の間はスマートフォンを見ていることが多く、隆も何を話していいかわからず、二人の間に会話のない時間が続いた。


 隆は、発信ボタンを押した。

 三回コールして、「・・なに」と弘樹が出た。

「俺。」

「知ってる。何」

 電話口の声は乾いていた。

 警戒しているような、面倒くさそうな、隆が子どもの頃に父に感じていた、あの空気と同じだった。

 今度は自分がその原因なのだということが、この年齢になってようやくわかった。

「いや・・ちょっと聞いてほしいことがあって」

「何を」

 隆は少し考えた。

 何から話せばいいかわからなかった。

 タイムカプセルのことを話すべきか、父の日記のことを話すべきか。

 でもそういう「説明」より先に、言わなければならないことがあると思った。

「父さん、お前に怒鳴ってたな。子どもの頃」

 少し間があった。

「・・まあ」

「嫌だったと思う」

 また間があった。

 今度は長かった。

 

「・・別に」

「俺は、じいちゃんが嫌いだった。声が大きくて、怖くて、ちゃんと話を聞いてくれなかった。でも今日、じいちゃんの昔の日記を読んで・・、同じことで悩んでたんだとわかった。じいちゃんも、俺も、たぶんお前も、みんな同じことで悩んでる」

 電話の向こうが静かになった。

「・・俺は、弘樹に怖い父さんだったと思う。今も、たぶんそうだ。なぜかわからないけど、声が大きくなる。すぐに正論を言いたくなる。でもな、お前が部屋に入るたびに・・」

 喉が少し詰まった。

「俺も、後悔してた」

 弘樹は何も言わなかった。

 しばらく沈黙が続いた。


 それから、小さな声で「・・知らなかった」と聞こえた。

 隆は「そうだよな」とだけ言った。

「今度、飯でも食わないか」

 また間があった。

「・・考える」

「そうか」

 電話が切れた。


 隆は夜道に立っていた。街灯が水たまりに映っていた。

「考える」と言った。

 断らなかった。

 隆の父も、きっと似たような答え方をしたのだろう。

 そういう家系なのかもしれない。

 でも、「考える」は、「嫌だ」ではない。


 父から受け取ったもの。

 自分が息子に渡してしまったもの。

 そして今夜、少しだけ形が変わったかもしれないもの。

 嫌悪と理解の間にあるものには、名前がない。

 でもそれは確かに、温かいものだった。

 隆はゆっくりと歩き出した。

 帰り道に、父の日記を入れた鞄が揺れた。


 翌週、集まりの場で隆はぽつりと言った。

「父の日記を読んだら、俺の話が全部書いてありました。同じ悩みで、ずっと」

 由美が「そっか・・」と言った。

 徹が「俺も読み返してみようかな、うちの父親の」と言った。

 洋平は何も言わなかった。

 でもノートに何かを書きとめていた。

 隆はそれを見て、少しだけ口元が緩んだ。

 洋平はいつも、誰かの言葉を忘れないように書き留めていた。

 子どもの頃からそうだった。

 それが変わっていないのが、何となく嬉しかった。


 一週間後。

 隆の部署に、四月から新しい社員が入ってきた。

 小柄で、少し不器用そうで、でも礼儀正しい青年だった。

 初日、隆に名刺を差し出して「よろしくお願いします」と深々と頭を下げた。

 名刺に目を落として、隆は一瞬だけ動きを止めた。

 苗字が「誠川」とある。

 誠川・・誠。


 どこかで聞いた名前だった。

 記憶の中を探って、ああ、と思い当たった。

 小学校の同級生の誠。

 刑事になった、あの誠の苗字だ。

「・・誠川さんって、ひょっとしてお父さんが警察官だったりする?」

 青年は少し驚いた顔をして、「は、はい。なぜわかるんですか?」と言った。

 隆は小さく笑った。

「縁ってあるもんだ」


 青年は何のことかわからず首をかしげたが、隆はそれ以上説明せず、「仕事、一緒に覚えていこう」と言って、部署の中を案内し始めた。  

 今度は、怒鳴らないようにしよう、と思いながら。  隆が自分の声に気づいたのは、怒鳴り終わってからのことだった。

  「だから言ったじゃないですか! 数字が合ってないって、先週も確認しろって言ったでしょう!」

   営業部の島にいる全員が、ちらりと視線を上げた。

 そして何事もなかったかのように、また画面に目を戻した。

 もう慣れているのだ。隆が怒鳴るのは珍しいことではなかった。

 

 相手の田中は、新卒三年目の真面目な若手だった。

 肩が小さくなり、「すみません」と繰り返した。

 隆はもう一言言いかけて・・それを飲み込んだ。

 飲み込んだ自分に、少しだけほっとした。

  「・・やり直してくれ。夕方までに」

   そう言って席に戻り、デスクの引き出しを開けた。

 何を取り出すつもりだったのかわからなくなって、そのまま閉めた。

 

 窓の外、曇り空。

 廊下の先のトイレに立ち、洗面台の前に立った。

 蛍光灯の白い光の中で、スーツの上着を着た四十二歳の男が鏡の中に立っていた。

 隆は、その男から目を逸らせなかった。

 額の皺。

 眉間の刻み。すっと立った顎の線。

 伏し目がちの目。怒ったときに唇の端が少し下がる癖・・。

「・・お父さん」

 声に出してしまってから、急いで蛇口を開いた。

 水音で消した。

 誰もいなかったが、消した。


 隆の父、田辺義雄は、隆が記憶している限り、ほとんど笑わない男だった。

 仕事から帰ってくると、まず靴を音を立てて脱ぎ、廊下を歩き、居間のソファに座って、何も言わなかった。

 夕食の間も無口で、テレビを見ながらときどき舌打ちをして、母が何か話しかけると「ん」か「そうか」で返した。

 腹が立ったときは声が大きくなった。

 特別に意地悪な人間ではなかったと思う。

 だが、優しくもなかった。

 話しかけると「うるさい」と言われることがあった。

 通知表を見せると「もっと頑張れ」と言われた。

 うれしい話をしても「そうか」と言われた。

 隆は子どもの頃から、父が苦手だった。


 苦手というより、嫌いだった。

 その人が家にいると、空気が重くなる気がした。

 笑えなかった。

 夕方、玄関の引き戸が開く音がするたびに、何とも言えない緊張が胸に走った。

 だから学校から帰っても、父が帰宅する時間が来ると自分の部屋に入り、夕食が終わるとまた部屋に戻った。

 そうして三十年。

 今、隆は自分の部屋から出られない息子を持っていた。


 教室に向かうとき、隆はいつもより十分早く家を出る。

 会社の近くに廃校がある。

 正確には会社から少し離れているが、遠回りしていくほどの距離ではない。

 洋平から電話をもらったとき、最初は断ろうと思った。

 三十年ぶりに小学校の同級生に会う気力が、そのときの隆にはなかった。

 でも断れなかった。

 洋平の声のせいだったと思う。

 電話口で「みんな来るから」と言った声が、なぜかあの頃の洋平の声とぴったり重なった。

 学級委員長だった洋平が、遠足の集合場所で「みんな来てるか?」と確認するときの、あの真剣な声と。

 一度だけ、と思って来た。

 それが半年経つ今も、隆はここに来ている。

 毎週ではないが、月に二、三度は顔を出す。

 理由を問われてもうまく答えられないが、たぶん、ここにいる間だけ、隆は「隆」でいられるのだと思う。

 部長でも、父親でも、息子でもなく、ただの「田辺隆」でいられる。

 今日は、自分の手紙を読む番だった。


「読む?」

 洋平が封筒を差し出した。

 隆は受け取り、しばらく眺めた。

 表に「田辺隆くんへ」と書いてある。

 サインペンで書かれた字は茶色く滲んでいて、三十年前のものだと一目でわかった。

「声に出す?」

 由美が「声に出して!」と言い、徹が「そうそう」とうなずいた。


 隆は封筒の端を指でなぞって、ゆっくりと開いた。

 中から二つ折りの便箋が出てきた。

 罫線のある白い紙に、小学生の丸っこい字が並んでいる。

 隆は、一度だけ小さく息をついてから、声に出して読み始めた。


「ぼくは三十年後、えいぎょう会社の社員になっています。たくさん仕事をして、お金を稼ぎます。けっこんして、子どもが二人います」

「おお」と誰かが言った。

「いちばん大事なことは、お父さんにはなりません」

 教室が静かになった。

 隆は手紙から目を上げなかった。

「いつもぶすっとしていて、しゃべらなくて、おこってばかりのお父さんにはなりません。ぼくは、子どもといっぱいしゃべって、いっぱいわらって、ありがとうって言える大人になります。たのしいお父さんになります。ぜったいに」

「ぜったいに」という字のところで、元の字より少し太く書いてあった。力を込めたのだと思う。


 隆は手紙をゆっくり折りたたんで、テーブルに置いた。

「・・叶いませんでした」

 誰かが笑おうとして、でも笑えなかった。

「営業部の部長にはなりましたよ。結婚して、子どもも二人います。で、怒鳴ってばかりです。先週も部下を怒鳴った。子どもは・・、最近、あまり話してくれない」

 隆は視線を窓の外に向けた。曇り空が広がっていた。

「父にそっくりです」

 由美がそっと「隆・・」と呼んだ。

 隆は「大丈夫です」と言ったが、窓から目を離せなかった。


 その夜、隆は実家に電話をかけた。

 父は三年前に脳梗塞で倒れ、今は母と二人でひっそりと暮らしている。

 自分では歩けるが、長い会話は疲れると言う。

 隆が電話をかけるのは、正月と盆と、あとは母の誕生日くらいだった。

「もしもし」

 電話口の声は、以前より少し細くなっていた。

「俺。隆」

「ああ・・なんだ、どうした」

 相変わらず愛想がない。

 それでも隆は、今日は切ろうと思わなかった。

「お父さんの昔の日記って、まだ家にある?」

 少し間があった。

「・・なんで日記を」

  「ちょっと見たくなった」

 また間があった。

 今度は長かった。


「本棚の奥に入れてある。持っていきたいなら持って行け。捨てようとして、捨てられなかった」

「わかった」

「・・なんかあったか」

 隆は少しだけ考えた。

「なんかあった、というより・・自分が嫌になった」

「そうか」

 いつもの「そうか」だった。

 しかし今日は、その声の中に何か違うものを感じた気がした。

 あるいは、感じたかっただけかもしれない。

「また今度行く」

「ああ」

 電話を切った後、隆はしばらく画面を見つめた。


 翌週末、隆は一人で実家に向かった。

 玄関を開けると母が出てきて、「お父さん、昼寝してる」と言った。隆は「起こさなくていい」と言い、本棚のある小部屋に入った。

 古い文庫本と辞書に挟まれて、ノートが三冊重なっていた。

 表紙に「日記」とだけ書いてある。

 父の字ではなく、手芸用のマジックで母が書いたような字だった。

 整理したのは母なのだろう。


 隆は、一番古いノートを手に取った。

 開くと、父が三十代の頃の字があった。

 今の隆より少し若い頃の字だ。


 今日も怒鳴ってしまった。

 隆に。

 宿題をなぜやらないのかと聞いたら、言い訳ばかりするから、つい声が大きくなった。

 あとで後悔した。

 後悔するなら最初からやるなと、自分でも思う。

 でもできない。

 なぜできないのかわからない。

 自分の父親がそうだったから、そうなってしまうのかもしれない。


 隆は、ページをめくる手が止まった。


 隆が朝、学校に行く前に声をかけてきた。

 何を言ったのか、うまく聞き取れなかった。

「行ってきます」だったかもしれない。

 俺は「ああ」と言ってしまった。

 なぜもっとちゃんと答えられないのか。

 玄関の音が閉まった後、しばらく動けなかった。


 隆の通知表を見た。

 前より点が上がっていた。

「よく頑張った」と言うつもりだった。

 でも「もっと頑張れ」と言ってしまった。

 なぜそうなるのか。自分でも意味がわからない。

 良かったと思っているのに、なぜそう言えないのか。


 隆は、ページを閉じることができなかった。

 文字は乱れていなかった。

 父は字がきれいだった。

 けれどその字が並ぶたびに、どこかに力が入りすぎているような、押さえつけるような、そんな書き方だった。

 もう一ページ。


 今日、仕事で大きなミスをした。

 取引先の担当者が怒鳴ってきた。

 俺は謝った。

 上司にも怒鳴られた。

 帰り道、電車の中で、ずっと窓の外を見ていた。

 家に帰ったら、隆が居間でテレビを見ていた。

 俺の顔を見て、すぐに部屋に入ってしまった。

 それが一番きつかった。

 自分が帰ってくると、息子が部屋に逃げる。

 それが三十年後も続くのかと思うと、なんとも言えない気持ちになった。


 隆は、膝の上でノートを閉じた。

 小部屋の古い時計が、ゆっくりと刻んでいた。

 父が仕事から帰ってくるとき、玄関の引き戸が開く音がした。

 あの音が怖かった。

 父が来ると、空気が重くなると思っていた。

 でも父は、あの引き戸を開けるたびに、逃げていく息子の背中を見ていた。

 帰ってきた、という気持ちよりも、また逃げられた、という気持ちで、ソファに座っていたのかもしれない。

 だから無口だったのかもしれない。

 怒鳴ったのも、怒鳴り方しか知らなかったからかもしれない。


 隆は、目が熱くなっていることに気づいた。

 泣くつもりはなかった。

 ただ、知らなかった、と思った。

 父がそんなことを考えていたとは、一度も思わなかった。

「父もこうして悩んでいたのか」という言葉が、声にならずに喉の中で転がった。


 廊下に物音がして、隆は顔を上げた。

 父が昼寝から覚めて廊下を歩いていた。

 腰が少し曲がっている。

 杖はついていないが、壁に手を当てながら歩いていた。

 隆が戸口に立っていることに気づくと、父は一瞬だけ足を止めた。

「来てたのか」

「うん。日記、借りていいか」

 父はしばらく隆を見た。

 目が細くなった。

 怒っているのではなく、まぶしいものを見ているような目だった。

「・・恥ずかしいものが書いてあるぞ」

「知ってる。もう読んだ」

「そうか」

 父は「そうか」と言って、廊下を歩き続けた。

 台所のほうへ向かっていった。


 隆は父の背中を見た。

 丸くなった肩。

 細くなった首。

 それでもまだ、歩き方に少しだけ頑固さが残っている。

「お父さん」

 父が振り返った。

「・・子どもの頃、俺が怖くしてたか」

 父の表情が、一瞬だけ止まった。

 それからゆっくりと、何かを確かめるような顔になった。

「わからん」

「そうか」

「ただ、お前が部屋に入るたびに、俺の声が大きすぎたと、あとで思っていた」

 それだけ言って、父は台所へ消えた。


 隆は廊下に一人立っていた。

 外から秋の日差しが窓を通して入ってきて、廊下の木目を薄く照らした。

 子どもの頃の廊下と同じ廊下だった。

 同じ光だった。

 ただ、自分の目が違うだけで、こんなにも違って見えるものなのか。


 実家から帰る夜、隆はスマートフォンを開いた。

 息子の連絡先。

 弘樹、と書いてある。

 二十歳になった息子は今、大学の近くで一人暮らしをしている。

 隆とはほとんど話さない。

 盆と正月に帰ってくるが、食事の間はスマートフォンを見ていることが多く、隆も何を話していいかわからず、二人の間に会話のない時間が続いた。


 隆は、発信ボタンを押した。

 三回コールして、「・・なに」と弘樹が出た。

「俺。」

「知ってる。何」

 電話口の声は乾いていた。

 警戒しているような、面倒くさそうな、隆が子どもの頃に父に感じていた、あの空気と同じだった。

 今度は自分がその原因なのだということが、この年齢になってようやくわかった。

「いや・・ちょっと聞いてほしいことがあって」

「何を」

 隆は少し考えた。

 何から話せばいいかわからなかった。

 タイムカプセルのことを話すべきか、父の日記のことを話すべきか。

 でもそういう「説明」より先に、言わなければならないことがあると思った。

「父さん、お前に怒鳴ってたな。子どもの頃」

 少し間があった。

「・・まあ」

「嫌だったと思う」

 また間があった。

 今度は長かった。

 

「・・別に」

「俺は、じいちゃんが嫌いだった。声が大きくて、怖くて、ちゃんと話を聞いてくれなかった。でも今日、じいちゃんの昔の日記を読んで・・、同じことで悩んでたんだとわかった。じいちゃんも、俺も、たぶんお前も、みんな同じことで悩んでる」

 電話の向こうが静かになった。

「・・俺は、弘樹に怖い父さんだったと思う。今も、たぶんそうだ。なぜかわからないけど、声が大きくなる。すぐに正論を言いたくなる。でもな、お前が部屋に入るたびに・・」

 喉が少し詰まった。

「俺も、後悔してた」

 弘樹は何も言わなかった。

 しばらく沈黙が続いた。


 それから、小さな声で「・・知らなかった」と聞こえた。

 隆は「そうだよな」とだけ言った。

「今度、飯でも食わないか」

 また間があった。

「・・考える」

「そうか」

 電話が切れた。


 隆は夜道に立っていた。街灯が水たまりに映っていた。

「考える」と言った。

 断らなかった。

 隆の父も、きっと似たような答え方をしたのだろう。

 そういう家系なのかもしれない。

 でも、「考える」は、「嫌だ」ではない。


 父から受け取ったもの。

 自分が息子に渡してしまったもの。

 そして今夜、少しだけ形が変わったかもしれないもの。

 嫌悪と理解の間にあるものには、名前がない。

 でもそれは確かに、温かいものだった。

 隆はゆっくりと歩き出した。

 帰り道に、父の日記を入れた鞄が揺れた。


 翌週、集まりの場で隆はぽつりと言った。

「父の日記を読んだら、俺の話が全部書いてありました。同じ悩みで、ずっと」

 由美が「そっか・・」と言った。

 徹が「俺も読み返してみようかな、うちの父親の」と言った。

 洋平は何も言わなかった。

 でもノートに何かを書きとめていた。

 隆はそれを見て、少しだけ口元が緩んだ。

 洋平はいつも、誰かの言葉を忘れないように書き留めていた。

 子どもの頃からそうだった。

 それが変わっていないのが、何となく嬉しかった。


 一週間後。

 隆の部署に、四月から新しい社員が入ってきた。

 小柄で、少し不器用そうで、でも礼儀正しい青年だった。

 初日、隆に名刺を差し出して「よろしくお願いします」と深々と頭を下げた。

 名刺に目を落として、隆は一瞬だけ動きを止めた。

 苗字が「誠川」とある。

 誠川・・誠。


 どこかで聞いた名前だった。

 記憶の中を探って、ああ、と思い当たった。

 小学校の同級生の誠。

 刑事になった、あの誠の苗字だ。

「・・誠川さんって、ひょっとしてお父さんが警察官だったりする?」

 青年は少し驚いた顔をして、「は、はい。なぜわかるんですか?」と言った。

 隆は小さく笑った。

「縁ってあるもんだ」


 青年は何のことかわからず首をかしげたが、隆はそれ以上説明せず、「仕事、一緒に覚えていこう」と言って、部署の中を案内し始めた。  

 今度は、怒鳴らないようにしよう、と思いながら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。