第22話 優しい人になります
洋平の手紙は、みんなの手紙の中で一番最後に残っていた。
缶が開かれたあの日から、ずっと最後にしていた。
自分の番が来ると、他の誰かの話を始めて、いつの間にか時間が過ぎていた。
洗面台で顔を洗って出てきたり、コーヒーを淹れに席を立ったり・・やり方が子どもっぽいのは自分でもわかっていたが、どうしても手が伸びなかった。
みんなの手紙を読んできた半年間で、洋平はずっと気づいていた。
誰もが、夢と現実の間に立って、でも何かを手にして生きてきたということ。
叶わなかった夢があっても、それ以上のものを積み上げてきたということ。
みんな、すごいと思った。
本当に。
だから自分の番が来るのが、怖かった。
みんなのように話せる気がしなかった。
自分には、それがなかった。
すごいことを成し遂げた三十年でも、夢の形を変えて前を向いた三十年でも、誰かを助けて生きてきた三十年でも・・何かがあったという感覚が、薄かった。
平凡だったと思っていた。
本当にそう思っていた。
今日、由美が「洋平くんの、今日でしょ」と言い、徹が「そうだよ、もう最後だよ」と言った。
健一郎が「翔太も読んでほしいって言ってたよ。今日来られなくてごめんって」と付け加えた。
洋平には逃げ場がなくなった。
「・・そうだな」
手元の封筒を持ち上げた。
「岩瀬洋平くんへ」と書いてある。
自分の手紙なのに、どこか他人のもののような感じがした。
三十年という時間は、手紙の差出人をそれだけ遠くに押しやってしまうものらしかった。
「声に出してよ」と由美が言った。
「ちゃんと読んでよ」と徹が言った。
封を切るとき、少しだけ手が震えた。
たぶん、誰にも気づかれなかった。
便箋を開くと、小学生の字で、こんなことが書いてあった。
「ぼくは三十年後、優しい人になります」
読み始めた瞬間、教室が静かになった。
「みんなが困ったとき、助けてあげられる人になります。誰かが悲しいとき、そばにいてあげられる人になります。自分のことより、人のことを大事にできる人になります。それがぼくのなりたい大人です」
洋平は一度だけ止まった。
続きがあった。
「でも、本当は、もっとべんきょうができて、もっとすごいことができる人になりたいです。でも、たぶんぼくには無理だとわかっています。だからせめて、優しい人になります」
「せめて」という字のところで、鉛筆が少しだけ強く押されていた。
消しかけた跡もある。
一度書いて、消そうとして、やっぱり残した字だった。
洋平は手紙をゆっくりと置いた。
「・・せめて、か」と徹が静かに言った。
「十二歳のくせに、ずいぶん諦めてるな」と健一郎が言った。
しかし笑いにはならなかった。
洋平は軽く息をついた。
「そんな子どもだったんですよ。昔から」
「今も?」と由美が聞いた。
「今も、たぶん」
「優しい人には、なれた?」
洋平はしばらく答えなかった。
窓の外に目をやって、また手元に目を戻した。
「わからないです。何かを成し遂げた、という感覚がなくて。三十年、ずっと市役所にいて、ずっと地元にいて、ずっと同じような日々で・・。たいしたことは、何もなかった気がしています」
沈黙が教室に広がった。
しかし、その沈黙は重くはなかった。
何かを考えているような、少し違う種類の静かさだった。
最初に声を出したのは、菜摘だった。
「洋平くんに、言わなきゃいけないことがあった」
全員が菜摘を見た。
「うちの花屋に、市の廃校プロジェクトからお花の仕事を頼んでもらったんだよね。プロジェクト担当、洋平くんでしょ」
「・・まあ、担当ではあるけど」
「あのとき、うちの店、本当に苦しかったの。お母さんの病院代もかさんでたし、コロナで売り上げも落ちてたし、続けられるかどうかって崖っぷちだった。だからあの仕事がなかったら、たぶんお店を閉めてた」
洋平は少し困ったような顔をした。
「あれは、普通に適任だったから頼んだだけで」
「そうかもしれない」と菜摘は言った。
「でも、適任を選んでくれた人がいたことは変わらない。助かったことも変わらない」
少しの間があって、健一郎が続いた。
「俺も言っていいか」
「どうぞ」と洋平が言った。
「NPOを始めた最初の年、いろんな窓口に話を持って行ったけど、ほとんど門前払いだった。国際支援なんて行政には関係ない、みたいな空気があって。もう日本では活動できないかと思ったとき、市役所に行ったら洋平が担当で出てきた」
「覚えてるよ、その話」
「一時間以上、話を聞いてくれた。具体的な支援策は何も出なかったけど・・ただ聞いてくれた。それで諦めずに続けられた。その後の活動の先に、助けた命がある。最初の一歩に洋平がいた」
洋平は視線をテーブルに落とした。
「俺は・・ただ話を聞いただけで」
「ただ話を聞いてくれた人が、どれだけありがたいかわかるか」と健一郎は言った。
穏やかな声だったが、力があった。
「俺は今でも覚えてる。あのときの洋平の顔を。ちゃんと聞いてる人の顔だった」
誠が咳払いをして、少し前に出た。
誠はあまり自分のことを話さない男で、教室の中でも発言が少ないほうだった。
その誠が口を開いた。
「俺も一つある」
「誠が言うなら聞く」と達也が言った。
「捜査が一番しんどかった時期があった。担当した事件で、証拠が出なくて、犯人とわかっているのに動けなくて・・あのときは精神的に限界だった。辞めようと本当に思ってた」
「そんな時期があったのか」と徹が言った。
「あった。誰にも言えなかった。当然、家族にも言えない。ある夜、何も考えずに外を歩いてたら、洋平に会った。たまたまだよ。洋平も散歩してたんだと思う。飯でも食うかって、近くの定食屋に入って、二時間くらいいた」
「覚えてる、その夜」と洋平が小さく言った。
「俺の話を聞いて、何も言わなかったんだよ、洋平は。アドバイスも、慰めも、何もなかった。ただいた。ただそばにいた。それがな・・あの夜があったから、俺は辞めなかった」
教室の温度が変わっていた。
笑い声でも泣き声でもなく、誰かの言葉が次の誰かの言葉を引き出していくような、そういう時間になっていた。
由美が「わたしもね」と言い始めた。
「父が死んだとき、誰にも言えなくて、一人でいたんだけど・・洋平、突然うちに来たんだよ。何も知らずにたまたま来たんだよね? でも何も聞かずに、一緒にテレビ見てた。それだけなんだけど。あのとき一番助かった」
洋平は「・・覚えてる」とだけ言った。
「全部覚えてるじゃないか」と徹が笑った。
「俺は覚えてるけど」と洋平は言った。
「たいしたことをしたとは、思えなくて」
「たいしたことが何かを決めるのは、された側だよ」と菜摘が言った。
静かに、はっきりと言った。
洋平は、しばらく何も言えなかった。
うつむいているわけではなかった。
視線は手元にあったが、顔は上げていた。
ただ、声が出なかった。
三十年、そういう人間だった。
目立たなかった。
中心にいたことはなかった。
誰かに感謝されても「そんなことないです」と言って流してきた。
褒められることが苦手で、すごいと言われるたびに「大したことじゃないんですよ」と言いたくなる癖が、子どもの頃からあった。
でも今日は、流せなかった。
菜摘も、健一郎も、誠も、由美も、みんな本当のことを言っていた。
洋平には、それがわかった。
社交辞令や、励ましのための嘘ではなかった。
確かに覚えている、という顔で話していた。
十二歳の洋平が書いた「せめて、優しい人になります」という一行が、三十年分の意味を持ちながらそこにあった。
叶ったのかどうかは、まだわからなかった。
でも、諦めなかった自分だけはいた。
「せめて」と書いた子どもが、三十年間「せめて」を続けていた。
それが、叶ったということなのかもしれない。
洋平はゆっくりと顔を上げた。
「言っていいですか、俺も」
「どうぞ」と由美が言った。
洋平は手元の手紙を見て、少しの間だけ黙った。
どこから話せばいいか、順番を考えているような顔だった。
「先生に、言えなかったことがある」
教室が静まり返った。
佐々木先生の名前は、みんなの中にある。
先生が亡くなったことを洋平が告げて以来、その存在はずっとこの集まりの背景にあった。
でも洋平自身が先生の話を自分から始めるのは、今日が初めてだった。
「六年生のとき、授業中だったか、授業の合間だったか、廊下から職員室が見えることがあって。一回だけ、先生が机に肘をついて、目を押さえてるのが見えた。一人のときに」
「・・それ、病気だったのかな」と誰かが言った。
「わからない。でも、普通じゃない顔をしてた。ひどく疲れてた。苦しそうにも見えた」
「声をかけなかったの?」と由美が聞いた。
優しい声で聞いた。
「かけようとした。廊下を引き返して、職員室のドアに手をかけた。でも、止まった」
「なんで」
「・・なんでだろう」
洋平は少し考えた。
「先生が弱いところを見せてるのが、怖かったのかもしれない。先生はいつも強い人だったから。それを見たことで、先生が別の人になる気がして。それが怖かったのかもしれない。子どもだったから、うまく説明できないけど」
「でも声をかけなかった」
「かけなかった。ドアから手を離して、教室に戻った」
誰も何も言わなかった。
洋平は続けた。
「先生が病気だったって、後から聞いた。十年前に亡くなったって知ったとき、悲しいより先に、間に合わなかった、と思った。あのとき声をかけていれば、もっと早く誰かが気づいていれば、そんなことを考えても仕方がないのはわかってる。でも三十年、引っかかってた」
「洋平くん・・」と菜摘が言った。
「言えなかったことって、消えないんだな、と思って」
洋平は声が少し揺れた。
でも続けた。
「みんなの話を聞きながら、ずっとそれを考えてた。翔太の話のとき。大輔の話のとき。さくらの話のとき。直樹の弟が来たとき。言えなかった言葉、届かなかった言葉、それがどれだけ重いか。みんなの話を聞くたびに、俺の中で先生のことが大きくなっていった」
由美が泣いていた。
音を立てずに、目から涙が落ちていた。
徹が目元を袖で拭った。
誠が天井を向いた。
「でも今日、ここで言えた」と洋平は言った。
「三十年後に、ようやく言えた。・・先生には届かないかもしれないけど」
菜摘が「届くよ」と言った。
小さな声だったが、教室中に聞こえた。
「届くと思う」
洋平は「ありがとう」と言った。
それだけ言って、手紙を折りたたんだ。
その日の集まりが終わった後、誰も帰ろうとしなかった。
荷物を持ったまま、椅子に腰を下ろしたまま、それぞれが何かを話したり、黙っていたりした。
帰れなかったというより、もう少しここにいたかった。
ここにいる間だけ、何かが続いている気がした。
テーブルの上には、タイムカプセルの缶の底から出てきた宛名のない封筒が、まだあった。
「この封筒、誰のだっけ」と健一郎が言った。
「わからない」と洋平が言った。
「差出人の名前もないし、宛名もない」
「ずっとここにあるな」
「ずっとある」
洋平は封筒を手に取った。
前から気になっていた。
この封筒の筆跡が、どこかで見た字に似ている。
出席簿のあの字。
職員室の黒板に書かれた字。
授業中に黒板に書かれた丸っこくて力強い字。
でも言えなかった。
まだ言えなかった。
確信があるような気がして、でもその確信を口にしてしまうと、何かが変わってしまう気がして。
あの日先生のドアに手をかけて止まったように、洋平はまだ、その一歩の前にいた。
「次の週に、みんなで考えよう」と洋平は言った。
「そうしよう」と徹が言った。
全員がゆっくりと立ち上がり、荷物を手に取り始めた。
夜の校舎の廊下は、薄暗かった。
廊下の窓から、街の光が遠く見えた。
洋平は最後に教室を出た。
電気のスイッチに手をかけながら、一度だけ教室を振り返った。
三十年前も、こんなふうに最後に教室を出たような気がした。
学級委員長だったから、戸締まりを確認して、鍵を先生に返しに行くのが洋平の役目だった。
先生。
洋平は声に出さずに、口だけ動かした。
「大丈夫ですか」
三十年分の言葉が、薄暗い教室の空気に少しだけ溶けた。
届いたかどうかは、わからない。
でも言えた。
三十年後に、ここで、ようやく言えた。
洋平はそれで十分だと思いながら、廊下の電気を消した。




