第30話 最終話 「未来への手紙」
翌日の朝、洋平は全員にメッセージを送った。
「昼過ぎに、桜の木のところへ集まりませんか」
それだけだった。
理由は書かなかった。
でも、全員がすぐに返事をした。
「行く」
「もちろん」
「お昼ご飯食べてから」
「少し遅れるかもしれないけど行く」
「車椅子でも行けるよね」
「行ける、舗装してある」。
十分で全員の返事が揃った。
桜の木の下は、昨日と変わっているようで、変わっていなかった。
昨日から重機が入り続け、校舎の残骸がさらに少し減っていた。
瓦礫が端に寄せられ、校庭の土が剥き出しの面積が広がっている。
でも桜の木だけは、手つかずのままそこに立っていた。
冬の午後の光が、枝の間から斜めに差し込んでいた。
最初に来たのは、菜摘だった。
花屋を早めに閉めてきたのだという。
手に、小さな白い花束を持っていた。
白い小菊と、冬の緑。
花屋らしいシンプルな束だった。
「どこかに飾っていい?」
「木の根元に、置いてあげて」
菜摘は、花束を桜の木の根元にそっと置いた。
「三十年前、ここで桜の花を見たよね」
「見た。きれいだったよ。新しい缶を開けた日のこと、まだ覚えてる」
「来年の春、また来よう。花が咲いたら」
「来る」
菜摘が、小さく笑った。
根元に置いた花束を、もう一度だけ見た。
次第に、みんなが集まった。
徹が、少年野球のユニフォーム姿の子どもと一緒にやってきた。
「チームの練習の後で寄ってきた」と言った。
あの、大輔のパン屋に毎週来る野球少年だった。
男の子は「こんにちは」と頭を下げた。
大輔は、その子の頭を見て、少し目を細めた。
「いつも来てくれてるね」
「はい」
「今日、クリームパン、持ってきた」
大輔は、紙袋からパンを出した。
男の子に一個、渡した。
男の子は、両手で受け取って、「ありがとうございます」と言った。
その受け取り方が、丁寧だった。
大輔は、妻のことを思った。
この子は、妻が好きだったクリームパンを食べながら、試合の前日を過ごす。
それだけのことが、今日だけは眩しく見えた。
徹が洋平に小さく言った。
「あいつ、礼儀正しいだろう」と。
洋平は「そうだな」と言った。
誠と、誠の息子が来た。
父と息子が並んで坂道を上ってきた。
二人の歩き方が、どこか似ていた。
誠の息子は、隆と初めて顔を合わせた。
「お父さんからよく話を聞いています」と言った。
隆は「俺の部署の子か」と言った。
二人は少し照れた顔で握手した。
それを見ていた誠が、珍しく感情的な顔をした。
うつむいて、鼻を一回すすった。
それ以上は何も言わなかった。
翔太は、今日も車椅子で来た。
さくらが傍に付いていた。
翔太が「屋上から見た星、覚えてますか」と言うと、さくらが「覚えてるよ、全部」と答えた。
翔太が笑った。
その笑い方が、十二歳の頃と同じだった。
莉子は、ギターを背負っていた。
今日も弾くつもりだった。
恵理は、美穂と一緒に来た。
美穂の孫の写真を恵理が持ってきていて、「この前の運動会の写真」と言って見せた。
美穂は、写真の中の子どもの目を見て「笑うと目が細くなるところが娘に似てる」と言いながら泣いた。
恵理が、美穂の背中をそっと叩いた。
健一郎と和也は、二人で来た。
肩を並べて坂道を上ってきた。
一年前に同じ坂道を上ってきたとき、二人はまだ他人行儀だった。
今日は、どちらが先でもなく、同じ速度で歩いていた。
全員が揃ったのは、午後二時を少し過ぎた頃だった。
桜の木の下に、十数人が集まっていた。
冬の空が青く、風が冷たかった。
みんなコートを着ていた。
息が白く見えた。
三十年前、同じ桜の木の下に、十二歳の子どもたちが集まった。
あの春の日に、錆びた缶を開けて手紙を読み、また新しい缶を埋めた。
それから三十年が経ち、また缶を開けた。
一年間、毎週木曜日に集まった。
手紙を読んで、話をして、泣いて、笑って、また来週集まった。
今日が、その一年の終わりだった。
いや、次の始まりだった。
「来てくれてありがとう」
洋平が言った。
「昨夜、先生の手紙を聞いて、一晩考えた。今日みんなに集まってほしかったのは、一つだけ、お願いがあるから」
誰も話さなかった。
「新しいタイムカプセルを埋めたい。三十年前、ここに埋めたように。でも今度は、子どもへ、孫へ、まだ見ぬ誰かへ向けた手紙を入れたい」
誰かが「いいね」と言った。
最初にそう言ったのが誰なのか、後から思い出せなかった。
でも、その一言が落ちた瞬間、空気が変わった。
「缶は?」
「用意してある」
洋平は、鞄の中から錆びていない新しい缶を取り出した。
蓋がぴったり閉まる、銀色の缶。
「便箋と封筒も持ってきた」
封筒と便箋が回された。
みんな、思い思いの場所で手紙を書いた。
徹は、メモ帳を台にして膝の上で書いた。
少年野球の男の子の傍で書いた。
「あいつに見られないようにしなきゃな」とつぶやきながら。
書き終えてから、ちらりと男の子を見た。
男の子は一生懸命クリームパンを食べていた。
徹は少し笑った。
大輔は、立ったまま書いた。
桜の木の幹に手を添えながら、手紙を書いた。
何を書いたかは、誰も見なかった。
でも、書き終えてから大輔は、木の幹を一度だけ叩いた。
莉子は、一度ギターを置いて書いた。
書き終えてから、もう一度ギターを肩にかけた。
さくらは、翔太の傍で書いた。
翔太は、車椅子のアームレストを台にして書いた。
二人とも、ゆっくり時間をかけていた。
健一郎と和也は、少し離れて立ち、それぞれ書いた。
二人が何を書いたかは、誰も知らない。
恵理は、美穂と向かい合いながら書いた。
美穂は何度も書き直していた。
恵理は一気に書いた。
誠は、一番短い手紙を書いた。
「息子に見せても構わない」と思いながら書いた。
でも、やっぱり見せなかった。
隆は、「うまく書けない」と言いながら、一番時間をかけた。
洋平は、みんなが書いている間、自分の便箋を広げていた。
何を書くか、一晩考えていた。
でも、書き始めたら、止まらなかった。
「十二歳のぼくへ。
夢は全部は叶わなかった。
優しい人になりますと書いたあの夢は、全部は叶わなかった。
でもね。
君が思っているより、人生はずっと面白かったよ。
三十年後、君の知っているみんなと再会した。
あの六年二組のみんなと、もう一年間、毎週木曜日に会い続けた。
そのことを、まず最初に伝えたかった。
みんな、それぞれの場所で生きてきた。
叶わなかった夢と、叶った夢と、思いがけない形でやってきた何かと一緒に生きてきた。
それぞれが、誰かのそばにいた。
気づかないまま、誰かを支えていた。
三十年間、そうやって生きていた。
先生の言葉を聞いた。
夢は叶えるためだけにあるのではない。
夢は、君たちをその夢に似た人間に育てるためにある、と。
十二歳の君は、まだ分からないだろう。
でも、四十二歳になったら、分かる。
君は、思っているより、ずっといい人生を歩む。
失うものもある。
泣くこともある。
誰かに届かない言葉もある。
でも、ちゃんと届く言葉も、ある。
三十年後、もう一度ここに来なさい。
桜の木の下に。
そのときまで、元気でいなさい。
誰かのそばにいなさい。
ぼくから。」
全員の手紙が揃った。
缶に、封筒を一通ずつ入れた。
全部で十数通。
三十年前と同じように。
先生が傍にいないことだけが、違った。
でも、先生の手紙も、缶の中に入れた。
あの「六年二組のみんなへ」という封筒を、もう一度。
先生の言葉を、もう三十年だけ預けておこうと、全員が同意した。
缶の蓋を閉めた。
「どこに埋める?」
「ここしかないだろう」
「桜の木の根元の、少し脇に」
洋平が先に穴を掘り始めた。
誠が手伝った。
大輔が工具を持ってきていたので、それを使った。
少年野球の男の子が「手伝います」と言って土を掘った。
翔太が「頑張れ」と言った。
みんなが少しずつ笑顔になった。
穴が開いた。
缶を入れた。
土を戻した。
桜の木の根元の傍に、新しいタイムカプセルが埋まった。
莉子が、ギターを弾いた。
あの曲だった。
直樹のお父さんがリクエストし続けた、あの古い歌謡曲。
冬の空の下、桜の枝の間から差し込む午後の光の中で、莉子の弦が鳴った。
誰も喋らなかった。
風が少し吹いた。
桜の枝が揺れた。
枝だけの桜が、冬の光の中で揺れた。
曲が終わった。
誰かが「ありがとう」と言った。
莉子が小さくうなずいた。
「また来よう」
洋平が言った。
「何年後かは分からない。でも、また来よう。ここに」
「来る」
誰かが言った。
それが誰なのかは、また分からなかった。
でも、全員が同じ顔をしていた。
春になれば、桜が咲く。
この木に、また花が咲く。
缶の中で、手紙たちが眠っている。
先生の言葉も、みんなの言葉も、一緒に。
帰り際、洋平は一番最後に桜の木の前に立った。
根元を見た。
土が少し盛り上がっているだけで、缶がどこにあるか、もう分からない。
菜摘の花束が、冬の風に少し傾いていた。
白い小菊の花弁が一枚、地面に落ちていた。
洋平は、小さく言った。
「先生。ちゃんと、みんないます」
それだけだった。
でも、それで十分だった。
洋平は、坂道を歩き始めた。
車で来たのに、今日は歩いて帰りたかった。
一歩一歩、坂道を踏みしめながら下りた。
三十年前の朝に通学路を歩いたように。
坂の下に、街が広がっていた。
午後の光の中に、街が穏やかに照らされている。
三十年間、この街のどこかでみんなが生きていた。
気づかないまま誰かのそばにいて、気づかないまま誰かを支えていた。
三十年前の春と同じ桜の木が、冬の午後の光の中で、静かに風に揺れていた。
根の下に、二つのタイムカプセルが眠っている。
子どもたちの夢と、大人たちの言葉と、先生の手紙と、全部、そこにある。
来年の春、桜が咲いたとき、この木はまた何も言わずに花を開く。
六年二組のみんなが、また少し歳を取ったとき。
誰かがまた坂道を上ってきたとき。
この木は、ただそこにある。
言葉を持たないまま、でも、ずっと。




