第27話 見えない贈り物
縁というものは、引けば引くほど奥がある。
翌週の木曜日。
いつもの教室に全員が揃ったとき、洋平は前の週の余韻がまだ部屋の中に漂っているような気がした。
和也と健一郎の縁。
誠の息子と隆の縁。
廃校プロジェクトと菜摘の花屋の縁。
美穂の孫と恵理の保育園の縁。
四本の糸が、先週一夜でほどけた。
先生の手紙の言葉・・「誰かのそばにいてください」・・が、まだ頭の中で鳴っていた。
みんな、言われた通りに生きてきた。
言われたことに気づかないままに。
まだある、と洋平は思っていた。
まだ誰も口にしていない縁が、少なくとも三本、洋平の中には見えていた。
どんな形でほどけるか、言い出す順番がどうなるか・・それだけが分からなかった。
木枯らしの季節が、冬の入口に差しかかっていた。
廃校の校庭にある木の葉は、先週よりさらに減っていた。
来週になれば、この校舎は取り壊しが始まる。
だから今夜を含めて、残りは数回しかない。
誰も口にしないが、全員がそのことを知っていた。
最初に口を開いたのは、徹だった。
「俺も、一個だけ言っていいか」
少し照れたような声だった。
徹が照れる、というのは珍しかった。
野球の話をするとき、少年野球の監督の話をするとき、徹はいつも自信満々に語る。
でも今夜は、なぜか言葉の前に「いいか」という問いを置いた。
「言えよ」
健一郎が言った。
「俺のチームの子・・少年野球の部の話なんだが」
徹は少し言葉を整えるように間を置いてから続けた。
「そのチームに、毎週欠かさず来る男の子がいる。センスがあるかどうかは正直分からない。でも努力の量は本物で、雨の日も、土砂降りの日も、一度も練習を休んだことがない。その子が、試合前の日は必ず駅前のパン屋に寄ると言っていた」
大輔が、ほんの少し前のめりになった。
「聞いたら、クリームパンが好きで、試合の前日に一個だけ食べるのが自分で決めたルーティンだって。笑いながら教えてくれた。で、俺その話を聞いたとき、大輔の顔が浮かんだんだ。駅前のパン屋って・・もしかして」
「・・野球帽の、男の子か?」
大輔が、静かに言った。
「そうだ。いつも野球帽で来るって言ってたな」
「来る。毎週来る。愛想のいい子で・・どこかで見たことがある気がするとずっと思っていたが、思い出せなくて」
徹が、ゆっくりうなずいた。
「俺がコーチした子だ。もう十年になる」
部屋が、少しの間、静かになった。
誰かがそっと息を吸う音がした。
大輔は、視線を少し落として、手元を見ていた。
指先で、テーブルの木目を一本なぞった。
「あの子が・・最近、だんだん顔なじみになってきて。先月は、レジで世間話もした。野球をやっていると話してくれた。スポーツをやっていそうだとは思っていたが・・野球か」
「野球だ」
「妻が」
大輔が、少し声を落とした。
「妻が、クリームパンが好きだったんだ。だから俺は、妻の分も毎朝一個多く焼いてる。手紙にも書いた・・妻と一緒にパンを焼きたかった、と。今も焼き続けている。その一個が、あの子に届いていたとしたら」
言葉が、そこで途切れた。
徹は何も言わなかった。
言う必要がなかった。
大輔は、少し時間をかけてから言った。
「来週、あの子が来たら、名前を聞いてみる。そして・・お前のチームの子だと、教える」
「ああ」
「ありがとう、徹」
「礼を言うのはこっちの方だよ。あの子の味方でいてくれて」
二つ目は、さくらが切り出した。
徹と大輔のやりとりが落ち着いてから、さくらは一度深呼吸して口を開いた。
「私も・・聞いてほしいことがある」
いつもはきはきと話すさくらの声が、今夜は少し違った。
ゆっくりと、一言一言を確かめるように話した。
「翔太のお医者さんのことなんだが・・主治医の先生のこと」
翔太が、少し驚いたように目を開いた。
「主治医の名前を、前に一度だけ話したよな。苗字だけ」
「聞いた。岸田、だったか」
「岸田。そう、岸田先生」
さくらは、膝の上で手を組んだ。
「私が教師になって三年目のとき、一人だけ、不登校になりかかった生徒がいた。クラスに馴染めなくて、一ヶ月ほど学校に来られなかった。私が家を訪ねて、廊下で話したことがある。十分も話さなかった。でも、ドア越しに返事が返ってきた。それがその子との唯一の接点で・・その後転校して、私は何年もあの子のことを気にしていた。ちゃんと大人になれたか、と」
「・・さくら先生」
翔太が、ゆっくり言った。
「その子の苗字は」
「岸田。岸田くん、という男の子だった」
教室が静まり返った。
翔太は、しばらく目を閉じていた。
それから、ゆっくりと目を開けて言った。
「俺の主治医は・・岸田という先生で、いつも最後まで話を聞いてくれる人だ。初めて会ったとき、どこかで会ったことがあるような気がした。でも思い出せなかった。あの人の顔の中にある、何かが」
「転校先で、学校に通い続けていたんだね」
さくらが、喉を詰まらせた。
「ちゃんと、先生になっていたんだ。医者という名前の、先生に」
誰も何も言わなかった。
由美が、テーブルの下でさくらの手を握った。
さくらは、その手を握り返した。
「あの子に・・伝えてほしい。私が会いたいと思っていたと。ちゃんと大人になっていてくれて、嬉しかったと」
「伝える」
翔太が言った。
「必ず、伝える」
三つ目は、誰もが予想していなかった形で来た。
莉子が、おもむろにギターケースから楽器を取り出した。
折り畳み椅子の部屋にギターが出てくるのは初めてで、全員が驚いて顔を上げた。
「弾いていい? 一曲だけ」
誰も止めなかった。
莉子はチューニングを確かめて、弦を数本鳴らした。
古い歌謡曲の前奏だった。
知っている人間には分かる、知らない人間には聞き覚えがないほどに古い曲。
でも一度聞いたら忘れない、あの旋律。
曲が始まった瞬間、由美が「あ」と言った。
菜摘が目を細めた。
健一郎が静かに目を閉じた。
そして、直樹の弟・拓哉のことが、その日来ていた全員の頭に浮かんだ。
曲が終わってから、莉子は言った。
「施設に、この曲を毎週リクエストしてくれるおじいさんがいる。いつも一番前の椅子に座って、目を閉じて聴いてくれる。この曲が終わると、必ず『もう一回』と言う。どんな縁のある曲なのかと思って、ある日聞いてみた」
全員が、莉子の次の言葉を待った。
「そのおじいさんが言うには、昔、息子が大好きだった曲なんですって。小さい頃から、繰り返し歌っていた曲で。今はもういないけれど、この曲を聴くたびに声が聴こえる気がする、と」
洋平は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「その方の息子さんの名前は」
洋平が、静かに聞いた。
「鈴木・・と、おっしゃっていた」
誰も声を出さなかった。
莉子は、少し目を赤くしながら続けた。
「私ね、この曲のタイトルが直樹くんの苗字と同じだって気づいたとき、最初は偶然だと思った。でも今は、偶然じゃないと思ってる。直樹くんのお父さんが、その施設にいる」
「直樹くんのお父さん、が」
洋平がつぶやいた。
「うん。直樹くんのお父さんが、毎週私の歌を聴きに来てくれている。息子の好きだった曲を、聴きに来てくれている」
教室の中が、深い静かさで包まれた。
三つの縁が、一夜のうちに明かされた。
大輔の焼いたクリームパンが、徹のコーチした少年に届いていた。
さくらがドア越しに話しかけた少年が、翔太の命を支える医者になっていた。
莉子の歌が、直樹の父親に届いていた。
洋平は、みんなの顔をゆっくりと見渡した。
誰も、何も成し遂げていないと思っていた。
俺たちはばらばらに生きてきた、と思っていた。
でも、そうではなかった。
一人の人生が、誰かの人生に触れていた。
その誰かの人生が、また別の誰かに触れていた。
三十年かけて、静かに、確かに。
見えなかった。
見えなかったけれど、ずっとそこにあった。
莉子が、もう一度だけ弦を鳴らした。
部屋の中に、その音が広がって、静かに消えた。
「来週も」
莉子が言った。
「来週もその施設で、この曲を歌う。直樹くんのお父さんに、今日のことを話してもいいかな」
「話してほしい」
洋平が言った。
「直樹のことを覚えている人間がここにいると、伝えてほしい。みんな、直樹のことが好きだったと。あの子はいつも笑っていたと。あのクラスに来てくれて、よかったと」
莉子は、少し目を閉じた。
それから静かにうなずいた。
「伝える。ちゃんと、全部伝える」
莉子は、ギターをそっとケースに戻した。
「人は誰かの夢を支えるためにも生きています」
先生の手紙の一節が、洋平の頭の中で鳴った。
まだ読んでいない。
先生の机の引き出しの奥に、「六年二組のみんなへ」と書かれた封筒があるという。
それを読むのは次の週。
来週、校舎が取り壊される前日に、もう一度みんなで来ることになっていた。
でもその前に、今夜の空気を、しっかり吸い込んでおきたかった。
莉子が弾いたあの旋律が、まだ部屋の中に残っている気がした。
直樹くんのお父さんがリクエストし続けた、その曲が。
その夜、洋平は帰り道で足を止めた。
廃校の屋上を見上げた。
星があった。
翔太がリクエストして、みんなで屋上に上がって見た、あの夜と同じ星だった。
翔太は今夜も来ていた。
車椅子の翔太が、廊下の窓から同じ星を見ているだろう、と洋平は思った。
見えない贈り物、と洋平は思った。
誰かが誰かに何かをした。
気づかれないまま渡って、誰かの一部になって、また誰かへ渡っていく。
そういう贈り物が、三十年間この街のどこかを流れ続けていた。
受け取った人間も、渡した人間も、その贈り物に気づいていなかった。
それでも、贈り物は消えなかった。
言葉と同じように、贈り物も、消えないのだ。
来週、校舎が取り壊される前日に、もう一度みんなで来よう。
最後に、先生の使っていた机の引き出しを開けよう。
それだけの気持ちだった。
でも・・来週の夜が、何かを連れてくることを、洋平はどこかで予感していた。




