第23話 みんな、三十年後も友達だよ
鈴木直樹のことを、正確に覚えていない人間は、このクラスにいないはずだった。
六年二組の、小さくて、いつも笑っていた子ども。
給食のおかずを平気で人にあげて、体育のドッジボールでは最初にボールをぶつけられて、それでも懲りずに「俺、鈍いんだよね」と笑い飛ばしていた子ども。
休み時間になると教室を飛び出して誰よりも先に校庭に出て、チャイムが鳴るまで走り回って、髪を汗でびっしょりにして戻ってくる子ども。
学校の中で、太陽の真似をしている子どもがいるとすれば、それが直樹だった、と洋平は今も思う。
三十年前の春。
タイムカプセルを校庭に埋めた日も、直樹はいつものように笑っていた。
封筒を渡しながら「ねえ洋平、これ絶対に俺の字ひどいよ。三十年後に恥ずかしいな」と言っていた。
先生が「気持ちを書けばいいんだよ」と答えると、「じゃあ気持ちだけ書く」とまた笑って、誰よりも短い時間で封を閉じた。
その直樹が、この世界にいなくなってから、もう二十年が経つ。
集まりは、第二十二回の洋平の回が終わった翌週だった。
洋平が「先生に、言えなかったことがある」と打ち明けたあの夜から、みんなの中に何かが変わっていた。
言えなかった言葉というものが、消えないまま人の中に残り続けるのだと、あの夜に全員が体で知った。
それは洋平だけの話ではなかった。
それぞれの胸の中に、誰かに言えないまま終わったことの一つや二つが、静かに眠っていることを、誰もがあの夜に思い出した。
いつもの教室・・もとの六年二組の廃墟の空間に、折り畳み椅子を並べた集まりの場・・に、今日だけ、見知らぬ顔があった。
三十代半ば、スラリと背の高い男性。
紺色のジャケットにスラックス。
きちんと整えられた短い髪。
しかし洋平には、その輪郭がどこか見覚えがあった。
直樹の面影、というほど確かではないが、どこかの角度で、何かが重なる気がした。
その男性は、輪の外で少し遠慮がちに立っていた。
「鈴木・・拓哉です」
男性が言った。
低くて、落ち着いた声だった。
「直樹の、弟です」
部屋の空気が、一瞬で変わった。
由美が小さく息を呑んだ。
誠の手がテーブルの上でぴたりと止まった。
さくらが、隣の菜摘の腕にそっと触れた。
洋平は、自分の胸がきゅ、と縮むのを感じた。
直樹の、弟。
そうだ。
いたはずだ。
小さい弟が。当時まだ幼稚園だったか、小学校に上がったばかりだったか・・そんな記憶が、霞の向こうからゆっくりと戻ってきた。
確か一度、直樹が「うちの弟、生意気なんだよな」と誇らしそうに言っていた。
どう見ても誇らしがっているように見えたのに、「生意気」という言葉を選ぶのが直樹らしかった。
「急に押しかけて、申し訳ありません」
拓哉は深く頭を下げた。
「お母さんから・・母親から、話を聞いたんです。タイムカプセルを開ける集まりがあると。兄の分の手紙が入っているかもしれないと。それで・・母は体が悪くて来られなくて、俺が代わりに」
声が少し震えた。
でも彼は、それを飲み込んで続けた。
「来てもいいものか、ずっと迷っていました。みなさんの集まりに、部外者が来るのは違うんじゃないかって。でも母が言うんです。直樹の手紙を、みんなに届けてほしいって。それだけ、と言うんです」
洋平は立ち上がった。
「来てくれてよかった。ありがとう、拓哉くん」
拓哉は少し驚いたような顔をした。
まさか最初にそう言われるとは思っていなかったのだろう。目の端が、ゆっくりと赤くなった。
「・・すみません」と彼は言った。
「謝らなくていいよ」と洋平は答えた。
「直樹の弟が来てくれたんだから。それだけで、直樹が来てくれたみたいな気がする」
徹が小さく「そうだよ」と言った。
由美も、さくらも、うなずいた。
封筒は、茶色く変色していた。
三十年の時間を、正直に体に刻んでいる封筒だった。
「鈴木直樹」と書かれた宛名の下に、「三十年後のぼくへ」とあった。
インクがにじんでいる箇所が一カ所あった。
書いているときに汗でも落としたのだろうか。
それとも、子どもの涙だろうか。
どちらでも不思議ではなかった。
文字は、確かにひどかった。
小学六年生の男の子の文字で、「直」という字だけがなぜか丁寧で、他の文字は投げやりなほどに荒っている。
全体的に右肩上がりで、行がだんだん斜めになっていく。
直樹らしい、と洋平は思った。
きっと誰かと話しながら書いていた。
それを拓哉がみんなに見せたとき、誰かが笑った。
徹だった。
「ひどい字だなあ、直樹の奴・・」
そしてすぐに、徹の目が潤んだ。
笑いながら泣いていた。
笑いと涙が同時にある顔というのはどこか不思議で、でも今夜の部屋にはそれが自然に似合った。
手紙を読んだのは、洋平だった。
拓哉が「洋平さんに読んでほしい、と母が言っていました」と告げたからだ。
どうして洋平の名前を知っているのか聞いたら、「昔の写真に、お前のことを一番よく話す友達がいるって書いてありました」と言われた。
それだけで、洋平は喉の奥が熱くなった。
洋平は、封筒を受け取ったとき、指先が微かに震えているのに気づいた。
三十年の紙の重さ、ではない。
これは、もっと別の重さだ。
亡くなった人の言葉を読むということの重さ。
二十年前に失ったものが、今夜だけ少しだけ戻ってくるような、怖いような、嬉しいような重さ。
深呼吸をして、封を開ける。
中から取り出した便箋は一枚だけ。罫線からはみ出した文字が、所狭しと並んでいた。
洋平は、読んだ。
「三十年後のぼくへ。
元気ですか。ぼくは元気です。今日はタイムカプセルを埋める日です。なんかちょっと恥ずかしいけど、先生に書けっていわれたから書きます。
三十年後のぼくへ。
みんな、三十年後も友達だよ。
これだけ伝えたかった。ぼくは三十年後、何をしているかわからないけど、洋平とか由美ちゃんとか徹とか、みんなと友達でいたいです。もし誰かとケンカしてたら、この手紙を読んで仲直りしてください。もし誰かと会えてなかったら、この手紙を読んで会いに行ってください。
三十年後のぼくへ。お前は今、友達と一緒にいますか。
一緒にいてください。ぼくは、みんなのことが大好きです。みんな、三十年後も友達だよ。
鈴木直樹」
洋平は、最後まで読んだ。
声が揺れた。
でも、最後まで読んだ。
最後の「みんな、三十年後も友達だよ」という一行のところで、どうしても声が細くなった。
でも、読んだ。
教室は、静まり返っていた。
由美が、両手で顔を覆っていた。
徹は、床を見つめたまま動かなかった。
さっきの笑いはもうどこにもなくて、ただ静かに座っていた。
さくらが、声を殺して泣いていた。
健一郎が、天井を見上げていた。
目を細めて、空気の向こう側を見るような顔だった。
菜摘が、手をぎゅっと膝の上で握り締めていた。
誠は、ずっと目を閉じていた。
誰も、言葉を出せなかった。
当たり前だ。
三十年後のことを書いた手紙が、三十年後に届いた。
でも書いた本人は、もうここにいない。
それでも・・手紙は届いた。
言葉は、消えなかった。
もし誰かとケンカしてたら、仲直りしてください。
もし誰かと会えてなかったら、会いに行ってください。
・・直樹が十二歳で書いたその言葉が、三十年後の夜に、ちゃんと六年二組の教室に届いていた。
しばらく経って、拓哉が静かに口を開いた。
「兄がどんな子だったか、俺はほとんど知らないんです。当時、俺はまだ五歳でした。兄のことで覚えているのは、おでこが広かったこと。笑い声が大きかったこと。あと、俺が泣いているとどこからともなく来て、頭をぽんぽんするだけして、何も言わずに行ってしまう人だったこと。それくらいで」
全員が拓哉の方を向いた。
「兄が死んで、家の中がずっと静かになった。母は何年も、普通の顔をして生きていました。俺に心配かけないようにって。でも・・」
拓哉は、少し言葉に詰まった。
「でも母は、毎年、直樹の誕生日になると、あいつの小学校の写真を出してきて、ひとりで見ていたんです。何時間も。そして夜になると仕舞って。翌朝にはまた普通の顔で朝ごはんを作っていた。それを繰り返していた。何年も、何年も」
誰かが鼻をすすった。
「俺は一度も、その写真を一緒に見ようと言えなかった。どう声をかければいいかわからなくて。俺が泣いたら、母が余計につらくなると思って」
拓哉は、膝の上で手を組んだ。
「今日、この手紙が戻ってきたら、母に届けます。あの人が一番、読みたかったと思うから。俺より先に、母に読んでほしい」
その夜、帰り道に、洋平は一人で空を見た。
十月の夜空だった。
星が、驚くほどたくさん出ていた。
廃校の周辺は街灯が少なくて、その分だけ夜が深い。
直樹と並んで歩いた通学路も、こんな夜だったかもしれない。
そうだ。帰り道にいつも直樹と話していた。
何の話だったか、もう細かいことは覚えていない。
でも笑いながら歩いていたことだけは、体が覚えている。
洋平は、直樹が笑っていた顔を、思い出していた。
給食のとき隣に座っていたこと。
体育の時間に転んで泥だらけになったこと。
卒業式の前日、「俺、泣かないように訓練してきた」と言って、当日誰よりも号泣していたこと。
そして、「三十年後も友達だよな」という言葉・・それを直接聞いたことはなかったが、今夜、便箋の上でその言葉を読んだとき、確かに直樹の声で聞こえた気がした。
言えなかったことは、消えない。
届かないはずの言葉が、届く。
直樹の手紙は、三十年かけてここに来た。
本人の代わりに、弟が届けに来た。
それでも、届いた。
形が変わっても、時間がかかっても、言葉は消えない。
直樹が十二歳で書いたその言葉が、四十二歳の洋平の胸に、今夜、ちゃんと届いた。
みんな、三十年後も友達だよ。
洋平は、夜空に向かって静かに言った。
「直樹、来てくれてありがとう」
答えはなかった。
でも、風が少しだけ動いた。
気のせいかもしれない。
でも今夜は、気のせいでもよかった。
翌週、拓哉からメッセージが届いた。
「手紙を母に渡しました。母は、仏壇の前で、ずっと読んでいました。一時間以上。それから夕ごはんのときにようやく顔を上げて、一言だけ言いました。『やっぱり直樹だ』って」
洋平はスマートフォンの画面を見つめた。
「やっぱり」という言葉が、胸に刺さった。
お母さんはずっと知っていたのだ。
直樹がどんな子どもだったか。
あの子がどんな言葉を書くか。
それでも三十年、手紙が来るのを待っていた。
洋平は返信を打った。
「拓哉くん、あの子はずっと笑っていました。三十年後も、たぶん同じ顔で笑っています。どうか、お母さんによろしく伝えてください」
送信ボタンを押したあと、洋平は静かに目を閉じた。
廃校の教室で聞こえた、あの沈黙が、まだ耳の奥に残っていた。
手紙を読み終わったあとの、誰も声を出せなかった、あの静寂。
それは悲しみではあったけれど、同時に何か温かいものでもあった。
みんなで、黙ってそこにいた。
それだけで、十分だった。
直樹の言ったとおり、みんなは三十年後も、同じ教室にいた。
施設で莉子が毎週歌っている古い歌謡曲のタイトルが、直樹の苗字と同じだということを、帰り道に洋平は思い出した。
偶然かもしれない。
でも、今夜に限っては偶然とは思えなかった。
次の集まりで、莉子に聞いてみようと思った。




