↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
25/32

第23話 みんな、三十年後も友達だよ

 鈴木直樹のことを、正確に覚えていない人間は、このクラスにいないはずだった。


 六年二組の、小さくて、いつも笑っていた子ども。

 給食のおかずを平気で人にあげて、体育のドッジボールでは最初にボールをぶつけられて、それでも懲りずに「俺、鈍いんだよね」と笑い飛ばしていた子ども。

 休み時間になると教室を飛び出して誰よりも先に校庭に出て、チャイムが鳴るまで走り回って、髪を汗でびっしょりにして戻ってくる子ども。

 学校の中で、太陽の真似をしている子どもがいるとすれば、それが直樹だった、と洋平は今も思う。


 三十年前の春。

 タイムカプセルを校庭に埋めた日も、直樹はいつものように笑っていた。

 封筒を渡しながら「ねえ洋平、これ絶対に俺の字ひどいよ。三十年後に恥ずかしいな」と言っていた。

 先生が「気持ちを書けばいいんだよ」と答えると、「じゃあ気持ちだけ書く」とまた笑って、誰よりも短い時間で封を閉じた。

 その直樹が、この世界にいなくなってから、もう二十年が経つ。


 集まりは、第二十二回の洋平の回が終わった翌週だった。

 洋平が「先生に、言えなかったことがある」と打ち明けたあの夜から、みんなの中に何かが変わっていた。

 言えなかった言葉というものが、消えないまま人の中に残り続けるのだと、あの夜に全員が体で知った。

 それは洋平だけの話ではなかった。

 それぞれの胸の中に、誰かに言えないまま終わったことの一つや二つが、静かに眠っていることを、誰もがあの夜に思い出した。


 いつもの教室・・もとの六年二組の廃墟の空間に、折り畳み椅子を並べた集まりの場・・に、今日だけ、見知らぬ顔があった。

 三十代半ば、スラリと背の高い男性。

 紺色のジャケットにスラックス。

 きちんと整えられた短い髪。

 しかし洋平には、その輪郭がどこか見覚えがあった。

 直樹の面影、というほど確かではないが、どこかの角度で、何かが重なる気がした。

 その男性は、輪の外で少し遠慮がちに立っていた。

「鈴木・・拓哉です」

 男性が言った。

 低くて、落ち着いた声だった。

「直樹の、弟です」


 部屋の空気が、一瞬で変わった。

 由美が小さく息を呑んだ。

 誠の手がテーブルの上でぴたりと止まった。

 さくらが、隣の菜摘の腕にそっと触れた。

 洋平は、自分の胸がきゅ、と縮むのを感じた。


 直樹の、弟。

 そうだ。

 いたはずだ。

 小さい弟が。当時まだ幼稚園だったか、小学校に上がったばかりだったか・・そんな記憶が、霞の向こうからゆっくりと戻ってきた。

 確か一度、直樹が「うちの弟、生意気なんだよな」と誇らしそうに言っていた。

 どう見ても誇らしがっているように見えたのに、「生意気」という言葉を選ぶのが直樹らしかった。


「急に押しかけて、申し訳ありません」

 拓哉は深く頭を下げた。

「お母さんから・・母親から、話を聞いたんです。タイムカプセルを開ける集まりがあると。兄の分の手紙が入っているかもしれないと。それで・・母は体が悪くて来られなくて、俺が代わりに」

 声が少し震えた。

 でも彼は、それを飲み込んで続けた。

「来てもいいものか、ずっと迷っていました。みなさんの集まりに、部外者が来るのは違うんじゃないかって。でも母が言うんです。直樹の手紙を、みんなに届けてほしいって。それだけ、と言うんです」


 洋平は立ち上がった。

「来てくれてよかった。ありがとう、拓哉くん」

 拓哉は少し驚いたような顔をした。

 まさか最初にそう言われるとは思っていなかったのだろう。目の端が、ゆっくりと赤くなった。

「・・すみません」と彼は言った。

「謝らなくていいよ」と洋平は答えた。

「直樹の弟が来てくれたんだから。それだけで、直樹が来てくれたみたいな気がする」

 徹が小さく「そうだよ」と言った。

 由美も、さくらも、うなずいた。


 封筒は、茶色く変色していた。

 三十年の時間を、正直に体に刻んでいる封筒だった。

「鈴木直樹」と書かれた宛名の下に、「三十年後のぼくへ」とあった。

 インクがにじんでいる箇所が一カ所あった。

 書いているときに汗でも落としたのだろうか。

 それとも、子どもの涙だろうか。

 どちらでも不思議ではなかった。


 文字は、確かにひどかった。

 小学六年生の男の子の文字で、「直」という字だけがなぜか丁寧で、他の文字は投げやりなほどに荒っている。

 全体的に右肩上がりで、行がだんだん斜めになっていく。

 直樹らしい、と洋平は思った。

 きっと誰かと話しながら書いていた。

 それを拓哉がみんなに見せたとき、誰かが笑った。

 徹だった。

「ひどい字だなあ、直樹の奴・・」

 そしてすぐに、徹の目が潤んだ。

 笑いながら泣いていた。

 笑いと涙が同時にある顔というのはどこか不思議で、でも今夜の部屋にはそれが自然に似合った。


 手紙を読んだのは、洋平だった。

 拓哉が「洋平さんに読んでほしい、と母が言っていました」と告げたからだ。

 どうして洋平の名前を知っているのか聞いたら、「昔の写真に、お前のことを一番よく話す友達がいるって書いてありました」と言われた。

 それだけで、洋平は喉の奥が熱くなった。

 洋平は、封筒を受け取ったとき、指先が微かに震えているのに気づいた。

 三十年の紙の重さ、ではない。

 これは、もっと別の重さだ。

 亡くなった人の言葉を読むということの重さ。

 二十年前に失ったものが、今夜だけ少しだけ戻ってくるような、怖いような、嬉しいような重さ。

 深呼吸をして、封を開ける。

 中から取り出した便箋は一枚だけ。罫線からはみ出した文字が、所狭しと並んでいた。

 洋平は、読んだ。


「三十年後のぼくへ。

 元気ですか。ぼくは元気です。今日はタイムカプセルを埋める日です。なんかちょっと恥ずかしいけど、先生に書けっていわれたから書きます。

 三十年後のぼくへ。

 みんな、三十年後も友達だよ。

 これだけ伝えたかった。ぼくは三十年後、何をしているかわからないけど、洋平とか由美ちゃんとか徹とか、みんなと友達でいたいです。もし誰かとケンカしてたら、この手紙を読んで仲直りしてください。もし誰かと会えてなかったら、この手紙を読んで会いに行ってください。

 三十年後のぼくへ。お前は今、友達と一緒にいますか。

 一緒にいてください。ぼくは、みんなのことが大好きです。みんな、三十年後も友達だよ。

 鈴木直樹」


 洋平は、最後まで読んだ。

 声が揺れた。

 でも、最後まで読んだ。

 最後の「みんな、三十年後も友達だよ」という一行のところで、どうしても声が細くなった。

 でも、読んだ。

 教室は、静まり返っていた。

 由美が、両手で顔を覆っていた。

 徹は、床を見つめたまま動かなかった。

 さっきの笑いはもうどこにもなくて、ただ静かに座っていた。

 さくらが、声を殺して泣いていた。

 健一郎が、天井を見上げていた。

 目を細めて、空気の向こう側を見るような顔だった。

 菜摘が、手をぎゅっと膝の上で握り締めていた。

 誠は、ずっと目を閉じていた。

 誰も、言葉を出せなかった。


 当たり前だ。

 三十年後のことを書いた手紙が、三十年後に届いた。

 でも書いた本人は、もうここにいない。

 それでも・・手紙は届いた。

 言葉は、消えなかった。

 もし誰かとケンカしてたら、仲直りしてください。

 もし誰かと会えてなかったら、会いに行ってください。

 ・・直樹が十二歳で書いたその言葉が、三十年後の夜に、ちゃんと六年二組の教室に届いていた。


 しばらく経って、拓哉が静かに口を開いた。

「兄がどんな子だったか、俺はほとんど知らないんです。当時、俺はまだ五歳でした。兄のことで覚えているのは、おでこが広かったこと。笑い声が大きかったこと。あと、俺が泣いているとどこからともなく来て、頭をぽんぽんするだけして、何も言わずに行ってしまう人だったこと。それくらいで」

 全員が拓哉の方を向いた。


「兄が死んで、家の中がずっと静かになった。母は何年も、普通の顔をして生きていました。俺に心配かけないようにって。でも・・」

 拓哉は、少し言葉に詰まった。

「でも母は、毎年、直樹の誕生日になると、あいつの小学校の写真を出してきて、ひとりで見ていたんです。何時間も。そして夜になると仕舞って。翌朝にはまた普通の顔で朝ごはんを作っていた。それを繰り返していた。何年も、何年も」

 誰かが鼻をすすった。

「俺は一度も、その写真を一緒に見ようと言えなかった。どう声をかければいいかわからなくて。俺が泣いたら、母が余計につらくなると思って」

 拓哉は、膝の上で手を組んだ。

「今日、この手紙が戻ってきたら、母に届けます。あの人が一番、読みたかったと思うから。俺より先に、母に読んでほしい」


 その夜、帰り道に、洋平は一人で空を見た。

 十月の夜空だった。

 星が、驚くほどたくさん出ていた。

 廃校の周辺は街灯が少なくて、その分だけ夜が深い。

 直樹と並んで歩いた通学路も、こんな夜だったかもしれない。

 そうだ。帰り道にいつも直樹と話していた。

 何の話だったか、もう細かいことは覚えていない。

 でも笑いながら歩いていたことだけは、体が覚えている。


 洋平は、直樹が笑っていた顔を、思い出していた。

 給食のとき隣に座っていたこと。

 体育の時間に転んで泥だらけになったこと。

 卒業式の前日、「俺、泣かないように訓練してきた」と言って、当日誰よりも号泣していたこと。

 そして、「三十年後も友達だよな」という言葉・・それを直接聞いたことはなかったが、今夜、便箋の上でその言葉を読んだとき、確かに直樹の声で聞こえた気がした。


 言えなかったことは、消えない。

 届かないはずの言葉が、届く。

 直樹の手紙は、三十年かけてここに来た。

 本人の代わりに、弟が届けに来た。

 それでも、届いた。

 形が変わっても、時間がかかっても、言葉は消えない。

 直樹が十二歳で書いたその言葉が、四十二歳の洋平の胸に、今夜、ちゃんと届いた。

 みんな、三十年後も友達だよ。

 洋平は、夜空に向かって静かに言った。

「直樹、来てくれてありがとう」

 答えはなかった。

 でも、風が少しだけ動いた。

 気のせいかもしれない。

 でも今夜は、気のせいでもよかった。


 翌週、拓哉からメッセージが届いた。

「手紙を母に渡しました。母は、仏壇の前で、ずっと読んでいました。一時間以上。それから夕ごはんのときにようやく顔を上げて、一言だけ言いました。『やっぱり直樹だ』って」

 洋平はスマートフォンの画面を見つめた。

「やっぱり」という言葉が、胸に刺さった。

 お母さんはずっと知っていたのだ。

 直樹がどんな子どもだったか。

 あの子がどんな言葉を書くか。

 それでも三十年、手紙が来るのを待っていた。

 洋平は返信を打った。

「拓哉くん、あの子はずっと笑っていました。三十年後も、たぶん同じ顔で笑っています。どうか、お母さんによろしく伝えてください」

 送信ボタンを押したあと、洋平は静かに目を閉じた。


 廃校の教室で聞こえた、あの沈黙が、まだ耳の奥に残っていた。

 手紙を読み終わったあとの、誰も声を出せなかった、あの静寂。

 それは悲しみではあったけれど、同時に何か温かいものでもあった。

 みんなで、黙ってそこにいた。

 それだけで、十分だった。

 直樹の言ったとおり、みんなは三十年後も、同じ教室にいた。

 施設で莉子が毎週歌っている古い歌謡曲のタイトルが、直樹の苗字と同じだということを、帰り道に洋平は思い出した。

 偶然かもしれない。

 でも、今夜に限っては偶然とは思えなかった。

 次の集まりで、莉子に聞いてみようと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。