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第24話 わたしは◯◯くんが好きです

 封筒を開けた瞬間、恵理の顔が赤くなった。

 いや、正確に言うと、最初は赤くなる前に白くなった。

 血の気が引いて、それからどっと戻ってきた。

 そして「あの」とか「ちょっと」とか言いながら、封筒を胸にぎゅっと抱え込もうとした。

「恵理ちゃん?」

 由美が首を傾けた。

「何が書いてあったの?」

「・・な、なんにも」

「そんな顔して『なんにも』はおかしいでしょ」

 由美の目が光った。

 この目は、追いかける気だ、と恵理には分かった。

 三十年前も、由美はこういうときに限って引かなかった。

 何も変わっていない。


 恵理が封筒を開けたのは、みんながそれぞれ自分の封筒を手に取って確認していた、ある木曜日の夜のことだった。

 直樹の弟・拓哉が手紙を届けに来た翌週。

 前の回の重さがまだ空気の底に沈んでいる中で、それでも集まりは続いていた。

 誰もが前の週のことを引きずりながら、でもこういう夜があってよかった、という気持ちも混在して、今夜の教室に座っていた。

 今日は恵理の番だった。


 恵理、宮本恵理は、小学校時代おとなしい子どもだったと、本人は思っていた。

 あまり前に出ず、にぎやかな輪の少し外側から笑っているタイプ。

 運動は苦手で、勉強はそこそこで、給食は全部食べられなくて、毎回居残りになっていた。

 特に油揚げが食べられなかった。

 今でも食べられない。

 人間というものはそういうところが変わらない。


 三十年後、恵理は保育士になっていた。

 夢どおりといえば夢どおりだが、子どもたちに囲まれる毎日は、思っていたより体力が要った。

 朝は七時半に登園してくる子どもを迎えて、夜は六時まで預かって、土曜日も月に二回は出る。

 子どもは好きだけれど、子どもというのはいつでもどこでも全力でぶつかってくるもので、こちらが四十代になっても手加減してくれない。

 四十代になってから膝が痛くなったのと、昨年パートのおばちゃんたちと揉めたのと、そのくらいが最近の悩みで、人生はだいたい穏やかだった。


 結婚はしていない。

 したかったかといえば、一応したかった。

 でも縁がなかった。

 というか、正確に言えば、縁がなかったわけではないかもしれない。

 ただ、自分から動くことが苦手だった。

 一番大事なタイミングで、いつも一歩手前で止まってしまう。

 十二歳のときも、そうだった。


「恵理ちゃん、ちゃんと読んでよ」

 由美が言った。

「みんなで読もうって約束じゃなかった?」

「いや、でも、これは・・ちょっと、その・・」

「ほら」

 由美が、するりと封筒に手を伸ばした。

「待って、由美ちゃん!」

 恵理が手を伸ばしたが、遅かった。

 由美の手の方が速かった。

 三十年前も、由美はこういうときに限って素早かった。

 やはり何も変わっていない。

 由美は、便箋を広げた。

 さっと目を走らせた。

 そして・・

 由美の顔が、ゆっくりと、面白い方向に歪んでいった。

 驚きと、喜びと、「これはどうしたものか」という困惑が、絶妙な配合で混じり合った顔だった。


「・・由美ちゃん?」

「・・」

「由美ちゃん、何が書いてあったの」

「・・」

 由美はしばらく沈黙したあと、便箋を持ったまま立ち上がった。

「洋平くん」

「え、俺?」

「洋平くん、聞いていい?」

「何を?」

 由美は、便箋をいったんテーブルに置いた。

 指先でその隅をそっと押さえながら、こちらを見た。

「恵理ちゃんの手紙にね」

「由美ちゃん!」

「・・名前が書いてあるんだけど」

 教室の空気が、またも止まった。

 ただし今回の止まり方は、先週とまったく違った。

 先週は、深い悲しみによって空気が凍りついた。

 今回は、何というか、種類の違う息の詰まり方だった。

 弾けそうで弾けない、そういう種類の静寂だった。

「洋平くんのフルネームが、書いてある」


 静寂。

 そしてまず徹が吹き出した。

 続いて誠が「えっ」と言ってから天井を見た。

 天井に答えはなかった。

 健一郎が口元を手で覆った。

 笑いをこらえているようでもあり、驚いているようでもあった。

 さくらが「えー!」と小さく叫んだ。

 菜摘が手を叩いた。

 パン、という明るい音が教室に響いた。

 恵理は、床に消えていきたいという顔をしていた。

 頬どころか、首まで赤かった。

 洋平は、ただ固まっていた。

 言葉が出てこなかった。

 自分のフルネームが呼ばれた、という事実を頭が処理しきれなかった。


「わたしは○○くんが好きです。三十年後も、好きでいると思います」

 由美がそう読んだ。

「○○くん」の部分に、洋平のフルネームが入っていた。

 当然だが、フルネームだった。

 名前だけでなく苗字もきちんとあった。

 徹はテーブルに突っ伏した。

 笑い声が肩から溢れ出していた。


「いや、直接名前書いちゃったの? え、普通伏せ字にするじゃん? イニシャルとか! A・Kとか!」

 恵理が顔を手で覆った。

「だってまさか、本当に三十年後に開けるとは思ってなかったし・・!」

「思ってなかったってどういうこと! タイムカプセルだよ!? 開けるためのやつだよ!?」

「こんなにちゃんと全員集まるとは思ってなかった!」

「そこ!? そこが問題!?」

 今度は全員が笑い出した。

 さくらがお腹を押さえて笑いながら「恵理ちゃんそれ暴論」と言った。

 菜摘が「でも分かる、なんか分かる」と言いながら目を拭いた。

 笑いすぎて涙が出たのか、感動したのか、その両方なのか、よく分からなかったが、菜摘本人もよく分からなそうだった。

 健一郎が「でも直樹の手紙の翌週にこれが来るのは・・さすが神様のスケジュールは絶妙だな」と言った。

 それが一番笑えた。


 笑い声が落ち着いてから、洋平が静かに言った。

「恵理さん」

 恵理は、まだ手で顔を覆っていた。

「恵理さん、手紙を、俺に読ませてもらっていいですか」

 しばらく間があった。

 長い間だった。

「・・どうぞ」

 消え入るような声だった。

 でもそこには、かすかな覚悟のようなものがあった。


 洋平は、便箋を受け取った。

 恵理の字は、きれいだった。

 丸っこくて、一文字一文字に力が込められていて、消しゴムで消した跡が所々に残っている。

 特に「好きです」という部分を何度か書き直した跡があった。

 最初は違う言葉を書こうとしたのかもしれない。

 あるいは「好きです」という言葉を何度も書いて、その都度消して、結局「好きです」に戻ったのかもしれない。


 洋平は、読んだ。

「三十年後のわたしへ。

 今日はタイムカプセルを埋める日です。わたしは一つだけ、本当のことを書こうと思います。

 わたしは○○くんが好きです。三十年後も、好きでいると思います。でも、たぶん言えません。だから、ここに書いておきます。

 三十年後のわたしへ。言えましたか?言えてたらすごいね。言えてなくても、それがわたしだから、しょうがないよ。

 でも覚えておいてください。あの気持ちは、本物でした。

 宮本恵理」


 洋平は、便箋をテーブルに置いた。

 誰も笑わなかった。

 ついさっきまでの笑い声が、静かに沈んでいった。

 恵理は、顔から手を離していた。

 目が、少し赤かった。

「・・三十年後のわたしへ、の答えは」

 恵理が言った。

「言えていませんでした」

 低く、でもはっきりした声だった。

「ずっと、言えなかった。小学校の間も、卒業してからも、その後も。言えないまま、三十年経った」

 それが事実だった。

 ただの事実として、恵理はそれを言った。

「でも」

 恵理は、部屋の中を見渡した。

「でも言えなかったことを、今ここで言えた。手紙が言ってくれた。だから、よかったかな、って」


 洋平は、恵理の顔を正面から見た。

 三十年ぶりに見た恵理の顔は、小学生のころの面影を、ちゃんとどこかに残していた。

 少し丸い頬。

 まっすぐな目。

 控えめに笑うときの口の端の形。

 三十年という時間は、確かにその上に重なっていた。

 でも消えてはいなかった。

 あの子は、ちゃんとここにいた。

 洋平は、何かを言おうとした。

 でも言葉が、うまく出なかった。

 その代わりに口から出たのは・・

「・・俺も」

 という声だった。


「俺も」

 洋平がもう一度言った。

「何ですか?」と恵理が聞いた。

「俺も・・知らなかった。そんなこと」

「そりゃ知らないよ。言ってないんだから」

「でも・・」

 洋平は少し言葉を探した。

 空気の中に言葉がある気がするのに、なかなか掴めなかった。

「知りたかったと思う。当時」


 また静寂。

 そして今度は菜摘が「えー!」と言って立ち上がった。

「洋平くんそれどういう意味!?」

「いや、そのままの意味だけど」

「ちゃんと言って! それって好きってこと!?」

「当時の話をしてる」

「当時の話でいいから!」

 徹がまた笑い出した。

「洋平ぃ、お前それ、ちゃんと言えよ!」

「三十年前の話をしてるんだよ」

「三十年前でいいから言ってくれよ!」

 さくらが「言って言って!」と手を振った。

 健一郎が「えらいことになってきたな」と言った。

 由美が「ほら洋平くん!」と迫った。

 洋平は少し笑って、首を振って、「だから、当時の話として言うと」と前置きして、それから何も言わなかった。

「なんで言わないの!」

「言わなくていいだろ、当時の話なんだから」

 また全員が笑った。


 恵理は笑った。

 さっきまでの泣きそうな顔が、急に明るくなった。

「いいよ、もう」

 恵理が言った。

 笑いながら、でもしっかりした声で。

「三十年前に言えなかったんだから、もうしょうがない。でも・・」

 少し間を置いた。

 その間に、教室が少し静かになった。

「でも、こうやってまた会えたから。手紙に書いておいた十二歳のわたしが、三十年後の今夜ここに連れてきてくれたから。それで十分かな」

 笑顔だった。

 本当の笑顔、だった。

 少し目が赤くて、でも笑っていた。


 帰り際、廊下を歩いていたとき、洋平と恵理が少しの間だけ二人になる場面があった。

 みんなが先に出て、二人が最後になった。

 たまたまそうなった。

 たまたま、だった。

「洋平くん」

「うん」

「さっきの、ありがとう」

「何が」

「言ってくれて。ちゃんと」

 洋平は少し考えた。

「俺こそ、ありがとう。手紙に書いておいてくれて」

「手紙に書いたのは十二歳の私だよ」

「その十二歳の君に、ありがとうを言いたい」

 恵理はしばらく洋平の顔を見た。

 夜の廊下で、窓から外の明かりが少し入っていた。

 それから、小さく笑った。

「伝えておく」

 二人で歩き出した。

 それだけだった。

 それだけで、十分だった。


 その夜、恵理は帰り道にふと思った。

 言えなかった言葉は、消えない。

 直樹くんの話を聞いたとき、洋平くんの話を聞いたとき、そう思った。

 届かなかった言葉が、三十年後に届く。

 わたしの言葉も、手紙という形で、届いた。

 ずっとしまっていた気持ちが、今夜、空気に触れた。

 笑われて、泣いて、また笑った。

 でも届いた。

 言えなかった言葉は、消えずに、届いていた。


 十二歳のわたしが書いた「あの気持ちは、本物でした」という言葉を、今夜、四十二歳のわたしが受け取った。

 三十年かけて、自分自身に届いた手紙だった。

 それだけで、もう十分な気がした。

 夜道の空は、先週と同じく星が出ていた。

 直樹くんの分まで見ているような気がして、恵理は空に向かって少し手を振った。

 恵理の保育園に、最近新しい子が入園した。

 おとなしくて、でも笑うと目が細くなる女の子。

 お母さんの苗字を見て、恵理はある人の顔を思い浮かべた。

 美穂ちゃんの娘だ、と直感した。

 電話してみようかな、と思いながら、まだ電話できていない。

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