第28話 先生の机
取り壊しの前日は、雨になった。
十二月の冷たい雨が、朝から降り続けていた。
廃校の校庭は、昨夜まで残っていた枯れ葉が雨に濡れて地面に張りついている。
アスファルトの黒と、校庭の土の茶色が、水分を含んで重く沈んでいる。
校舎の壁は、雨で濃く染まっていた。
コンクリートの表面を伝う雨水が、微かな音を立てて側溝に流れ込んでいる。
明日からここに重機が入る。
古い校舎を壊すための、黄色い鉄の爪を持った機械が、今夜の闇の向こうで息を潜めている。
三十年前の春と同じ桜の木だけが、枝を濡らしながら、まだそこに立っていた。
黒々とした幹には、長い年月を耐え抜いた深いひび割れが刻まれている。
洋平は、傘を差して校門の前に立った。
午後五時。
いつもより少し早い時間に、みんなが来ることになっていた。
誰から言い出したわけでもない。
「最後に見ておきたい」という気持ちが全員の中にあって、それが自然に集合時間を引き寄せた。
来週にはもうここはない。
六年間通った場所が、一冬の間にただの更地になる。
運動場も、昇降口も、あの古びた二宮金次郎の像も、すべてがガレキに変わってしまう。
そう分かっていても、今日が来るまでどこか現実感がなかった。
明日になればまたいつものようにチャイムが鳴り、誰かが廊下を走ってくるような、そんな錯覚さえあった。
でも今夜、雨に濃れた校舎を目の前にすると・・終わる、ということの手触りが、初めてちゃんと届いてきた。
冷たい雨粒がコートの肩を濡らし、その湿り気が、時間の不可逆性を容赦なく教えているようだった。
全員、揃った。
駐車場に傘の花が開いた。
由美が「びしょびしょ」と言いながら屋根の下へ逃げ込み、徹が「情緒があるじゃないか」と笑い、健一郎が「情緒どころじゃない、滑る」と言って段差に足を取られた。
賑やかだった。
でもその賑やかさの下に、静かな何かが流れていた。
今夜が終わったら、ここにはもう来られない。
明日から校舎が壊される。
そのことを誰もが頭の片隅に置いたまま、笑っていた。
笑いながら悲しい、という感覚を、この一年でよく知るようになっていた。
それがこの集まりの空気だった。
蛍光灯の切れかかった六年二組の教室に全員が入ると、折り畳み椅子の輪の中央に、洋平は段ボール箱を置いた。
「先生の机から出てきたものの最後を、今夜みんなで確認したい」
みんなが顔を上げた。
「市の担当が荷物を仕分けしたあと、私物だけ俺が預かっていた。大半はもう確認済みで、残りはこの箱一つだ」
洋平は、蓋を開けた。
印鑑ケース。
生徒たちが描いた絵葉書の束。
擦り切れた赤いボールペン・・「先生、あの赤ペンでいつも採点してたね」と由美が言った。
それから、机の引き出しのものを一式まとめた小さな紙袋。
「この袋だけ、まだ開けていなかった。開けよう」
紙袋の中から出てきたものは、几帳面に整頓されていた。
文房具の類い。
消しゴムの欠片。
丸まったセロハンテープ。
古い名簿。
そして・・
洋平の指が、止まった。
袋の底に、小さな封筒が一通あった。
白い封筒。
表に、文字が書いてあった。
「六年二組のみんなへ」
教室が、静まり返った。
誰も動かなかった。
「六年二組のみんなへ」・・その文字を見た瞬間、全員の脳裏に同じものが浮かんだ。
タイムカプセルの缶の中に入っていた、あの宛名なし封筒。
あの夜、洋平が読んだ先生の手紙。
「誰かのそばにいてください」という言葉。
「直樹のことを覚えていてあげてください」という追記。
さくらが、そっと口を開いた。
「・・筆跡が」
洋平は、封筒の文字を見た。
丸くて、温かい文字だった。
六年間、毎日見てきた文字だった。
黒板に書いていた文字。
出席簿に書いていた文字。
「先生の・・字だ」
誰かが、そっと息を吸った。
第二の手紙。
先生が机の引き出しの奥に、長い間しまっておいた手紙。
タイムカプセルの中に入れた手紙とは別の、もう一通。
「先生は」
洋平が言葉を選びながら言った。
「二通、書いていたんだ」
さくらが言った。
「タイムカプセルの中の手紙は、先生が三十年後に届くかどうか分からないまま書いた手紙だった。でも、この手紙は」
由美が続けた。
「机の中に残した手紙。三十年後、誰かがここを片付けることを知っていて、残しておいた」
健一郎が、静かに言った。
「両方の経路から、届くように。タイムカプセルから。そして机から。どちらかが届くように、二つ書いておいた」
「先生らしいな」
徹が、ぽつりと言った。
「何があっても届くように、ちゃんと用意しておく。先生はそういう人だった。黒板に書き忘れがあったとき、翌朝に前の黒板に補足を書いておいたりする人だった」
大輔が「あったあった」と言った。
莉子が「先生、几帳面だったよね」と言った。
菜摘が、静かにうなずいた。
部屋の中が、しばらくの間、静かだった。
雨が窓を打つ音だけが聞こえた。
「読もう」
洋平が言った。
「でも」
便箋を取り出しながら、少し考えた。
「今夜じゃない方がいいかもしれない。先生の言葉は、ちゃんとした時間に、ちゃんと全部読みたい。急いで読むには、この手紙は重すぎる」
「どうするの?」
「来週。今夜はここにいる時間を大切にして、先生の言葉は来週みんなで読もう。そのために、今夜は他のものを、一緒に見ておきたい」
紙袋の底に、もう一つだけ、ものが残っていた。
出席簿だった。
緑色の表紙が、時間の分だけ薄れている。
「第六学年 第二組」という文字が、手書きで書いてあった。
先生の字だった。
洋平は、出席簿をそっと手に取った。
全員が身を乗り出した。
誰かの椅子の脚が、床を引っ掻く音がした。
洋平は、ゆっくりと表紙を開いた。
一ページ目に、名前が並んでいた。
五十音順で、一人一人の名前が丁寧に書かれていた。
黒インクで、先生の丸い字で。
「青木健一郎」
「石田和也」
「稲葉莉子」・・
「稲葉莉子、それ私だ」と莉子が言った。
笑いが少し起きた。
でも笑いはすぐに静かになった。
洋平は、ゆっくりとページをめくった。
「鈴木」の行があった。
洋平は、そこで指を止めた。
見た。
「鈴木直樹」
消えていなかった。
転校した生徒の名前は薄く線が引かれていることがある。
亡くなった生徒の名前は消されていることがある。
でも、この出席簿の中で、直樹の名前には何もなかった。
他の生徒と同じ大きさで、同じ丁寧さで、ずっとそこに書かれていた。
三十年間ずっと、この出席簿の中で、直樹は六年二組の一員だった。
先生が、消さなかった。
誰も、言葉を出せなかった。
徹が、出席簿の「鈴木直樹」という文字に、そっと指を置いた。
数秒の間、その文字の上に指があった。
それから静かに放した。
それだけだった。
言葉は要らなかった。
「来週」
洋平が静かに言った。
声が少し震えていたが、続けた。
「先生の手紙をここで読もう。机はもう移せないけれど、この出席簿だけは持ってきていい。先生の手紙を読むとき、出席簿もそばに置いておこう。直樹の名前も、一緒に聴けるように」
「ありがとう」
大輔が言った。
別の誰かも、同じことを言いたかったと思う。
莉子が「来週、ギターを持ってくるよ」と言った。
「読む前に、一曲だけ弾かせて」と言った。
全員が頷いた。
「いいな」
「来て」
「当たり前じゃないか」、色々な声が重なった。
莉子が少し笑った。
誰もいない廃校の教室で、魔法瓶のような時間が、また一つ流れた。
帰り際、全員でもう一度、廃校の校庭に出た。
雨は、少し弱くなっていた。
霧雨と呼んでいいくらいの、細かい雨になっていた。
桜の木が、雨に濡れて枝を垂らしていた。
冬の桜は、花も葉もなく、ただ枝だけがある。
それでも太く、まっすぐに立っていた。
三十年前に子どもたちがタイムカプセルを埋めた場所。
先生が傍らで見ていた場所。
あれから三十年、誰もいないこの校庭で、桜は春を繰り返してきた。
「この木は残るんだよな」
健一郎が聞いた。
「残る」
洋平が答えた。
「校舎は壊すけど、桜の木は伐らないようにと、市の方で決めた。来年の春も咲く」
「よかった」
菜摘が言った。
「よかったよ。この木がなくなったら、困る」
誰かが「そうだな」と言った。
誰の声かは分からなかった。
でも全員が同じ気持ちだった。
春になれば、ここに花が咲く。
建物はなくても、桜だけは残る。
更地の真ん中に、一本の桜が、また春を迎える。
最後に、全員で空を見上げた。
雨が、また少し降り始めていた。
由美が「傘、傘」と言いながら鞄から傘を出した。
健一郎がすぐに開いた。
菜摘が笑った。
徹が「帰るぞ」と言って歩き出した。
誠が後に続いた。
莉子がギターケースをかばいながら走った。
それぞれが、それぞれのペースで、校門の方へ歩いていった。
洋平は最後に残って、もう一度だけ校舎を見た。
明日から壊される。
でも桜は残る。
先生の手紙は、来週読む。
直樹の名前は、出席簿の中にある。
縁は、まだほどけていない。
「六年二組のみんなへ」という文字が、洋平の脳裏に残っていた。
先生の言葉は、来週届く。
でも今夜、先生はここにいた気がした。
雨の中、桜の木の下に、ずっと前からそこにいたように、静かに立っていた。
洋平は、先生の手紙の最初の一行を心の中で繰り返した。
・・「六年二組のみんなへ。先生はみんなのことが心配です」
心配です。
先生はそう書いていた。
大人が子どもを心配するものだと思っていたけれど、そうじゃなかった。
先生は、三十年同じ分量で、みんなのことを心配していた。
山田洋平という名前も、あの出席簿の中にある。
三十年前、小学校最後の日に「優しい人になります」と手紙に書いた、あの洋平が。
優しくなれたかどうか、洋平には分からない。
でも、今夜ここにいる。
一年間、週に欠かずここに来た。
先生の机の出席簿を手にした。
少なくともそれだけは、手応えを掴んだと思っていい、のだろうか。
雨の中、桜の枝が風に揺れた。
洋平は、坂道を下り始めた。




