第5話 受けるな
あの男は逃げなかった。
四日前の映像を、レンは何度も見返している。制圧されかけた男は立ち上がって、出口とは逆の方向へ走った。支柱に看板を叩きつけて、それから逃げた。
順序が逆だった。逃げたい人間は、先に逃げる。
照会をかけたのは、ログを掘っていた夜のうちだった。二年前に区画の建て替えがあって、退去した店が七軒ある。そのうちの一軒が男の名義だった。
だから戻ってくる。倒しきるまで戻ってくる。
レンは商店会と警察に連絡を入れた。夜間の人払いを頼み、居住者の名簿を取り寄せる。アーケードの二階には、まだ六世帯が住んでいた。
一軒ずつ潰していく。電話は三度に一度しか繋がらなかった。繋がっても、なぜ出なければいけないのかと聞かれる。ヒーローの都合で家を出る義理はない、と言われたときは返す言葉がなかった。
断られた家には消防を回して説得させた。半日かかった。
途中で三度、やめようかと思った。ここまでする案件ではない。E級一体に半日かける新人を、よその分署が見たら笑うはずだった。
それでも続けたのは、条件を揃えたかったからだった。
市民が視界に入ると、あの男は溜めるべき場面で溜めない。だったら視界から消せばいい。余計なものがない現場でなら、指示どおりに動くかどうかがはっきりする。
善意ではない。実験の話だった。
レンは自分にそう言い聞かせて、六件目のチェックを入れた。
潰れた区画には仮設の足場が組まれていた。残った支柱は、中央通りの側に三本ある。
夜になった。
ガイはアーケードの北口で、シャッターの陰に立っていた。ボディカメラのランプが胸で光っている。
「一つだけ言います」
レンは管制室のマイクに向かって言った。
『ああ』
「今日、受けないでください」
『……なんだって』
「殴られるな、ってことです。全部避けて」
無線が静かになった。空調の音だけが残る。
『それだと、俺は何もできんぞ』
「知ってます」
『分かってて言ってるのか』
「分かってて言ってます。俺が言うまで、一発も受けないでください」
沈黙が長かった。レンは自分の指が震えていることに気づいて、机の下におろした。
この指示が外れたら、言い訳は用意できない。データがあると言えるだけで、責任を分けてくれる相手はいない。指揮所には誰も来ない。
『分かった』
男が現れたのは、それから一時間ほど経ってからだった。
工具袋を提げている。中身は鉄の棒だった。まっすぐ支柱に向かって歩いていく。歩き方に迷いがない。何度も来た場所を歩く人間の速度だった。
「グリット、正面から出てください。目を引くだけでいい」
ガイが出た。男が足を止めた。
鉄の棒が振られる。ガイは半歩下がって外した。
二発目。上体を捻る。
三発目。腕を上げず、後ろに引いて外した。
男の呼吸が荒くなった。当たらないことに苛立っている。
それでいい。
「そのまま下がって。中央通りへ」
ガイが後退する。男がついてくる。
レンはモニターを二面使った。片方に構造データ、もう片方に人流の記録。中央通りの中ほどは天井の骨組みが一番浅い。何が落ちても軽い。周囲の店は全部シャッターが降りている。二階は空だ。名簿で確認した。
男が棒を振り下ろした。四発目。
ガイは避けた。
『天城』
「まだです」
『こっちの体力が保たん』
「保たせてください」
五発目。避けた。六発目。避けた。
ガイの動きが目に見えて落ちてきた。生体情報の欄で、心拍が上がっている。溜めていない状態で走り続けているのだから当然だった。
レンは画面から目を離さなかった。離したら、次の一発を見逃す。
男が棒を両手で持ち直した。
肩の後ろまで引いている。腰が入っている。足の幅が広がった。
四日前の映像で、支柱を折ったときと同じ形だった。
レンは息を吸った。
「今です。受けてください」
ガイは避けなかった。
棒が肩口に入った。骨の鳴る音が無線に乗った。ガイの膝が落ちる。床に片手をついた。
(立て)
立った。
生体情報の項目が、跳ね上がって、頂点で留まった。
ガイの背中が伸びる。さっきまでと歩幅が違う。踏み込みの音が変わる。
男がもう一度棒を振り上げた。振り上げきる前に、ガイが距離を詰めていた。
棒の柄を掴んで、へし折った。
次の動きは、レンには見えなかった。映像で確認したのはあとになってからで、そのときには男は床に倒れて、腕を後ろで固められていた。
「拘束具、射出します。そっちの後ろに落とします」
『分かった』
箱が落ちてくる音がした。ガイが片手で開けて、男の手首を留める。
男は呻いていた。泣いているのかもしれなかった。二年前に店を畳んだ男が、鉄の棒を持って何をするつもりだったのかを、レンは考えないことにした。
警察が来るまでのあいだ、ガイは男の横にしゃがんでいた。何も話していない。ただ横にいるだけだった。
処理が終わったのは、日付が変わるころだった。
速報値が出た。
撃破報酬、E級一体。
器物損壊の未然防止に加算。
合計、一万三千二百円。
レンは数字を見た。四千二百円よりは多い。それだけだった。一晩徹夜して、半日電話をかけて、この額だった。
それでも、指示は通った。組んだとおりに動いて、組んだとおりに終わった。数字の下のほうに、任務成功の三文字が入っている。
読みは当たっていた。この男は、自分で決めさせなければ強い。
ドアが開いた。
ガイが入ってきて、今度は折り畳みの椅子を自分で開いて座った。
「肩、見せてください」
「打撲だ」
「見せてください」
上着をめくると、肩から二の腕にかけて色が変わっていた。頬に切り傷もある。倒れたときについたものらしい。古い傷の跡が、その下にいくつも重なっていた。
「病院、行ってくださいよ」
「明日行く」
「今日行ってください」
「明日でいい」
レンは端末に目を戻した。生体情報の記録が残っている。
蓄積してから元の値に戻るまでの時間を、レンは計った。それから、五年前の記録を開いて同じ場所を計った。
三倍近く違っていた。
もう一度、別の日の記録で確かめた。結果は変わらなかった。
言えば、この男は受けるのをためらう。ためらわれると、組んだ形が崩れる。
レンは自分にそう説明して、画面を閉じた。
ガイは椅子に座って、天井を見ている。息の音が少し長い。
「今日は」
ガイが言った。
「今日は、悪くなかった」
「……はい」
「お前、二階を全部見たのか」
「当たり前でしょう」
ガイは笑わなかった。ただ、そうか、と言った。
レンはさっき閉じた画面のことを、口に出さなかった。




