第6話 知らない親切
昇級査定の画面は、一日ごとに更新される。
レンは朝いちばんにそれを開いた。任務成功の記録が一件、増えている。ランクの欄はEのままだった。
内訳を開くと、加算された値が出ていた。小数点以下の数字だった。
Dに上がるのに必要な値を、その加算値で割ってみる。答えは三桁になった。E級案件だけを積んでいくなら、そういう計算になるということだった。
(無理だろ)
上の区分を取るしかない。D級。できればC級。
ただしD級以上のヴィランは、一撃で人を殺せる。ガイはその一撃を受けにいくことになる。
レンは明け方に計った数字を思い出した。三倍。
画面を閉じた。
管制室を出て、廊下を歩いた。
朝の分署は人の出入りが多い。第一班の連中が装備を担いで階段を降りていく。誰もこちらを見なかった。挨拶が必要な相手だと思われていないのだと、三日目くらいで分かっていた。
待機室に行くと、ガイは紙の資料に赤鉛筆を入れていた。いつもと同じ姿勢で、同じあたりを見ている。
資料は管内の地図だった。市販の道路地図に、細い字で書き込みがしてある。消防の水利の位置と、建物の階数と、それから読めない記号がいくつか。
「病院、行きました?」
「行った」
「何て言われました」
「湿布もらった」
湿布をもらうためだけに、朝いちばんの整形外科に並ぶ人間はいない。レンはガイの上着の肩口を見た。ふくらみがない。貼っていない。
「アンタ」
「打撲だと言っただろう」
ガイは鉛筆を置いて、資料を裏返した。話は終わりらしい。
レンは眉のあたりに力が入るのを感じた。ここで押しても、返ってくるのは「そうだな」だと分かっていた。
「補給所、行きます。拘束具の補充」
「俺も行く。防具の交換申請が残ってる」
補給所は分署の一階にある。段ボールと機械油の匂いがして、床に台車の跡が残っていた。管制室から降りてくると、建物の中でここだけ生活の音がする。
窓口の職員は、レンの顔を見てから名簿を確認して、それから箱を出してきた。新人の顔をまだ覚えていない。ガイのほうは、名前も言わないうちに書類が出てきた。二十年ぶんの通い慣れというものらしい。
「グリット」
声がした。棚の陰から女が出てきた。作業着ではなく活動用の上下を着ている。三十代の前半くらいで、胸の登録章は別の分署のものだった。
「ああ」
ガイは書類から顔を上げて、そう答えた。
その一音でレンには分かった。この人は、相手が誰なのか分かっていない。
「タイド。第四分署」
「ああ」
同じ返事だった。女は気にした様子もなく、レンのほうを見た。
「新しい子?」
「……天城です」
「へえ」
値踏みされている感じはしなかった。ただ、名前を覚えようとしている目だった。
女はガイに向き直った。
「肩、やったんでしょ」
「打撲だ」
「打撲ね」
笑い方に、信じている気配がなかった。ガイは書類に判を押している。
「うちの管内、来月からD級が二件回ってくるの。人手が足りなくて、よそに振れるかもしれない」
レンは顔を上げた。
「そっちの分署、手空いてるでしょ」
空いている。Eランクの新人と、誰も指名しないヒーローの組だからだ。
言わなくても伝わったらしく、女は肩をすくめた。
「あと、その防具。まだ旧型でしょ。うちに型落ちの余りがある。サイズ合うと思う」
「なんで」
言ってから、聞き方が悪かったと思った。女は気にした様子もなく、台車の把手を握った。
「ああいう人がいなくなると、こっちが困るから」
説明になっていない。レンがそう言う前に、女は台車を押して出ていった。
伝票を打つ音だけが残った。ガイは判を押し終えて、書類を窓口に返している。
階段を上がりながら、レンは聞いた。
「あの人、知り合いですか」
「誰だ」
「今の。タイド」
ガイは少し考えた。踊り場で一度足を止めて、それから首を振った。
「知らんな」
「向こうはアンタのこと知ってましたよ」
「有名なんだろう。悪いほうで」
冗談を言ったつもりらしい。レンは笑わなかった。
ガイの顔に嘘の気配はなかった。頷きの間も、目の動きも、昨日から何ひとつ変わっていない。この男は本当に覚えていない。
管制室に戻ってからも、レンは補給所でのやり取りを持て余していた。
ヒーローもコンダクターも、案件は実績になる。D級を二件、よその分署に譲る理由がない。防具の余りにしても、中古市場に流せば金になる。
(何かの貸しにするつもりか)
D級を二件。
やりたいわけではなかった。E級の倍は準備が要るし、失敗すれば記録に残る。放っておけば、よそが勝手に片付ける案件だった。
ただ、加算値の桁が違う。三桁の件数を積むより、二件のほうが早い。
楽をするために面倒を引き受けるのは、筋が通っている気がした。
夜、当直の時間になった。
通報はなかった。管内の地図がゆっくり更新されるだけで、モニターの明るさも変わらない。時刻表示だけが進んでいく。
ガイは待機室にいる。扉が開く音がしないので、そこにいるのだと分かる。何をしているのかは分からない。眠っているのかもしれなかった。
カップの湯が冷めていた。飲むタイミングを逃したまま二時間が経っていて、こういうことが多い。
レンは照会画面を開いた。
早瀬ミサキ。登録は九年前。Cランク。担当コンダクターは固定。撃破と救助のどちらも平均を少し上回っている。目立たないが、確実に仕事をする人間の数字だった。
黒崎ガイとの共同案件の履歴が、一件だけあった。
開こうとして、弾かれた。
閲覧権限がありません、と表示が出る。
五年より前の記録だった。
レンは画面を見ていた。
権限を上げるには、ランクを上げるしかない。ランクを上げるには、上の区分の案件を取るしかない。上の区分の案件を取れば、ガイが殴られる。
(何だよ、それ)
空調が切り替わる音がした。レンは椅子を回して、壁の折り畳み椅子を見た。
それを開いて、卓の横に置いた。
誰も来ないと分かっていたが、置いておけと言われたのを思い出したからだった。




