第9話 一人分
その日の案件は、夕方に入った。
区分E。市場の裏手で、能力者が店の商品を壊しながら移動している。能力は硬質化。腕から先が石のようになり、それで殴る。逃走の意思あり。
レンは経路を組んだ。市場の通路は狭くて枝分かれが多い。追い込むより、出口を絞って正面で受け止めるほうが早い。
カメラは六台。うち四台が使える角度にあった。
市場は屋根付きの通路が四本、格子状に交わっている。夕方の買い物客がまだ残っている時間だった。
レンは避難誘導を消防に投げて、通路ごとの人数を目で数えた。西は少ない。東は多い。だから西へ追い込む形にした。組み立てとしては間違っていないはずだった。
「西の出口へ。そこで待ってください」
『分かった』
指示が通る。ガイが動く。位置が合う。
魚屋の水音と、揚げ物の油の音が無線に混ざって入ってくる。生活の音の中を、あの男が歩いていく。
このひと月で、こういう時間が増えた。組んだ形に現場が収まっていく感じがある。悪くない、と思いかけた。
画面の端が動いた。
もう一人いた。
同じ服装の男が、東の通路から出ていく。腕が同じ形をしている。
二人組だった。案件票には一人としか書かれていない。通報者が一人しか見ていなかったのだから、それは仕方がない。仕方がないと分かっていても、レンの手は止まった。
カメラを切り替えた。東側は死角が多い。追える台が一つしかない。
西の映像を残したまま東を追うと、片方が見えなくなる。
「グリット、東にもう一人――」
言いながら、レンは指示の中身を持っていないことに気づいた。
どちらを取るのか。西の男を制圧してから東へ回るのか、東を先に止めるのか。市場の客はまだ残っている。避難誘導は消防に頼んだが、完了の連絡は来ていない。
考えることが同時に四つあって、順番が決まらなかった。
『天城』
「待って」
『どっちだ』
「待ってください」
声が上ずったのが自分で分かった。
画面の中で、西の男が動いた。ガイの位置は合っている。合っているのに、レンは何も言えなかった。
男が殴りかかった。
ガイは避けた。二発目も避けた。三発目で、腕を上げて受けた。
(早い)
まだ大きい一撃じゃない。中途半端な蓄積になる。
言おうとして、咄嗟に飲み込んだ。今から止めても遅い。
ガイは受けた勢いのまま踏み込んで、男の胴を掴み、通路の壁に押し付けた。硬質化した腕が壁を削る。そのまま体重で押さえ込んで、片手で拘束具を探していた。
「射出します。足元に」
それだけは間に合った。
箱が落ちて、ガイが片手で開ける。留める。西は終わった。
東の男は、もう映っていなかった。
カメラの履歴を追うと、市場を出て住宅街に入ったところで途切れている。そこから先は灰色の区画だった。
レンは警察に手配を回し、消防に避難解除を伝えた。手が動いているあいだは、まだ考えなくて済んだ。
処理が終わったのは、夜だった。
撃破報酬、E級一体。逃走一体。器物損壊の被害額は市場の組合が申請することになった。負傷者はなし。
合計は一万を少し超えた。悪い数字ではない。
レンは自分の指揮ログを開いた。
東の男を視認してから、最初の指示を出すまでの時間を計った。
十四秒。
もう一度計った。同じだった。
ガイが『どっちだ』と聞いてから、答えるまで。
九秒。
レンは数字を見ていた。
こういうものを、自分は正確に測れてしまう。人の動きを一秒単位で並べて、癖を見つけて、意味を読む。そういうことだけは得意だった。
その能力が、今は自分の遅れを測っている。九秒。長い。市場の通路一本を、人は九秒あれば渡りきる。
養成課程の成績表を思い出した。現場判断、最低評価。あれは正しかった。
正しかったことを、こんなに具体的な数字で確かめる日が来るとは思わなかった。
報告書の様式には、判断に要した時間を書く欄がない。
書く欄がないものは、なかったことになる。誰も責めない。誰も気づかない。
レンは自分のファイルを開いて、日付だけを打った。その下に何を書くべきか、しばらく決まらなかった。
ドアが開いた。
ガイが入ってきて、折り畳みの椅子に座った。腕の内側に、赤い擦り傷ができている。硬質化した腕で壁ごと削ったときのものだろう。
「東のやつ、逃げました」
「そうか」
「俺が止まったからです」
言ってから、言わなければよかったと思った。慰められるのが嫌だった。
ガイは擦り傷を見ていた。それから顔を上げた。
「指揮所に、何人いる」
「……一人です」
「そういうことだ」
それだけだった。
慰めではなかった。事実を並べただけの言い方だった。
「よそは三人でやってるところもあるって聞きました」
「聞いたことがある」
「アンタのところは、ずっと一人ですか」
「ずっとだ」
ガイは立ち上がって、擦り傷のほうの腕を軽く回した。
「三発目で受けたの、早かったですよ」
「分かってる」
「なんで」
「お前が黙ったからだ」
レンは口を開いた。何も出てこなかった。
「指示が来ないなら、俺が決めるしかない。決めるなら、早いほうがいい」
ガイはそう言って、ドアに手をかけた。責めている口調ではなかった。そこが一番きつかった。
「明日、昼からだ」
ドアが閉まった。
レンは椅子を回した。
卓の横に、折り畳みの椅子が開いたままになっている。この前、置いておけと言われて出したものだった。
誰も座っていない。
座る人間が来る予定も、聞いていない。




