第26話 あの日助けてくれた人
その夜の帰り道、和也は一人でタクシーに乗りながら、スマートフォンを見ていた。
IT企業の社長として、毎日何十本ものメッセージをさばいてきた。
重要な案件、ビジネスの相談、宴席のご招待。
そういうものが次々と並ぶ画面の中に、見慣れない送信元からのメッセージが一件あった。
「洋平さんから連絡先を教えてもらった。健一郎。一度、話しできる?」
和也は、その名前を見て、少し手が止まった。
健一郎。
久島健一郎。
同じ六年二組の、あの健一郎。
最後の封筒の話を聞いた帰りに、健一郎が「少し個人的に話したいことがある」と洋平にこっそり言っていたのを、和也はなんとなく聞いていた。
それが自分に関係する話だとは、そのときは思っていなかった。
「もちろん。いつでも」
返信を打ちながら、和也は窓の外の夜景を見た。
翌週の木曜日。
六年二組の集まりが始まる前に、健一郎と和也は近くの喫茶店で向かい合っていた。
健一郎は、コーヒーを一口飲んでから、静かに言った。
「和也、お前に聞きたいことがある」
「なんだ」
「NPOに寄付してくれた人のことだ」
和也は、コーヒーカップを置いた。
「・・俺の団体への寄付のことだが」
健一郎は続けた。
「十年前から毎年、匿名で大口の寄付が入ってくる。一度も名前を明かしてもらったことがない。あの寄付がなければ、活動は二度、終わっていた。二度」
「そうか」
「そうか、じゃないんだ」
健一郎は、テーブルの上に手を組んだ。
「お前か、と聞いているんだ」
しばらくの沈黙があった。
「・・なんで俺だと思う?」
「名前を出さないことと、毎年途切れないことと、それからもう一つ。送金の時期が、毎年うちの団体が資金難に陥る直前だ。タイミングが、内部の人間でなければ分からない精度だった。外部から団体の動向を調べていた人間がいる。調べてくれていた人間が」
「・・」
「それが誰だったか、俺には一つしか心当たりがない」
和也は、窓の外に目をやった。
晩秋の朝の光が、街路樹の葉を照らしていた。
「十二年前に、お前の会社が海外のNPOのITシステム構築を請けた案件がある。俺の団体もその関連でシステム構築をしてもらった。あのとき、お前と直接話したわけじゃないが、担当者から後日、お前が構築の詳細を最後まで確認していたと聞いた」
和也は、少し笑った。
「勘がいいな」
「長年、資金の出所を考えてきたからな」
「・・そうだ。俺だ」
和也は、コーヒーカップを両手で包んだ。
「集まりが始まる前から、俺はお前の活動のことを知っていた。かなり以前から、ちゃんと追っていた。凄いと思っていた。俺には出来ないことをお前はしていた、とずっと思っていた」
「それで・・寄付を?」
「金なら、あった。使い道が、なかった」
健一郎は、しばらく和也の顔を見た。
「寄付をしたことは、知られたくなかった?」
「同窓会でお前と再会する前から始めていたんだ。名乗ったら話がおかしくなる。ただ・・金を持っていて、使い道を探している男の自己満足だ。大した話じゃない」
「大した話だよ」
健一郎が、静かに言った。
「二度、終わりそうになったときに、助けてもらった。二度とも。命を救う活動を、お前が続けさせてくれた。大した話じゃないなんて言わせない」
和也は、何も言わなかった。
長い沈黙があった。
茶の音が、少し遠くから聞こえた。
「ありがとう」
健一郎が言った。
「十年分の、ありがとうを言う」
和也は、しばらく黙っていた。
それからゆっくりと言葉を探した。
「四十二年間、俺はずっと誤った方向に走ってきたと思っていた。お金を積めば人が集まって、孤独だった。でも」
和也は一度息を吐いた。
「お前が世界を歩いていた理由は、高校のころからずっと変わっていない。俺はそれを知っていた。夢がしぼむような話を聞きたくなかった。まっすぐ歩いているお前の活動を、黙って支えたかった。それだけだ」
その夜の集まりで、健一郎と和也が少し遅れて来たのを、誰も不思議に思わなかった。
二人は少し顔が赤く、でも妙に晴れ晴れとした顔をしていた。
洋平が「どうした?」と聞いたら、健一郎が「積年の話をしてきた」とだけ答えた。
和也は何も言わなかったが、珍しく黙って微笑んでいた。
縁が、ほどけ始めたのはその夜からだった。
一本の糸が引かれると、別の糸もつられて動く。
誰かが「そういえば」と言えば、別の誰かが「まさか」と顔を上げる。
一つ目は、健一郎と和也の縁だった。
二つ目は、誠が話した。
「息子のことを、みんなに話してもいいか」
誠は少し前置きをしてから、話し出した。
「あいつが非行から立ち直ったのは、みんなも知っての通りだ。去年、就職した。礼儀正しくなったとか言って、俺は喜んでいたんだが、最近、あいつから電話があって。勤め先の上司の話をするんだよ。とても尊敬できる人だって。自分には厳しいが、人には温かい人だって。その名前を聞いたら・・」
「なんて名前だったの?」
菜摘が聞いた。
「隆。山田隆だって言うんだ」
隆が、目を見開いた。
「・・あの子が、俺の部署の?」
「お前の部下になってる」
「待てよ。あの礼儀正しくて、ちょっと不器用な新入社員が・・」
「そう。苗字が同じで、変だと思ってはいたんだ」
隆は、しばらく何かを思い出すような顔をしていた。
「あの子は・・口数が少ないが、仕事に一切手を抜かない。遅くまで残って資料を直している。怒られても言い訳しない。最初は扱いにくいやつだと思っていたが、だんだん見ていて気持ちよくなってきた」
「お前みたいだな」
徹が笑った。
「俺みたいなのか?」
「昔のお前と同じだよ。怒られても言い訳しない。ちょっと不器用で、でも正直。そういう子だったじゃないか、お前も」
隆は、何も言わなかった。
誠が言った。
「あいつが、ちゃんとした大人になれているんなら・・それだけでいい。お前に受け入れてもらったことが、あいつの支えになっているんだと思う」
「俺は何もしてないよ。ただ同じ部署にいるだけだ」
「それだけでいい」
三つ目は、洋平が口にした。
「菜摘さんに、一つ確認していいか」
「何?」
「廃校プロジェクトのオープニングに花を飾る仕事の話、覚えているか?」
菜摘が、少し目を見開いた。
「覚えてる。差出人の名前に見覚えがあるって、あのとき思った」
「それ、俺が出した発注だ」
菜摘は、しばらく洋平の顔を見た。
「・・洋平くんが?」
「廃校プロジェクトの担当が俺で、オープニングの花の手配を市内の花屋にお願いしようと思って名簿を調べたら、『花屋なつみ』という店が出てきた。名前に見覚えがあって、でも確信が持てなくて。でも、やっぱりそうだったのか」
「偶然なの?」
「最初は偶然だと思った。でも今となっては・・偶然じゃない気がしてる」
菜摘は、少し笑った。
「あのオープニングの日、緊張したよ。市の行事で花を飾る仕事なんて、初めてだったから。でも、やってよかったと思った。あの廃校の玄関に花を飾れたこと・・なんか、縁があったんだね」
「縁があったんだよ」
四つ目は、恵理が言い出した。
「あの・・私も、一つあって」
少し遠慮がちに手を挙げた。
「保育園に、美穂ちゃんの孫が通ってるんだよね」
美穂が、顔を上げた。
「え。私の孫?」
「娘さんの子ども。入園のとき、名簿でお母さんの苗字を見て、ああそうかって思った。でも言い出せなくて・・ごめんね」
美穂は、少しの間、黙っていた。
「・・どんな子?」
「おとなしくて、最初は園にうまくなじめなくて。でも最近、少し笑顔が増えてきた。笑うと目が細くなる子で、美穂ちゃんに似てるな、って思ってた」
美穂の目に、涙が浮かんだ。
「そっか。恵理ちゃんが見てくれてたんだ」
「うん。ちゃんと見てる。大丈夫だよ」
「・・ありがとう」
美穂が、両手で顔を覆った。
「ありがとう、恵理ちゃん」
四つの縁が、一夜のうちに明かされた。
教室の中が、不思議な静かさで満ちていた。
誰かが泣いているわけではなかった。
でも、誰もの顔が、少し違って見えた。
洋平は、みんなの顔を見渡した。
和也が健一郎を支えていた。
隆が誠の息子を受け入れていた。
菜摘が廃校の玄関を花で飾っていた。
恵理が美穂の孫を見守っていた。
誰も知らずに。
誰にも言わずに。
三十年間、それぞれの場所で。
みんなひとりでいたと思っていた。
ばらばらに生きていたと思っていた。
でも・・ひとりではなかった。
どこかで、誰かのそばに、ちゃんといた。
「先生の手紙に書いてあったな」
徹が、静かに言った。
「誰かのそばにいてください、って」
「先生、知ってたのかもしれないな」
さくらが言った。
「私たちが、気づかないままつながっていくことを。だからあの手紙を書いた」
「分かってたのか、先生は」
健一郎が、少し苦笑いした。
「分かってたんだよ」
洋平は、静かに言った。
「先生は、いつも一年後の私たちを見ていた。三十年後の私たちも、たぶん見えていた。だから書いた。心配だけど、大丈夫だと知っていたから、書けた」
誰も否定しなかった。
その夜の帰り道、洋平は歩きながら、まだ来ていない縁のことを思っていた。
徹と大輔の縁は、まだ明かされていない。
さくらと翔太の縁も。
莉子と直樹の縁も。
縁は、まだ終わっていない。
一本の糸が引かれると、別の糸もつられて動く。
その糸は、みんなが三十年かけて、気づかないまま紡いできたものだ。
洋平は、坂道を下りながら、背後に廃校を感じた。
来週も、みんなはあの教室に戻ってくる。
そしてまた、誰かが「そういえば」と言う。
別の誰かが「まさか」と顔を上げる。
縁が、まだほどけていく。
見えない糸が、一本ずつ、確かにそこにある。




