第10話 任せる
九秒を縮める方法を、レンは二日考えた。
結論はすぐに出ていた。縮まらない。
考えて答えを出すのに九秒かかるなら、九秒を八秒にする訓練をしても意味がない。市場の通路は八秒でも渡りきれる。
だから、考える場所を変えることにした。
現場で考えるから遅い。先に考えておけばいい。
考え方は、ログの解析と同じだった。起きたことを並べて、条件を抜き出して、意味を読む。違うのは、まだ起きていないことを並べる点だけだった。
やってみると、手が止まらなかった。先に済ませておけば当日は考えなくていい。楽をするための作業だと思えば、苦にはならなかった。更地の夜に作った文書を開いて、そこに書いた一行も入れた。徘徊者は昔の家に向かう。分類の欄が思いつかなかったので、その他に入れておいた。
レンは分岐表を作った。
対象が二体に増えた場合。市民が残っていた場合。建物の構造に危険がある場合。逃走された場合。それぞれについて、何を優先し、どちらを捨てるかをあらかじめ決めておく。
二日かけて、条件は二十を超えた。印刷して、待機室のテーブルに広げた。
ガイは紙を手前に引き寄せて、上から順に目で追った。
最後まで見てから、顔を上げた。
「多いな」
「必要な分だけです」
「読めん」
「読めないって、字が小さいってことですか」
ガイは首を振った。
「戦ってるあいだに、紙は見ない」
当たり前のことだった。レンは自分の顔が熱くなるのを感じて、それを認めたくないので黙っていた。
「殴られてる最中に空いてるのは、耳だけだ」
ガイは紙をテーブルに戻した。それから、いつも広げている地図を引き寄せて、レンのほうに向けた。
市販の道路地図だった。折り目が白く掠れていて、角が丸くなっている。赤い鉛筆の書き込みが、紙の全面に散っていた。
「これ、何の記号ですか」
「印だ」
「だから何の」
ガイは商店街のあたりを指でなぞった。アーケードの、路地に面した一角。
小さな丸が付いていた。
「ここ、耳が遠い人が住んでる」
レンは地図に顔を近づけた。
丸の隣に、細い字で階数が書いてある。二階。それだけだった。
「……あの日、路地で止まりましたよね」
「ああ」
「知ってたんですか」
「知ってた」
自転車を見て気づいたのだと思っていた。違った。自転車は確認しただけだ。
この男は、あの通りを歩く前から、あの二階に誰がいるかを知っていた。
ガイの指が地図の上を移っていく。爪の短い、節の太い指だった。丸の一つひとつで止まって、少しだけ間が空く。名前を思い出しているのかもしれなかった。
レンは地図の全面を見た。
同じ丸が、管内のいたるところに付いている。数えるのをやめたくなる密度だった。避難放送の聞こえにくい区画。夜に一人になる家。犬がいる家。動けない人がいる家。
凡例はどこにも書かれていない。書く必要がないからだ。この地図を読むのは一人しかいない。
「いつから付けてるんですか」
「最初のころからだな」
「二十年ぶんですか」
「そんなになるか」
ガイは地図を裏返して、また表に戻した。
「移った人も、死んだ人もいる。消してない」
レンはテーブルの上の、自分が印刷した二十枚を見た。
二日かけたものだった。
同じ種類のものを、この男は二十年ぶん持っている。ただし紙の上にしかない。誰にも渡していない。渡し方を知らないのか、渡す気がないのかは分からなかった。
(もったいない)
思ったのはそれだけだった。使えるものを使わずに置いてある。それが腹立たしいだけで、感心したわけではない。
管制室に戻ってから、印刷した二十枚を裏返しにして重ねた。破る気にはならなかった。
空調の音がしている。この部屋には、書き込むものが何もない。地図はモニターの中にあって、毎晩勝手に更新される。誰かが赤鉛筆で丸を付けても、次の更新で消える。
その夜、レンは分岐表を作り直した。
条件を減らすのではなく、言葉を減らした。ガイが聞いて、一拍で動ける長さにする。
二十あった項目が、朝には四つになっていた。
受けるな。
今。
捨てろ。
人。
「捨てろ」は、片方を諦めて別へ回れという意味にした。「人」は、撃破をやめて救助に切り替えろという意味にした。
どちらも、あの人なら一拍で動く。むしろ「人」は、言われる前から動いている。
レンは五つ目を書いた。書いてから、しばらく消そうか迷った。
任せる。
これは、レンが判断できないときに言う言葉だった。
黙るのではなく、そう言う。九秒待たせるくらいなら、決められないと先に言う。
翌朝、四つと一つを書いた紙を渡した。
ガイは五つの符丁を上から読んで、最後で止まった。
「これ、要るのか」
「要ります」
「お前が言うのか」
「俺が言います」
ガイは紙を折って、上着の内側に入れた。読み返す気配はなかった。もう覚えたらしい。
「一つ足したい」
「どうぞ」
「『下がれ』を入れてくれ」
「アンタが下がるんですか」
「お前が下がれと言えば、俺は下がる」
レンは意味を考えて、それから理解した。
自分から退くと言い出せない人間なのだ。誰かに言われる形が要る。
「……分かりました」
ガイが出ていったあと、レンは自分の控えを卓の端に貼った。
六つの言葉が並んでいる。指示というより、単語の一覧だった。養成課程で教わった指示の様式とは、何ひとつ合っていない。
これで足りるのかは分からなかった。足りなければ、また足せばいい。
試したのは、その週のうちだった。
深夜の資材置き場。区分E。逃走中の対象を追い込む場面で、レンは「捨てろ」を一度使った。
二拍で伝わった。説明も、確認も要らなかった。
制圧まで、前回より短かった。何秒短かったのかは、あとで計った。
月が変わる少し前に、第四分署から正式な打診が届いた。
案件区分D。二件。
文面は事務的だった。差出人の欄に、早瀬ミサキの名前があった。




