第8話 昔の家
要請が入ったのは、日付が変わってすぐだった。
案件票の区分欄が空白になっている。レンは様式を確認して、それが区分外の応援要請だと知った。ヴィランがいない。災害でもない。
内容は捜索だった。八十四歳の女性が、夕方から行方が分からない。警察と消防団が探している。人手が足りないので、ヒーローに応援を出せるかという打診だった。
報酬の欄を開いた。
撃破報酬の対象外。救助報酬は、要救助者の危険が確認された場合にのみ発生する。今の段階では確認されていない。
つまり、見つけても金にならない可能性がある。出動手当だけが残る。
レンが数字を読み終わる前に、待機室の扉が開く音がした。
「行くぞ」
「まだ受諾押してませんけど」
「押してくれ」
押した。
廊下でガイに追いついた。防具は着けていない。上着だけで、懐中電灯を一本持っていた。
「区分外ですよ。金、出ないかもしれません」
「知ってる」
「知ってて出るんですか」
「六時間だ」
ガイは階段を降りながら言った。
「四月でも、夜は五度まで落ちる」
現地は市の北のはずれだった。田と住宅が混ざっていて、用水路が細かく走っている。監視カメラの設置は薄い。管内図に灰色の空白が広がっていた。
レンは推定範囲を組んだ。最後に目撃された時刻から六時間。八十四歳の歩行速度を低めに見積もって、堤防を越えない前提で半径を引く。用水路の合流点と、藪になっている区画に重みを付けた。
消防団の分担図と重ね合わせて、まだ手の入っていない区画を三つ抽出した。
「グリット、南の水路沿いから入ってください。未捜索の区画が三つあります」
『分かった。その前に、家族に会う』
「……時間がもったいないですよ」
『すぐ済む』
カメラはない。ボディカメラの映像は録るだけで、こちらには来ない。無線の音だけが頼りだった。
玄関先で誰かと話す声がした。息子か、娘か。声の高さで女性だと分かった。
ガイは短く名乗って、それから一つだけ質問した。
『お母さん、昔はどこに住んでたんですか』
返事の内容までは聞き取れなかった。地名らしい音がして、それから何かの説明が続いた。
やり取りは一分もかからなかった。
『天城』
「はい」
『旧市街のほう、地図出せるか。三ツ木町の一丁目』
「そこ、範囲外です。歩いて行ける距離じゃない」
『行けるさ。四時間もあれば』
レンは地図を切り替えた。三ツ木町。管内の西寄りで、川を一本渡った先だった。推定半径から外れている。
カメラは二台しかない。どちらも交差点を向いていて、住宅の路地は映らない。
「なんでそこなんですか」
『あの人が育った家がある』
「今は住んでないんでしょう」
『家もない。更地になってると言ってた』
レンは口を開いて、そのまま閉じた。
推定範囲は、現住所を中心に引いてある。人がどこへ向かうかを、体力と時間で計算した。
帰る場所が、今住んでいる家とは限らない。そういう項目は、レンの組んだ式のどこにもなかった。
「……南の三区画、消防団に回します。グリットは三ツ木町へ」
『そうしてくれ』
消防団の無線に切り替えると、年配の男の声が返ってきた。分担の変更を伝えると、少し間があって、それから、グリットさんが向かったのならそっちだろうな、と言われた。
レンは理由を聞かなかった。聞いても、はっきりした答えは返ってこない気がした。
消防団の分担図を組み直しているあいだに、レンは自分の手が速くなっていることに気づいた。様式の欄も、連絡先も、もう調べずに入る。半月前は一つずつ確認していた。
覚える気はなかった。使っているうちに入っていた。
時間だけが進んだ。
管制室のモニターには、ガイの光点だけが動いている。周りの映像がないので、何をしているのかは分からない。田の中の道を、光点がゆっくり北へ上がっていく。
レンは椅子に座ったまま、何もすることがなかった。指示を出す材料がない。カメラも、センサーも、届かない場所に人がいる。
こういう時間があることを、養成課程では教わらなかった。
モニターの明かりで、指の関節のあたりだけが白く見えた。レンは手を膝に下ろした。
あの男はいま、暗い田の中を歩いている。こちらは椅子に座って、光点を見ている。それが仕事だと教わったし、そのとおりだと思っていた。
ただ、今夜に限っては、自分がいてもいなくても同じだった。それだけは、はっきりしていた。
二時間近く経ってから、無線が入った。
『いた』
「……無事ですか」
『歩ける。冷えてるから、救急を呼んでくれ』
場所は更地の隅だった。座り込んでいたという。
レンは救急に連絡を入れ、消防団に終了を伝え、警察の様式に入力を始めた。手が動いているあいだは、何も考えなくて済んだ。
処理が終わったのは、明け方だった。
速報値が出た。
救助報酬、対象外。
出動手当のみ。
金額を確認して、レンは画面を閉じた。アーケードを半分潰した日の四千二百円のほうが、まだ多かった。
ガイが管制室に来た。上着の裾が濡れている。靴も泥だらけだった。
折り畳みの椅子に座って、しばらく黙っていた。
「なんで分かったんですか」
レンは椅子を回して聞いた。
「徘徊はな、昔の家に向かうことが多い」
「そういう研修、ありましたか」
「ないな」
「じゃあ、どこで」
「前にもあった」
ガイは膝の泥を払った。
「いつです」
「覚えてない。何回もある」
それで終わりだった。
ガイは立ち上がって、明日は昼からだと言って出ていった。
レンは端末を開いた。
この男は、使えるものを持っている。ただし本人が体系にしていない。していないから誰にも渡らないし、評価にもならない。二十年ぶん、頭の中に置きっぱなしにしてある。
拾って並べれば、こちらのものになる。
戦闘ログの解析画面ではなく、新しい書類を一枚作った。様式のない、ただの文書だった。
最初の行に、こう打った。
徘徊者は昔の家に向かう。
その下に日付を入れて、保存した。
どこにも提出しない記録を作るのは、初めてだった。




