第25話 最後の封筒
最後の封筒は、いつも静かに、そこにあった。
最初にタイムカプセルの缶を開けたあの日から、それはずっと全員の視界の隅にあった。
宛名のない封筒。
差出人のない封筒。
茶色がかった色は他の封筒と変わらないが、表面には何も書かれていない。
名前も、「三十年後の誰かへ」という言葉すら。
ただの白い、いや、三十年かけて薄く染まった、紙の塊として、そこにあった。
徹が「後回しにしよう」と言った。
由美が「怖いもん」と笑って同意した。
洋平は、何も言わなかった。
言えなかった、という方が正確だったかもしれない。
二十四通の手紙が、読み終わった。
野球選手の夢を諦めて、でも少年野球の監督として生きてきた徹。
人生のすべてを家族に捧げて、十年ぶりに娘と電話をした美穂。
工場が倒産して、廃材で孫のおもちゃを作る浩二。
星空の下で、屋上で、宇宙飛行士になった翔太。
結婚しなかったのに「毎日笑う」夢だけは叶えた由美。
刑事として正義を貫いて、でも息子だけは守れなかった誠。
舞台に立てなくて、でも介護施設で歌い続ける莉子。
パン屋を開いて、妻を亡くして、それでも毎朝クリームパンを焼く大輔。
いじめを見抜けなかったことを今も背負い続けるさくら。
認知症の母に「きれいなお花屋さん」と言われる菜摘。
世界を変えようとして、目の前の一人しか変えられなかった健一郎。
お金持ちになって、孤独を手に入れた和也。
父を嫌いだったのに、父にそっくりになった隆。
達也と麻衣の、笑えて少し泣ける話。
「優しい人になります」と書いた洋平の、誰も知らなかった三十年。
直樹の、三十年後の言葉。
恵理の、三十年越しの告白。
全部、読んだ。
それだけで一年近くかかった。
四季がひとめぐりして、また木枯らしの時季になっていた。
最初に校庭に集まったのは春だった。
タイムカプセルの缶はあのとき錆びていて、なかなか開かなくて、誠の力でようやく開いた。
あれから、もう一年になる。
木曜日の夜を、この一年間、洋平は一度も欠かしていなかった。
仕事で遅くなった夜も、体調が優れない夜も、廃校への坂道を上ってきた。
不思議なことだと思う。
三十年ぶりに会った人たちとここまで続けられるとは、最初は思っていなかった。
でも、続けてよかった。
それだけは確かだ。
最後の封筒が卓上に置かれたのは、ある木曜日の夜だった。
折り畳み椅子を並べた元六年二組の教室。
蛍光灯が一本切れかけていて、ときどき小さく点滅する。
洋平がいつも「来週換える」と言いながら、何週も換えていない。
替えの蛍光灯は戸棚の中にあるのに、何故か換えないでいる。
そのたまに点滅する灯りが、今夜の場所にどこか合っていた。
「じゃあ、もう開けるしかないね」
さくらが言った。
「二十四通、全部読んだんだから。残るのはこれだけ」
封筒はテーブルの中央に置かれていた。
横二十センチ、縦十センチほどの、白い封筒。
表には何もない。
裏にも何もない。
ただそれだけが、そこにある。
「誰が書いたんだろう」
大輔が言った。
「タイムカプセルを埋める日に、こんな封筒を入れた奴がいる。宛名なし、差出人なし。いたずらにしては手が込んでる」
「いたずらじゃないと思う」
莉子が静かに言った。
「いたずらなら、もっと面白おかしい書き方をするはずでしょ。これはそういう感じじゃない。この封筒、一年間ここに置いてあって、誰も笑わなかったでしょ」
誰も反論しなかった。
莉子の言うとおりだと、全員がなんとなく感じていた。
「開けよう」
健一郎が言った。
「このまま迷っていても、答えは出ない。開けた方が早い」
「正論だね」
徹が苦笑した。
「でも怖い」
「怖い怖い」
由美も言った。
「なんで怖いんだろう。ただの封筒なのに」
「ただの封筒じゃないから怖いんでしょ」
誠が、腕を組んだまま言った。
誠は、こういう場面でいつも最後まで冷静な顔をしているが、内側では一番ドキドキしているタイプだ、と洋平は長い付き合いで知っていた。
今夜も腕を組んでいるのは、組んでいないと落ち着かないからだろう。
「差出人がないっていうのは、誰かが意図的にそうしたってことだ。意図のあるものは、それなりの意味がある」
「誠くん、刑事みたいだね」
「刑事だよ」
笑いが少し起きた。
でも笑い方が、いつもより薄かった。
そうだ。
この一年で何度も笑ってきた。
泣きながら笑って、笑いながら泣いて、帰り道に一人になると静かになって、また翌週ここに戻ってくる。
それが、この集まりだった。
今夜が、最後の封筒の夜だった。
封筒を開けたのは、洋平だった。
誰が言い出したわけでもなかった。
ただ自然と、みんなの目が洋平に向いた。
最初に缶を開けたのも洋平だった。
缶の中で封筒を見つけたのも洋平だった。
だから最後も洋平がふさわしい、という空気が、言葉なく流れていた。
洋平は、封筒を手に取った。
軽かった。
他の封筒より軽い気がした。
中身が少ないのかもしれない。
あるいは、気のせいかもしれない。
便箋一枚でも、人によってはずっしり重い手紙になることを、この一年でよく知った。
封を切る前に、洋平は一度、封筒の表面に触れた。
何かを確かめるように。
いや、確かめるのではなく、覚悟を決めるように。
指先でそっと封を切った。
中から出てきたのは、一枚の紙だった。
「六年二組のみんなへ。」
洋平が、声に出した。
書き出しのその一行を読んだ瞬間、教室の温度が変わった気がした。
「みんなへ」、という言葉の重さを、一同は胸の中でゆっくり受け取った。
「○○へ」ではない。「みんなへ」、つまりこの手紙は、六年二組全員に宛てられたものだ。
しかし書いた人間は名前を隠している。
どういうことだ。
誰もが思ったが、誰も口に出さなかった。
洋平は、続きを読んだ。
「六年二組のみんなへ。
このタイムカプセルを開けるのが誰かは分かりません。三十年後に本当に開けられるかも分かりません。でも、書いておきます。
みんなへ。読んでいる今が、何年後であっても。
先生はみんなのことが心配です。心配というのは、大人が子どもにするものだと思っていたけど、そうじゃないんだね。先生にとって、みんなはいつまでも心配な存在です。
先生が心配なのは、みんなが夢を叶えられるかどうか、ではありません。
みんながひとりでいないか、です。
夢は叶わなくていい。でも、ひとりでいたら困ります。
どうか、誰かのそばにいてください。誰かに迷惑をかけてください。誰かの迷惑になってください。
それだけが、先生のお願いです。」
洋平は、そこで一度、声を止めた。
喉の奥が熱くなっていた。
でも続きがまだある。
紙を裏に返した。追記があった。
「追記。直樹のことを、ときどきでいいから思い出してあげてください。直樹はみんなのそばにいたかった子でした。先生はそれを知っています。
佐々木より。」
教室が、静まり返った。
誰も動かなかった。
誰も声を出さなかった。
由美が、そっと口元を手で押さえた。
徹が、テーブルの端を握りしめた。
莉子が、目を閉じた。
ギターを弾くときと同じ顔だった。
大輔が、天井を見た。
天井には何もないのに。
さくらが、膝の上の手を固く組み合わせた。
誠が、初めて腕を解いて、うつむいた。
刑事が俯く、という姿を洋平は初めて見た気がした。
健一郎が、眼鏡を外して目元を押さえた。
世界中を見てきた目が、今夜は紙切れ一枚の前で止まっていた。
洋平は、便箋を持ったまま動けなかった。
先生の文字だった。
見間違えようがなかった。
六年間、毎日見てきた先生の丸い、温かい文字だった。
黒板の前に立って、ゆっくりと丁寧に書いていた先生の文字。
出席簿に名前を書いていた先生の文字。
そしてこの便箋の上で・・三十年前の夜に、誰にも言わずに書いていた先生の文字。
この手紙は、三十年前から、ずっとここにあった。
「先生が・・」
菜摘が、震える声で言った。
「先生が入れてたんだ。タイムカプセルに」
「そうか」
洋平は、静かに言った。
「そうか、先生が入れてたのか」
繰り返したのは、自分の中で腑に落とすためだった。
先生は、タイムカプセルの中にそっと入れていた。
宛名を書かなかったのは、誰か一人ではなく全員への手紙だったから。
差出人を書かなかったのは、きっと、「先生から」という形式ではなく、ただ届けばいいと思っていたからではないか。
名前がなくても、この手紙はちゃんと届く、と先生は信じていたのではないか。
洋平は、そう思った。
封筒を受け取った直後、洋平は一瞬だけ目を細めた。
誰かがその表情に気づいたかもしれないし、気づかなかったかもしれない。
洋平は、先生の文字を三十年間何度も思い出してきた。
職員室の前を通るたびに。
出席簿の名前を見るたびに。
そして最初にタイムカプセルの缶を開けた日に、宛名なし封筒を見た瞬間にも、何かを感じていた。
確かめることが怖くて、ずっと後回しにしてきた。
でも先生は、分かっていたのだと思う。
洋平が確かめるのを怖がっていることも。
それでもいつか、ちゃんと辿り着くということも。
先生はいつだって、一年後の洋平を見ていた。
十年後の洋平も。
三十年後も。
「来週、また来よう」
帰り際に、洋平が言った。
「続きの話、したい。この手紙のこと。先生のこと。それから・・」
洋平は少し言葉を区切った。
「みんなのことも、もう少し聞きたい。それぞれが三十年間、どこで何をしていたか。俺、まだ全部は聞けていない気がするから。手紙の話は終わった。でも、それぞれの話は、まだ終わっていないと思う」
誰も「もう終わりにしよう」とは言わなかった。
帰り道、洋平は一人で坂道を下りながら、先生の手紙の言葉を繰り返していた。
・・どうか、誰かのそばにいてください。
誰かに迷惑をかけてください。
誰かの迷惑になってください。
六年二組の、誰かに。
洋平は静かに空を見上げた。
先生は知っていたのかもしれない、と思った。
みんなが三十年後、ばらばらのまま生きていることも。
それでも、どこかでつながっていることも。
それを知りながら、黙ってタイムカプセルの中に入れておいたのかもしれない。
蛍光灯が、また一度だけちかちかと揺れた。




