↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
24/32

第22話 優しい人になります

 洋平の手紙は、みんなの手紙の中で一番最後に残っていた。


 缶が開かれたあの日から、ずっと最後にしていた。

 自分の番が来ると、他の誰かの話を始めて、いつの間にか時間が過ぎていた。

 洗面台で顔を洗って出てきたり、コーヒーを淹れに席を立ったり・・やり方が子どもっぽいのは自分でもわかっていたが、どうしても手が伸びなかった。


 みんなの手紙を読んできた半年間で、洋平はずっと気づいていた。

 誰もが、夢と現実の間に立って、でも何かを手にして生きてきたということ。

 叶わなかった夢があっても、それ以上のものを積み上げてきたということ。

 みんな、すごいと思った。

 本当に。

 だから自分の番が来るのが、怖かった。

 みんなのように話せる気がしなかった。

 自分には、それがなかった。

 すごいことを成し遂げた三十年でも、夢の形を変えて前を向いた三十年でも、誰かを助けて生きてきた三十年でも・・何かがあったという感覚が、薄かった。

 平凡だったと思っていた。

 本当にそう思っていた。


 今日、由美が「洋平くんの、今日でしょ」と言い、徹が「そうだよ、もう最後だよ」と言った。

 健一郎が「翔太も読んでほしいって言ってたよ。今日来られなくてごめんって」と付け加えた。

 洋平には逃げ場がなくなった。

「・・そうだな」

 手元の封筒を持ち上げた。

「岩瀬洋平くんへ」と書いてある。

 自分の手紙なのに、どこか他人のもののような感じがした。

 三十年という時間は、手紙の差出人をそれだけ遠くに押しやってしまうものらしかった。

「声に出してよ」と由美が言った。

「ちゃんと読んでよ」と徹が言った。

 封を切るとき、少しだけ手が震えた。

 たぶん、誰にも気づかれなかった。


 便箋を開くと、小学生の字で、こんなことが書いてあった。

「ぼくは三十年後、優しい人になります」

 読み始めた瞬間、教室が静かになった。

「みんなが困ったとき、助けてあげられる人になります。誰かが悲しいとき、そばにいてあげられる人になります。自分のことより、人のことを大事にできる人になります。それがぼくのなりたい大人です」

 洋平は一度だけ止まった。

 続きがあった。

「でも、本当は、もっとべんきょうができて、もっとすごいことができる人になりたいです。でも、たぶんぼくには無理だとわかっています。だからせめて、優しい人になります」

「せめて」という字のところで、鉛筆が少しだけ強く押されていた。

 消しかけた跡もある。

 一度書いて、消そうとして、やっぱり残した字だった。


 洋平は手紙をゆっくりと置いた。

「・・せめて、か」と徹が静かに言った。

「十二歳のくせに、ずいぶん諦めてるな」と健一郎が言った。

 しかし笑いにはならなかった。

 洋平は軽く息をついた。

「そんな子どもだったんですよ。昔から」

「今も?」と由美が聞いた。

「今も、たぶん」

「優しい人には、なれた?」

 洋平はしばらく答えなかった。

 窓の外に目をやって、また手元に目を戻した。

「わからないです。何かを成し遂げた、という感覚がなくて。三十年、ずっと市役所にいて、ずっと地元にいて、ずっと同じような日々で・・。たいしたことは、何もなかった気がしています」


 沈黙が教室に広がった。

 しかし、その沈黙は重くはなかった。

 何かを考えているような、少し違う種類の静かさだった。

 最初に声を出したのは、菜摘だった。

「洋平くんに、言わなきゃいけないことがあった」

 全員が菜摘を見た。

「うちの花屋に、市の廃校プロジェクトからお花の仕事を頼んでもらったんだよね。プロジェクト担当、洋平くんでしょ」

「・・まあ、担当ではあるけど」

「あのとき、うちの店、本当に苦しかったの。お母さんの病院代もかさんでたし、コロナで売り上げも落ちてたし、続けられるかどうかって崖っぷちだった。だからあの仕事がなかったら、たぶんお店を閉めてた」

 洋平は少し困ったような顔をした。

「あれは、普通に適任だったから頼んだだけで」

「そうかもしれない」と菜摘は言った。

「でも、適任を選んでくれた人がいたことは変わらない。助かったことも変わらない」


 少しの間があって、健一郎が続いた。

「俺も言っていいか」

「どうぞ」と洋平が言った。

「NPOを始めた最初の年、いろんな窓口に話を持って行ったけど、ほとんど門前払いだった。国際支援なんて行政には関係ない、みたいな空気があって。もう日本では活動できないかと思ったとき、市役所に行ったら洋平が担当で出てきた」

「覚えてるよ、その話」

「一時間以上、話を聞いてくれた。具体的な支援策は何も出なかったけど・・ただ聞いてくれた。それで諦めずに続けられた。その後の活動の先に、助けた命がある。最初の一歩に洋平がいた」

 洋平は視線をテーブルに落とした。

「俺は・・ただ話を聞いただけで」

「ただ話を聞いてくれた人が、どれだけありがたいかわかるか」と健一郎は言った。

 穏やかな声だったが、力があった。

「俺は今でも覚えてる。あのときの洋平の顔を。ちゃんと聞いてる人の顔だった」


 誠が咳払いをして、少し前に出た。

 誠はあまり自分のことを話さない男で、教室の中でも発言が少ないほうだった。

 その誠が口を開いた。

「俺も一つある」

「誠が言うなら聞く」と達也が言った。

「捜査が一番しんどかった時期があった。担当した事件で、証拠が出なくて、犯人とわかっているのに動けなくて・・あのときは精神的に限界だった。辞めようと本当に思ってた」

「そんな時期があったのか」と徹が言った。

「あった。誰にも言えなかった。当然、家族にも言えない。ある夜、何も考えずに外を歩いてたら、洋平に会った。たまたまだよ。洋平も散歩してたんだと思う。飯でも食うかって、近くの定食屋に入って、二時間くらいいた」

「覚えてる、その夜」と洋平が小さく言った。

「俺の話を聞いて、何も言わなかったんだよ、洋平は。アドバイスも、慰めも、何もなかった。ただいた。ただそばにいた。それがな・・あの夜があったから、俺は辞めなかった」

 教室の温度が変わっていた。

 笑い声でも泣き声でもなく、誰かの言葉が次の誰かの言葉を引き出していくような、そういう時間になっていた。


 由美が「わたしもね」と言い始めた。

「父が死んだとき、誰にも言えなくて、一人でいたんだけど・・洋平、突然うちに来たんだよ。何も知らずにたまたま来たんだよね? でも何も聞かずに、一緒にテレビ見てた。それだけなんだけど。あのとき一番助かった」

 洋平は「・・覚えてる」とだけ言った。

「全部覚えてるじゃないか」と徹が笑った。

「俺は覚えてるけど」と洋平は言った。

「たいしたことをしたとは、思えなくて」

「たいしたことが何かを決めるのは、された側だよ」と菜摘が言った。

 静かに、はっきりと言った。


 洋平は、しばらく何も言えなかった。

 うつむいているわけではなかった。

 視線は手元にあったが、顔は上げていた。

 ただ、声が出なかった。

 三十年、そういう人間だった。

 目立たなかった。

 中心にいたことはなかった。

 誰かに感謝されても「そんなことないです」と言って流してきた。

 褒められることが苦手で、すごいと言われるたびに「大したことじゃないんですよ」と言いたくなる癖が、子どもの頃からあった。

 でも今日は、流せなかった。


 菜摘も、健一郎も、誠も、由美も、みんな本当のことを言っていた。

 洋平には、それがわかった。

 社交辞令や、励ましのための嘘ではなかった。

 確かに覚えている、という顔で話していた。

 十二歳の洋平が書いた「せめて、優しい人になります」という一行が、三十年分の意味を持ちながらそこにあった。

 叶ったのかどうかは、まだわからなかった。

 でも、諦めなかった自分だけはいた。

「せめて」と書いた子どもが、三十年間「せめて」を続けていた。

 それが、叶ったということなのかもしれない。

 洋平はゆっくりと顔を上げた。


「言っていいですか、俺も」

「どうぞ」と由美が言った。

 洋平は手元の手紙を見て、少しの間だけ黙った。

 どこから話せばいいか、順番を考えているような顔だった。

「先生に、言えなかったことがある」

 教室が静まり返った。


 佐々木先生の名前は、みんなの中にある。

 先生が亡くなったことを洋平が告げて以来、その存在はずっとこの集まりの背景にあった。

 でも洋平自身が先生の話を自分から始めるのは、今日が初めてだった。

「六年生のとき、授業中だったか、授業の合間だったか、廊下から職員室が見えることがあって。一回だけ、先生が机に肘をついて、目を押さえてるのが見えた。一人のときに」

「・・それ、病気だったのかな」と誰かが言った。

「わからない。でも、普通じゃない顔をしてた。ひどく疲れてた。苦しそうにも見えた」

「声をかけなかったの?」と由美が聞いた。

 優しい声で聞いた。

「かけようとした。廊下を引き返して、職員室のドアに手をかけた。でも、止まった」

「なんで」

「・・なんでだろう」

 洋平は少し考えた。

「先生が弱いところを見せてるのが、怖かったのかもしれない。先生はいつも強い人だったから。それを見たことで、先生が別の人になる気がして。それが怖かったのかもしれない。子どもだったから、うまく説明できないけど」

「でも声をかけなかった」

「かけなかった。ドアから手を離して、教室に戻った」

 誰も何も言わなかった。


 洋平は続けた。

「先生が病気だったって、後から聞いた。十年前に亡くなったって知ったとき、悲しいより先に、間に合わなかった、と思った。あのとき声をかけていれば、もっと早く誰かが気づいていれば、そんなことを考えても仕方がないのはわかってる。でも三十年、引っかかってた」

「洋平くん・・」と菜摘が言った。

「言えなかったことって、消えないんだな、と思って」

 洋平は声が少し揺れた。

 でも続けた。

「みんなの話を聞きながら、ずっとそれを考えてた。翔太の話のとき。大輔の話のとき。さくらの話のとき。直樹の弟が来たとき。言えなかった言葉、届かなかった言葉、それがどれだけ重いか。みんなの話を聞くたびに、俺の中で先生のことが大きくなっていった」


 由美が泣いていた。

 音を立てずに、目から涙が落ちていた。

 徹が目元を袖で拭った。

 誠が天井を向いた。

「でも今日、ここで言えた」と洋平は言った。

「三十年後に、ようやく言えた。・・先生には届かないかもしれないけど」

 菜摘が「届くよ」と言った。

 小さな声だったが、教室中に聞こえた。

「届くと思う」

 洋平は「ありがとう」と言った。

 それだけ言って、手紙を折りたたんだ。


 その日の集まりが終わった後、誰も帰ろうとしなかった。

 荷物を持ったまま、椅子に腰を下ろしたまま、それぞれが何かを話したり、黙っていたりした。

 帰れなかったというより、もう少しここにいたかった。

 ここにいる間だけ、何かが続いている気がした。

 テーブルの上には、タイムカプセルの缶の底から出てきた宛名のない封筒が、まだあった。

「この封筒、誰のだっけ」と健一郎が言った。

「わからない」と洋平が言った。

「差出人の名前もないし、宛名もない」

「ずっとここにあるな」

「ずっとある」


 洋平は封筒を手に取った。

 前から気になっていた。

 この封筒の筆跡が、どこかで見た字に似ている。

 出席簿のあの字。

 職員室の黒板に書かれた字。

 授業中に黒板に書かれた丸っこくて力強い字。

 でも言えなかった。

 まだ言えなかった。

 確信があるような気がして、でもその確信を口にしてしまうと、何かが変わってしまう気がして。

 あの日先生のドアに手をかけて止まったように、洋平はまだ、その一歩の前にいた。

「次の週に、みんなで考えよう」と洋平は言った。

「そうしよう」と徹が言った。


 全員がゆっくりと立ち上がり、荷物を手に取り始めた。

 夜の校舎の廊下は、薄暗かった。

 廊下の窓から、街の光が遠く見えた。

 洋平は最後に教室を出た。

 電気のスイッチに手をかけながら、一度だけ教室を振り返った。

 三十年前も、こんなふうに最後に教室を出たような気がした。

 学級委員長だったから、戸締まりを確認して、鍵を先生に返しに行くのが洋平の役目だった。


 先生。

 洋平は声に出さずに、口だけ動かした。

「大丈夫ですか」

 三十年分の言葉が、薄暗い教室の空気に少しだけ溶けた。

 届いたかどうかは、わからない。

 でも言えた。

 三十年後に、ここで、ようやく言えた。

 洋平はそれで十分だと思いながら、廊下の電気を消した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。