第20話 お父さんにはなりません
隆が自分の声に気づいたのは、怒鳴り終わってからのことだった。
「だから言ったじゃないですか! 数字が合ってないって、先週も確認しろって言ったでしょう!」
営業部の島にいる全員が、ちらりと視線を上げた。
そして何事もなかったかのように、また画面に目を戻した。
もう慣れているのだ。隆が怒鳴るのは珍しいことではなかった。
相手の田中は、新卒三年目の真面目な若手だった。
肩が小さくなり、「すみません」と繰り返した。
隆はもう一言言いかけて・・それを飲み込んだ。
飲み込んだ自分に、少しだけほっとした。
「・・やり直してくれ。夕方までに」
そう言って席に戻り、デスクの引き出しを開けた。
何を取り出すつもりだったのかわからなくなって、そのまま閉めた。
窓の外、曇り空。
廊下の先のトイレに立ち、洗面台の前に立った。
蛍光灯の白い光の中で、スーツの上着を着た四十二歳の男が鏡の中に立っていた。
隆は、その男から目を逸らせなかった。
額の皺。
眉間の刻み。すっと立った顎の線。
伏し目がちの目。怒ったときに唇の端が少し下がる癖・・。
「・・お父さん」
声に出してしまってから、急いで蛇口を開いた。
水音で消した。
誰もいなかったが、消した。
隆の父、田辺義雄は、隆が記憶している限り、ほとんど笑わない男だった。
仕事から帰ってくると、まず靴を音を立てて脱ぎ、廊下を歩き、居間のソファに座って、何も言わなかった。
夕食の間も無口で、テレビを見ながらときどき舌打ちをして、母が何か話しかけると「ん」か「そうか」で返した。
腹が立ったときは声が大きくなった。
特別に意地悪な人間ではなかったと思う。
だが、優しくもなかった。
話しかけると「うるさい」と言われることがあった。
通知表を見せると「もっと頑張れ」と言われた。
うれしい話をしても「そうか」と言われた。
隆は子どもの頃から、父が苦手だった。
苦手というより、嫌いだった。
その人が家にいると、空気が重くなる気がした。
笑えなかった。
夕方、玄関の引き戸が開く音がするたびに、何とも言えない緊張が胸に走った。
だから学校から帰っても、父が帰宅する時間が来ると自分の部屋に入り、夕食が終わるとまた部屋に戻った。
そうして三十年。
今、隆は自分の部屋から出られない息子を持っていた。
教室に向かうとき、隆はいつもより十分早く家を出る。
会社の近くに廃校がある。
正確には会社から少し離れているが、遠回りしていくほどの距離ではない。
洋平から電話をもらったとき、最初は断ろうと思った。
三十年ぶりに小学校の同級生に会う気力が、そのときの隆にはなかった。
でも断れなかった。
洋平の声のせいだったと思う。
電話口で「みんな来るから」と言った声が、なぜかあの頃の洋平の声とぴったり重なった。
学級委員長だった洋平が、遠足の集合場所で「みんな来てるか?」と確認するときの、あの真剣な声と。
一度だけ、と思って来た。
それが半年経つ今も、隆はここに来ている。
毎週ではないが、月に二、三度は顔を出す。
理由を問われてもうまく答えられないが、たぶん、ここにいる間だけ、隆は「隆」でいられるのだと思う。
部長でも、父親でも、息子でもなく、ただの「田辺隆」でいられる。
今日は、自分の手紙を読む番だった。
「読む?」
洋平が封筒を差し出した。
隆は受け取り、しばらく眺めた。
表に「田辺隆くんへ」と書いてある。
サインペンで書かれた字は茶色く滲んでいて、三十年前のものだと一目でわかった。
「声に出す?」
由美が「声に出して!」と言い、徹が「そうそう」とうなずいた。
隆は封筒の端を指でなぞって、ゆっくりと開いた。
中から二つ折りの便箋が出てきた。
罫線のある白い紙に、小学生の丸っこい字が並んでいる。
隆は、一度だけ小さく息をついてから、声に出して読み始めた。
「ぼくは三十年後、えいぎょう会社の社員になっています。たくさん仕事をして、お金を稼ぎます。けっこんして、子どもが二人います」
「おお」と誰かが言った。
「いちばん大事なことは、お父さんにはなりません」
教室が静かになった。
隆は手紙から目を上げなかった。
「いつもぶすっとしていて、しゃべらなくて、おこってばかりのお父さんにはなりません。ぼくは、子どもといっぱいしゃべって、いっぱいわらって、ありがとうって言える大人になります。たのしいお父さんになります。ぜったいに」
「ぜったいに」という字のところで、元の字より少し太く書いてあった。力を込めたのだと思う。
隆は手紙をゆっくり折りたたんで、テーブルに置いた。
「・・叶いませんでした」
誰かが笑おうとして、でも笑えなかった。
「営業部の部長にはなりましたよ。結婚して、子どもも二人います。で、怒鳴ってばかりです。先週も部下を怒鳴った。子どもは・・、最近、あまり話してくれない」
隆は視線を窓の外に向けた。曇り空が広がっていた。
「父にそっくりです」
由美がそっと「隆・・」と呼んだ。
隆は「大丈夫です」と言ったが、窓から目を離せなかった。
その夜、隆は実家に電話をかけた。
父は三年前に脳梗塞で倒れ、今は母と二人でひっそりと暮らしている。
自分では歩けるが、長い会話は疲れると言う。
隆が電話をかけるのは、正月と盆と、あとは母の誕生日くらいだった。
「もしもし」
電話口の声は、以前より少し細くなっていた。
「俺。隆」
「ああ・・なんだ、どうした」
相変わらず愛想がない。
それでも隆は、今日は切ろうと思わなかった。
「お父さんの昔の日記って、まだ家にある?」
少し間があった。
「・・なんで日記を」
「ちょっと見たくなった」
また間があった。
今度は長かった。
「本棚の奥に入れてある。持っていきたいなら持って行け。捨てようとして、捨てられなかった」
「わかった」
「・・なんかあったか」
隆は少しだけ考えた。
「なんかあった、というより・・自分が嫌になった」
「そうか」
いつもの「そうか」だった。
しかし今日は、その声の中に何か違うものを感じた気がした。
あるいは、感じたかっただけかもしれない。
「また今度行く」
「ああ」
電話を切った後、隆はしばらく画面を見つめた。
翌週末、隆は一人で実家に向かった。
玄関を開けると母が出てきて、「お父さん、昼寝してる」と言った。隆は「起こさなくていい」と言い、本棚のある小部屋に入った。
古い文庫本と辞書に挟まれて、ノートが三冊重なっていた。
表紙に「日記」とだけ書いてある。
父の字ではなく、手芸用のマジックで母が書いたような字だった。
整理したのは母なのだろう。
隆は、一番古いノートを手に取った。
開くと、父が三十代の頃の字があった。
今の隆より少し若い頃の字だ。
今日も怒鳴ってしまった。
隆に。
宿題をなぜやらないのかと聞いたら、言い訳ばかりするから、つい声が大きくなった。
あとで後悔した。
後悔するなら最初からやるなと、自分でも思う。
でもできない。
なぜできないのかわからない。
自分の父親がそうだったから、そうなってしまうのかもしれない。
隆は、ページをめくる手が止まった。
隆が朝、学校に行く前に声をかけてきた。
何を言ったのか、うまく聞き取れなかった。
「行ってきます」だったかもしれない。
俺は「ああ」と言ってしまった。
なぜもっとちゃんと答えられないのか。
玄関の音が閉まった後、しばらく動けなかった。
隆の通知表を見た。
前より点が上がっていた。
「よく頑張った」と言うつもりだった。
でも「もっと頑張れ」と言ってしまった。
なぜそうなるのか。自分でも意味がわからない。
良かったと思っているのに、なぜそう言えないのか。
隆は、ページを閉じることができなかった。
文字は乱れていなかった。
父は字がきれいだった。
けれどその字が並ぶたびに、どこかに力が入りすぎているような、押さえつけるような、そんな書き方だった。
もう一ページ。
今日、仕事で大きなミスをした。
取引先の担当者が怒鳴ってきた。
俺は謝った。
上司にも怒鳴られた。
帰り道、電車の中で、ずっと窓の外を見ていた。
家に帰ったら、隆が居間でテレビを見ていた。
俺の顔を見て、すぐに部屋に入ってしまった。
それが一番きつかった。
自分が帰ってくると、息子が部屋に逃げる。
それが三十年後も続くのかと思うと、なんとも言えない気持ちになった。
隆は、膝の上でノートを閉じた。
小部屋の古い時計が、ゆっくりと刻んでいた。
父が仕事から帰ってくるとき、玄関の引き戸が開く音がした。
あの音が怖かった。
父が来ると、空気が重くなると思っていた。
でも父は、あの引き戸を開けるたびに、逃げていく息子の背中を見ていた。
帰ってきた、という気持ちよりも、また逃げられた、という気持ちで、ソファに座っていたのかもしれない。
だから無口だったのかもしれない。
怒鳴ったのも、怒鳴り方しか知らなかったからかもしれない。
隆は、目が熱くなっていることに気づいた。
泣くつもりはなかった。
ただ、知らなかった、と思った。
父がそんなことを考えていたとは、一度も思わなかった。
「父もこうして悩んでいたのか」という言葉が、声にならずに喉の中で転がった。
廊下に物音がして、隆は顔を上げた。
父が昼寝から覚めて廊下を歩いていた。
腰が少し曲がっている。
杖はついていないが、壁に手を当てながら歩いていた。
隆が戸口に立っていることに気づくと、父は一瞬だけ足を止めた。
「来てたのか」
「うん。日記、借りていいか」
父はしばらく隆を見た。
目が細くなった。
怒っているのではなく、まぶしいものを見ているような目だった。
「・・恥ずかしいものが書いてあるぞ」
「知ってる。もう読んだ」
「そうか」
父は「そうか」と言って、廊下を歩き続けた。
台所のほうへ向かっていった。
隆は父の背中を見た。
丸くなった肩。
細くなった首。
それでもまだ、歩き方に少しだけ頑固さが残っている。
「お父さん」
父が振り返った。
「・・子どもの頃、俺が怖くしてたか」
父の表情が、一瞬だけ止まった。
それからゆっくりと、何かを確かめるような顔になった。
「わからん」
「そうか」
「ただ、お前が部屋に入るたびに、俺の声が大きすぎたと、あとで思っていた」
それだけ言って、父は台所へ消えた。
隆は廊下に一人立っていた。
外から秋の日差しが窓を通して入ってきて、廊下の木目を薄く照らした。
子どもの頃の廊下と同じ廊下だった。
同じ光だった。
ただ、自分の目が違うだけで、こんなにも違って見えるものなのか。
実家から帰る夜、隆はスマートフォンを開いた。
息子の連絡先。
弘樹、と書いてある。
二十歳になった息子は今、大学の近くで一人暮らしをしている。
隆とはほとんど話さない。
盆と正月に帰ってくるが、食事の間はスマートフォンを見ていることが多く、隆も何を話していいかわからず、二人の間に会話のない時間が続いた。
隆は、発信ボタンを押した。
三回コールして、「・・なに」と弘樹が出た。
「俺。」
「知ってる。何」
電話口の声は乾いていた。
警戒しているような、面倒くさそうな、隆が子どもの頃に父に感じていた、あの空気と同じだった。
今度は自分がその原因なのだということが、この年齢になってようやくわかった。
「いや・・ちょっと聞いてほしいことがあって」
「何を」
隆は少し考えた。
何から話せばいいかわからなかった。
タイムカプセルのことを話すべきか、父の日記のことを話すべきか。
でもそういう「説明」より先に、言わなければならないことがあると思った。
「父さん、お前に怒鳴ってたな。子どもの頃」
少し間があった。
「・・まあ」
「嫌だったと思う」
また間があった。
今度は長かった。
「・・別に」
「俺は、じいちゃんが嫌いだった。声が大きくて、怖くて、ちゃんと話を聞いてくれなかった。でも今日、じいちゃんの昔の日記を読んで・・、同じことで悩んでたんだとわかった。じいちゃんも、俺も、たぶんお前も、みんな同じことで悩んでる」
電話の向こうが静かになった。
「・・俺は、弘樹に怖い父さんだったと思う。今も、たぶんそうだ。なぜかわからないけど、声が大きくなる。すぐに正論を言いたくなる。でもな、お前が部屋に入るたびに・・」
喉が少し詰まった。
「俺も、後悔してた」
弘樹は何も言わなかった。
しばらく沈黙が続いた。
それから、小さな声で「・・知らなかった」と聞こえた。
隆は「そうだよな」とだけ言った。
「今度、飯でも食わないか」
また間があった。
「・・考える」
「そうか」
電話が切れた。
隆は夜道に立っていた。街灯が水たまりに映っていた。
「考える」と言った。
断らなかった。
隆の父も、きっと似たような答え方をしたのだろう。
そういう家系なのかもしれない。
でも、「考える」は、「嫌だ」ではない。
父から受け取ったもの。
自分が息子に渡してしまったもの。
そして今夜、少しだけ形が変わったかもしれないもの。
嫌悪と理解の間にあるものには、名前がない。
でもそれは確かに、温かいものだった。
隆はゆっくりと歩き出した。
帰り道に、父の日記を入れた鞄が揺れた。
翌週、集まりの場で隆はぽつりと言った。
「父の日記を読んだら、俺の話が全部書いてありました。同じ悩みで、ずっと」
由美が「そっか・・」と言った。
徹が「俺も読み返してみようかな、うちの父親の」と言った。
洋平は何も言わなかった。
でもノートに何かを書きとめていた。
隆はそれを見て、少しだけ口元が緩んだ。
洋平はいつも、誰かの言葉を忘れないように書き留めていた。
子どもの頃からそうだった。
それが変わっていないのが、何となく嬉しかった。
一週間後。
隆の部署に、四月から新しい社員が入ってきた。
小柄で、少し不器用そうで、でも礼儀正しい青年だった。
初日、隆に名刺を差し出して「よろしくお願いします」と深々と頭を下げた。
名刺に目を落として、隆は一瞬だけ動きを止めた。
苗字が「誠川」とある。
誠川・・誠。
どこかで聞いた名前だった。
記憶の中を探って、ああ、と思い当たった。
小学校の同級生の誠。
刑事になった、あの誠の苗字だ。
「・・誠川さんって、ひょっとしてお父さんが警察官だったりする?」
青年は少し驚いた顔をして、「は、はい。なぜわかるんですか?」と言った。
隆は小さく笑った。
「縁ってあるもんだ」
青年は何のことかわからず首をかしげたが、隆はそれ以上説明せず、「仕事、一緒に覚えていこう」と言って、部署の中を案内し始めた。
今度は、怒鳴らないようにしよう、と思いながら。 隆が自分の声に気づいたのは、怒鳴り終わってからのことだった。
「だから言ったじゃないですか! 数字が合ってないって、先週も確認しろって言ったでしょう!」
営業部の島にいる全員が、ちらりと視線を上げた。
そして何事もなかったかのように、また画面に目を戻した。
もう慣れているのだ。隆が怒鳴るのは珍しいことではなかった。
相手の田中は、新卒三年目の真面目な若手だった。
肩が小さくなり、「すみません」と繰り返した。
隆はもう一言言いかけて・・それを飲み込んだ。
飲み込んだ自分に、少しだけほっとした。
「・・やり直してくれ。夕方までに」
そう言って席に戻り、デスクの引き出しを開けた。
何を取り出すつもりだったのかわからなくなって、そのまま閉めた。
窓の外、曇り空。
廊下の先のトイレに立ち、洗面台の前に立った。
蛍光灯の白い光の中で、スーツの上着を着た四十二歳の男が鏡の中に立っていた。
隆は、その男から目を逸らせなかった。
額の皺。
眉間の刻み。すっと立った顎の線。
伏し目がちの目。怒ったときに唇の端が少し下がる癖・・。
「・・お父さん」
声に出してしまってから、急いで蛇口を開いた。
水音で消した。
誰もいなかったが、消した。
隆の父、田辺義雄は、隆が記憶している限り、ほとんど笑わない男だった。
仕事から帰ってくると、まず靴を音を立てて脱ぎ、廊下を歩き、居間のソファに座って、何も言わなかった。
夕食の間も無口で、テレビを見ながらときどき舌打ちをして、母が何か話しかけると「ん」か「そうか」で返した。
腹が立ったときは声が大きくなった。
特別に意地悪な人間ではなかったと思う。
だが、優しくもなかった。
話しかけると「うるさい」と言われることがあった。
通知表を見せると「もっと頑張れ」と言われた。
うれしい話をしても「そうか」と言われた。
隆は子どもの頃から、父が苦手だった。
苦手というより、嫌いだった。
その人が家にいると、空気が重くなる気がした。
笑えなかった。
夕方、玄関の引き戸が開く音がするたびに、何とも言えない緊張が胸に走った。
だから学校から帰っても、父が帰宅する時間が来ると自分の部屋に入り、夕食が終わるとまた部屋に戻った。
そうして三十年。
今、隆は自分の部屋から出られない息子を持っていた。
教室に向かうとき、隆はいつもより十分早く家を出る。
会社の近くに廃校がある。
正確には会社から少し離れているが、遠回りしていくほどの距離ではない。
洋平から電話をもらったとき、最初は断ろうと思った。
三十年ぶりに小学校の同級生に会う気力が、そのときの隆にはなかった。
でも断れなかった。
洋平の声のせいだったと思う。
電話口で「みんな来るから」と言った声が、なぜかあの頃の洋平の声とぴったり重なった。
学級委員長だった洋平が、遠足の集合場所で「みんな来てるか?」と確認するときの、あの真剣な声と。
一度だけ、と思って来た。
それが半年経つ今も、隆はここに来ている。
毎週ではないが、月に二、三度は顔を出す。
理由を問われてもうまく答えられないが、たぶん、ここにいる間だけ、隆は「隆」でいられるのだと思う。
部長でも、父親でも、息子でもなく、ただの「田辺隆」でいられる。
今日は、自分の手紙を読む番だった。
「読む?」
洋平が封筒を差し出した。
隆は受け取り、しばらく眺めた。
表に「田辺隆くんへ」と書いてある。
サインペンで書かれた字は茶色く滲んでいて、三十年前のものだと一目でわかった。
「声に出す?」
由美が「声に出して!」と言い、徹が「そうそう」とうなずいた。
隆は封筒の端を指でなぞって、ゆっくりと開いた。
中から二つ折りの便箋が出てきた。
罫線のある白い紙に、小学生の丸っこい字が並んでいる。
隆は、一度だけ小さく息をついてから、声に出して読み始めた。
「ぼくは三十年後、えいぎょう会社の社員になっています。たくさん仕事をして、お金を稼ぎます。けっこんして、子どもが二人います」
「おお」と誰かが言った。
「いちばん大事なことは、お父さんにはなりません」
教室が静かになった。
隆は手紙から目を上げなかった。
「いつもぶすっとしていて、しゃべらなくて、おこってばかりのお父さんにはなりません。ぼくは、子どもといっぱいしゃべって、いっぱいわらって、ありがとうって言える大人になります。たのしいお父さんになります。ぜったいに」
「ぜったいに」という字のところで、元の字より少し太く書いてあった。力を込めたのだと思う。
隆は手紙をゆっくり折りたたんで、テーブルに置いた。
「・・叶いませんでした」
誰かが笑おうとして、でも笑えなかった。
「営業部の部長にはなりましたよ。結婚して、子どもも二人います。で、怒鳴ってばかりです。先週も部下を怒鳴った。子どもは・・、最近、あまり話してくれない」
隆は視線を窓の外に向けた。曇り空が広がっていた。
「父にそっくりです」
由美がそっと「隆・・」と呼んだ。
隆は「大丈夫です」と言ったが、窓から目を離せなかった。
その夜、隆は実家に電話をかけた。
父は三年前に脳梗塞で倒れ、今は母と二人でひっそりと暮らしている。
自分では歩けるが、長い会話は疲れると言う。
隆が電話をかけるのは、正月と盆と、あとは母の誕生日くらいだった。
「もしもし」
電話口の声は、以前より少し細くなっていた。
「俺。隆」
「ああ・・なんだ、どうした」
相変わらず愛想がない。
それでも隆は、今日は切ろうと思わなかった。
「お父さんの昔の日記って、まだ家にある?」
少し間があった。
「・・なんで日記を」
「ちょっと見たくなった」
また間があった。
今度は長かった。
「本棚の奥に入れてある。持っていきたいなら持って行け。捨てようとして、捨てられなかった」
「わかった」
「・・なんかあったか」
隆は少しだけ考えた。
「なんかあった、というより・・自分が嫌になった」
「そうか」
いつもの「そうか」だった。
しかし今日は、その声の中に何か違うものを感じた気がした。
あるいは、感じたかっただけかもしれない。
「また今度行く」
「ああ」
電話を切った後、隆はしばらく画面を見つめた。
翌週末、隆は一人で実家に向かった。
玄関を開けると母が出てきて、「お父さん、昼寝してる」と言った。隆は「起こさなくていい」と言い、本棚のある小部屋に入った。
古い文庫本と辞書に挟まれて、ノートが三冊重なっていた。
表紙に「日記」とだけ書いてある。
父の字ではなく、手芸用のマジックで母が書いたような字だった。
整理したのは母なのだろう。
隆は、一番古いノートを手に取った。
開くと、父が三十代の頃の字があった。
今の隆より少し若い頃の字だ。
今日も怒鳴ってしまった。
隆に。
宿題をなぜやらないのかと聞いたら、言い訳ばかりするから、つい声が大きくなった。
あとで後悔した。
後悔するなら最初からやるなと、自分でも思う。
でもできない。
なぜできないのかわからない。
自分の父親がそうだったから、そうなってしまうのかもしれない。
隆は、ページをめくる手が止まった。
隆が朝、学校に行く前に声をかけてきた。
何を言ったのか、うまく聞き取れなかった。
「行ってきます」だったかもしれない。
俺は「ああ」と言ってしまった。
なぜもっとちゃんと答えられないのか。
玄関の音が閉まった後、しばらく動けなかった。
隆の通知表を見た。
前より点が上がっていた。
「よく頑張った」と言うつもりだった。
でも「もっと頑張れ」と言ってしまった。
なぜそうなるのか。自分でも意味がわからない。
良かったと思っているのに、なぜそう言えないのか。
隆は、ページを閉じることができなかった。
文字は乱れていなかった。
父は字がきれいだった。
けれどその字が並ぶたびに、どこかに力が入りすぎているような、押さえつけるような、そんな書き方だった。
もう一ページ。
今日、仕事で大きなミスをした。
取引先の担当者が怒鳴ってきた。
俺は謝った。
上司にも怒鳴られた。
帰り道、電車の中で、ずっと窓の外を見ていた。
家に帰ったら、隆が居間でテレビを見ていた。
俺の顔を見て、すぐに部屋に入ってしまった。
それが一番きつかった。
自分が帰ってくると、息子が部屋に逃げる。
それが三十年後も続くのかと思うと、なんとも言えない気持ちになった。
隆は、膝の上でノートを閉じた。
小部屋の古い時計が、ゆっくりと刻んでいた。
父が仕事から帰ってくるとき、玄関の引き戸が開く音がした。
あの音が怖かった。
父が来ると、空気が重くなると思っていた。
でも父は、あの引き戸を開けるたびに、逃げていく息子の背中を見ていた。
帰ってきた、という気持ちよりも、また逃げられた、という気持ちで、ソファに座っていたのかもしれない。
だから無口だったのかもしれない。
怒鳴ったのも、怒鳴り方しか知らなかったからかもしれない。
隆は、目が熱くなっていることに気づいた。
泣くつもりはなかった。
ただ、知らなかった、と思った。
父がそんなことを考えていたとは、一度も思わなかった。
「父もこうして悩んでいたのか」という言葉が、声にならずに喉の中で転がった。
廊下に物音がして、隆は顔を上げた。
父が昼寝から覚めて廊下を歩いていた。
腰が少し曲がっている。
杖はついていないが、壁に手を当てながら歩いていた。
隆が戸口に立っていることに気づくと、父は一瞬だけ足を止めた。
「来てたのか」
「うん。日記、借りていいか」
父はしばらく隆を見た。
目が細くなった。
怒っているのではなく、まぶしいものを見ているような目だった。
「・・恥ずかしいものが書いてあるぞ」
「知ってる。もう読んだ」
「そうか」
父は「そうか」と言って、廊下を歩き続けた。
台所のほうへ向かっていった。
隆は父の背中を見た。
丸くなった肩。
細くなった首。
それでもまだ、歩き方に少しだけ頑固さが残っている。
「お父さん」
父が振り返った。
「・・子どもの頃、俺が怖くしてたか」
父の表情が、一瞬だけ止まった。
それからゆっくりと、何かを確かめるような顔になった。
「わからん」
「そうか」
「ただ、お前が部屋に入るたびに、俺の声が大きすぎたと、あとで思っていた」
それだけ言って、父は台所へ消えた。
隆は廊下に一人立っていた。
外から秋の日差しが窓を通して入ってきて、廊下の木目を薄く照らした。
子どもの頃の廊下と同じ廊下だった。
同じ光だった。
ただ、自分の目が違うだけで、こんなにも違って見えるものなのか。
実家から帰る夜、隆はスマートフォンを開いた。
息子の連絡先。
弘樹、と書いてある。
二十歳になった息子は今、大学の近くで一人暮らしをしている。
隆とはほとんど話さない。
盆と正月に帰ってくるが、食事の間はスマートフォンを見ていることが多く、隆も何を話していいかわからず、二人の間に会話のない時間が続いた。
隆は、発信ボタンを押した。
三回コールして、「・・なに」と弘樹が出た。
「俺。」
「知ってる。何」
電話口の声は乾いていた。
警戒しているような、面倒くさそうな、隆が子どもの頃に父に感じていた、あの空気と同じだった。
今度は自分がその原因なのだということが、この年齢になってようやくわかった。
「いや・・ちょっと聞いてほしいことがあって」
「何を」
隆は少し考えた。
何から話せばいいかわからなかった。
タイムカプセルのことを話すべきか、父の日記のことを話すべきか。
でもそういう「説明」より先に、言わなければならないことがあると思った。
「父さん、お前に怒鳴ってたな。子どもの頃」
少し間があった。
「・・まあ」
「嫌だったと思う」
また間があった。
今度は長かった。
「・・別に」
「俺は、じいちゃんが嫌いだった。声が大きくて、怖くて、ちゃんと話を聞いてくれなかった。でも今日、じいちゃんの昔の日記を読んで・・、同じことで悩んでたんだとわかった。じいちゃんも、俺も、たぶんお前も、みんな同じことで悩んでる」
電話の向こうが静かになった。
「・・俺は、弘樹に怖い父さんだったと思う。今も、たぶんそうだ。なぜかわからないけど、声が大きくなる。すぐに正論を言いたくなる。でもな、お前が部屋に入るたびに・・」
喉が少し詰まった。
「俺も、後悔してた」
弘樹は何も言わなかった。
しばらく沈黙が続いた。
それから、小さな声で「・・知らなかった」と聞こえた。
隆は「そうだよな」とだけ言った。
「今度、飯でも食わないか」
また間があった。
「・・考える」
「そうか」
電話が切れた。
隆は夜道に立っていた。街灯が水たまりに映っていた。
「考える」と言った。
断らなかった。
隆の父も、きっと似たような答え方をしたのだろう。
そういう家系なのかもしれない。
でも、「考える」は、「嫌だ」ではない。
父から受け取ったもの。
自分が息子に渡してしまったもの。
そして今夜、少しだけ形が変わったかもしれないもの。
嫌悪と理解の間にあるものには、名前がない。
でもそれは確かに、温かいものだった。
隆はゆっくりと歩き出した。
帰り道に、父の日記を入れた鞄が揺れた。
翌週、集まりの場で隆はぽつりと言った。
「父の日記を読んだら、俺の話が全部書いてありました。同じ悩みで、ずっと」
由美が「そっか・・」と言った。
徹が「俺も読み返してみようかな、うちの父親の」と言った。
洋平は何も言わなかった。
でもノートに何かを書きとめていた。
隆はそれを見て、少しだけ口元が緩んだ。
洋平はいつも、誰かの言葉を忘れないように書き留めていた。
子どもの頃からそうだった。
それが変わっていないのが、何となく嬉しかった。
一週間後。
隆の部署に、四月から新しい社員が入ってきた。
小柄で、少し不器用そうで、でも礼儀正しい青年だった。
初日、隆に名刺を差し出して「よろしくお願いします」と深々と頭を下げた。
名刺に目を落として、隆は一瞬だけ動きを止めた。
苗字が「誠川」とある。
誠川・・誠。
どこかで聞いた名前だった。
記憶の中を探って、ああ、と思い当たった。
小学校の同級生の誠。
刑事になった、あの誠の苗字だ。
「・・誠川さんって、ひょっとしてお父さんが警察官だったりする?」
青年は少し驚いた顔をして、「は、はい。なぜわかるんですか?」と言った。
隆は小さく笑った。
「縁ってあるもんだ」
青年は何のことかわからず首をかしげたが、隆はそれ以上説明せず、「仕事、一緒に覚えていこう」と言って、部署の中を案内し始めた。
今度は、怒鳴らないようにしよう、と思いながら。




