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第29話 三十年後のみんなへ

 その夜が来るのを、全員が待っていた。

 莉子が、約束通りギターを持ってきた。

 折り畳み椅子の輪の中央に椅子を一脚余計に出して、そこにギターケースを置いた。

 教室の空気が、いつもと少し違った。

 今夜は何かが読まれる。

 それだけで、部屋の温度が変わった気がした。


 先週、段ボールの底で見つけた先生の手紙。

「六年二組のみんなへ」と書かれた封筒。

 糊付けされていなかったその封を、洋平は今夜まで開けずにいた。

 開けると決めた夜に、みんなで読もうと決めていた。

 校舎は昨日から取り壊しが始まっている。

 六年二組の教室ももう使えない。

 今夜みんなが集まっているのは、廃校のすぐ隣にある古い公民館の和室だった。

 柱が古く、畳が少し傷んでいたが、誰も気にしなかった。

 毎週木曜日に座っていた折り畳み椅子を持ち込んで、いつもと同じ円を作った。

 この一年間、ずっとそうしてきたように。

 出席簿は、洋平の膝の上にあった。

 先生の字で「鈴木直樹」と書かれたままの、あの緑の出席簿。

 手紙を読む間、傍に置いておくと決めていた。


 莉子が、弦を鳴らした。

 一音。

 二音。

 チューニングを確かめる、短い音。

 それだけで、全員がそちらを向いた。

 莉子が弾き始めた曲は、先週みんなで聴いたあの曲だった。

 直樹のお父さんが介護施設で毎週リクエストし続けた、あの古い歌謡曲。

 知っている人間には分かる、知らない人間には聴き覚えのないほどに古い曲。

 でも、一度聴いたら忘れない旋律。

 直樹が子どもの頃から一番好きだった、あの曲。

 誰も喋らなかった。


 由美が、ゆっくりと目を閉じた。

 徹が、うつむいた。

 目の端が赤くなっていた。

 さくらが、膝の上に置いた手を組んだ。

 指先が白くなるほど固く。

 菜摘が、窓の外を見た。

 窓の外には十二月の夜空しかなかったが、それでもずっと見ていた。

 健一郎が、眼鏡を外した。

 レンズを拭くふりをしながら、目元を押さえた。

 和也が、初めて、肩の力を抜いた。

 長い年月をかけて固めてきた何かが、この一音で少し解けたように見えた。

 誠が、腕を組まずにいた。

 刑事の顔ではなく、ただの人間の顔をしていた。

 隆が、大輔の隣で静かに座っていた。

 大輔の肩がかすかに震えているのに気づいていたが、何も言わなかった。

 ただ隣にいた。

 大輔が、目を赤くしながら前を見ていた。

 妻のことを思っているのだろう、と誰もが分かった。

 妻が好きだったクリームパンのことを。

 毎朝一個多く焼き続けていることを。

 恵理が、唇を結んでいた。

 頬に一筋、光るものが伝っていた。

 美穂が、胸の前で手を合わせていた。

 娘のこと、孫のこと、恵理のことを思っているのかもしれなかった。

 翔太は今夜も来ていた。

 車椅子のまま、輪の端の席で、目を閉じて音を聴いていた。

 あの屋上の星空を、今夜も思い出しているかもしれなかった。


 曲が、終わった。

 音の余韻が、和室の天井に溶けていった。

 しばらくの間、誰も動かなかった。

 誰も急かさなかった。

 先生の手紙は、この沈黙の先にある。


 洋平は、封筒を持った。

 表の「六年二組のみんなへ」という文字を、もう一度だけ見た。

 先生の丸い文字。

 黒板の前で、毎日書いていた文字。

 三十年前の夜に、誰にも言わずに机の引き出しの奥にしまっておいた文字。


 洋平は、一年間、毎週この廃校に来た。

 その間ずっと、先生のことを思っていた。

 先生が見ていた景色を、先生が感じた喜びや不安を、少しでも分かろうとしながら来ていた。

 でも今夜が、本当の最後の手紙だった。

「読みます」

 洋平は、ひとこと言って封を開けた。

 便箋が三枚あった。

 三枚分、先生は書いた。

 洋平は、一行目から声に出した。


「六年二組のみんなへ。

 先生は、みんなのことが心配です。

 三十年前も、同じことを書きました。

 タイムカプセルの中に入れた手紙でも、同じことを書きました。

 先生は、くどい人間なのかもしれません。

 それでも書かずにはいられないのは、みんなへの気持ちが、三十年経っても変わらないからです。

 夢が叶った人、おめでとう。

 叶わなかった人、お疲れさまでした。

 でも先生は知っています。

 十二歳の君たちが見ていた夢は、叶えるためだけにあったのではありませんでした。

 あの夢は、誰かを思いやれる大人になるための、練習台でした。

 宇宙飛行士になりたかった子は、どんな高さにあるものでも見ようとする目を持った。

 野球選手になりたかった子は、仲間のために全力を出すことを覚えた。

 女優になりたかった子は、舞台の上でなくても、誰かの前で声を出す勇気を持った。

 パン屋さんになりたかった子は、毎朝誰かのために焼くことの意味を知った。

 刑事になりたかった子は、正しいことと優しいことが、いつも同じではないと学んだ。

 花屋さんになりたかった子は、花が何かを言葉の代わりに伝えられることを知った。

 世界を変えたかった子は、一人の前でまず立ち止まることを覚えた。

 夢は、叶えるためだけにあるのではありません。

 夢は、君たちをその夢に似た人間に育てるためにある。

 先生は、そう思っています。

 だから、叶わなかった夢をどうか悲しまないでください。

 その夢を見ていた十二歳のあなたが、今のあなたを作っています。

 人は夢を叶えるためだけに生きるのではありません。

 誰かの夢を支えるためにも生きています。

 誰かの夢の傍にいるためにも生きています。

 先生はみんなの先生になれて、幸せでした。

 もう一つだけ書かせてください。

 この手紙を読んでいる人が誰であっても、それが一人であっても、全員であっても、先生は嬉しいです。

 この字が誰かの目に届いたということだけで、先生の三十年は無駄ではありませんでした。

 元気でいてください。

 ひとりでいないでください。

 誰かの迷惑になってください。

 六年二組担任 佐々木」


 洋平は、そこで止まった。

 便箋が尽きた。

 これが最後の一文だった。

 部屋は、しんと静まり返っていた。

 十二月の夜が、和室の外で息をひそめているようだった。


 最初に聞こえたのは、大輔の嗚咽だった。

 こらえているのに、こらえきれない声。

 次に、莉子がギターを抱えたまま泣いているのが見えた。

 由美が、両手で顔を覆っていた。

 徹が、目をこすっていた。

 健一郎が、眼鏡を外したまま下を向いていた。

 さくらが、隣の菜摘の手を握っていた。

 恵理が、声を殺して肩を震わせていた。

 美穂が、声を出して泣いていた。

 隆は、無言のまま、ただじっと前を向いていた。

 誠が、うつむいて顔を隠した。

 和也は、初めて人前で泣いた。

 四十年以上の鎧が、今夜だけ脱げていた。

 翔太は、車椅子の上で天井を見上げていた。

 洋平は、便箋をゆっくりと畳んだ。

 先生の文字が、丁寧に折り込まれた。


 誰も言葉を出せない時間が、どれくらい続いたか分からなかった。

 一分かもしれないし、十分かもしれなかった。

 時間が、溶けていた。

 やがて洋平は、膝の上の出席簿に手を置いた。

「鈴木直樹」という名前の載ったページを、指先で押さえた。

 そして、静かに言った。

「先生。ありがとう」


 声が出なかった、と洋平は思った。

 でも声は出ていた。

 出ていた、と、誰もの耳が証明した。

「言えなかったけど、ありがとうございました」

 三十年間、ずっと言えなかった一言だった。

 小学校の卒業式に、言えなかった。

 先生の前に立つと、言葉が消えた。

 引越しの日に、言えなかった。

 荷物を運ぶ大人たちの間で、小さくなっていた。

 先生が亡くなったと聞いた日に、もう言えないと思った。

 でも今夜、言えた。

 届くかどうかは、分からない。

 でも、言えた。

 それだけで十分だった。

 それだけで・・三十年が、少し軽くなった気がした。


 莉子が、もう一度だけ弦を鳴らした。

 一音。

 それだけ。

 部屋の中に、その音が広がって、静かに消えた。

 誰も帰ろうとしなかった。

 ただ、みんな、そこにいた。

 椅子の上に。

 先生の言葉の中に。

 互いの泣き声の中に。

 誰も、急いでいなかった。

 帰る理由が、今夜はなかった。

 先生の言葉が、部屋に満ちていた。

 夢は、叶えるためだけにあるのではありません。

 誰かの夢を支えるためにも生きています。


 洋平は、もう一度だけ出席簿を見た。

 三十年前の春、あの桜の木の下に缶を埋めた。

 みんながそれぞれの夢を書いた手紙を、先生が傍で見守っていた。

 直樹も、そこにいた。

 明日、また来よう。

 みんなで、あの木の下に。

 今度は、次の三十年に向けて・・何かを埋めよう。


 帰り道、洋平は一人で夜道を歩いた。

 廃校の跡地を横目に見た。

 重機が入った後の更地が、街灯の光に照らされている。

 コンクリートの瓦礫が端に積まれ、校庭の土が剥き出しになっている。

 でも、桜の木だけが、まだそこに立っていた。

 冬の枝を広げて、夜空に向かって伸びていた。


 洋平は、足を止めた。

 桜の木が、夜風に揺れた。

 枝だけの冬の桜は、それでも何かを持っているように見えた。

 春の準備を、もうとっくに始めているように。

 根の下に、三十年間静かに温め続けていた何かを、今夜やっと手放したように。

 明日、みんなに連絡しよう、と洋平は思った。

 一年間の終わりに、もう一度だけ、全員で集まろう。

 桜の木の下に。


 洋平は、空を見上げた。

 冬の星が、静かに輝いていた。

 三十年前、翔太が屋上から指さした星と同じ星が。

 先生の言葉が、まだ胸の中に温もりを残していた。

「人は夢を叶えるためだけに生きるのではありません。誰かの夢を支えるためにも生きています」

 三十年、みんながそう生きていた。

 先生は、分かっていたのだ。

 洋平は、ゆっくりと歩き始めた。

 坂道を下りながら、振り返ることなく、前を向いて。

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