第32話 隣の椅子
翌朝、本部研修棟の管制室へ入ったレンは、昨日までなかった椅子を見つけた。
管制卓の右側に一脚。
四面のモニターは変わらない。主端末も一台だけで、操作用のキーボードと通信機器はレンの席にしか用意されていなかった。
増えているのは、本当に椅子だけだった。
レンは入口で足を止めた。
「補助指揮者って、端末ないんですか」
研修担当者が書類から顔を上げる。
「今日は共同管制の基礎を見るだけです。主端末の操作権限は天城さんにあります」
「じゃあ隣の人、何するんです?」
「情報整理と報告です」
昨日は、自分で確認しなくても入ってくる情報まで見直す必要はないと言われた。
その翌日に一人で現場へ出され、今度は見ない情報を自分で決めろと言われた。
今日は、その見ない情報を拾う人間が隣に座るらしい。
研修の順番として意味があるのかもしれないが、レンには性格の悪い実験をされているようにしか思えなかった。
「天城くん?」
背後から声がした。
振り返る。
芦原が立っていた。
昨日までと同じ制服で、胸元にはDランクの表示がある。
レンは芦原と、その横にある椅子を順番に見た。
「何で芦原」
「呼ばれたから」
「自分の分署は?」
「今日は研修扱い。担当も非番」
芦原は当然のようにレンの隣へ座った。
机の上には補助用の小型端末が一台だけ置かれている。現場情報の閲覧と簡単な入力はできるが、ヒーローへの指示や警察部隊への要請は送れない。
最終的な操作は、すべてレンが行う。
「昨日の一人より面倒そう」
レンが呟く。
芦原が端末を起動した。
「帰っていい?」
「それは困る」
「じゃあ我慢して」
研修担当者が二人の前へ案件情報を送信した。
今日も訓練ではなかった。
市内東部の商業地区で、D級ヴィランによる器物損壊が発生している。
男一人。
特殊能力あり。
地面へ打撃を加えることで、前方の舗装や地面を隆起させる能力が確認されていた。
すでに警察が周辺の避難誘導を始めている。
現場へ向かっているヒーローはグリット。
レンは案件情報より先に、生体情報を開いた。
右肩。
昨日と変わらない。
通常範囲内。
次に現場地図を表示する。
大通りが一本。
そこから左右へ細い道路が伸び、周辺には飲食店や小売店が並んでいる。
平日の午前中とはいえ、倉庫街だった昨日より民間人が多い。
避難対象は現時点で十二人。
警察部隊は二班。
道路の封鎖状況も数十秒ごとに更新されている。
レンは四面のモニターを見た。
グリット。
現場地図。
避難状況。
警察情報。
これだけで全部埋まる。
ヴィランの詳細を開けば、どれかを閉じる必要があった。
「芦原」
「何?」
「避難者と警察見て」
「二つ?」
「あと道路」
芦原がレンを見る。
「三つじゃん」
「俺、グリットとヴィラン見るから」
芦原は少し考えたあと、自分の端末へ三種類の情報を並べた。
「分かった」
レンは避難状況と警察情報を閉じる。
空いた画面へヴィランの情報を出した。
四面あるうち、レンが主に見るのは二つになった。
グリットが現場へ到着した。
大通りの中央にヴィランが立っている。
四十代ほどの男だった。
右拳を地面へ叩きつける。
数メートル先の舗装が盛り上がり、道路脇の看板が傾いた。
威力はある。
ただ、発生方向は分かりやすい。
レンは映像を拡大した。
右拳を上げる。
腰を落とす。
地面を殴る。
隆起は身体の正面へ伸びる。
横方向にはほとんど広がっていない。
「グリット、正面に入らないで。右から見て」
『分かった』
グリットが道路の右側へ移動する。
ヴィランも身体の向きを変えた。
まだ殴らない。
グリットがさらに右へ動く。
相手が追う。
「天城くん。右の道路、避難者三人」
芦原の声が入った。
レンは反射的に地図を開こうとした。
指が止まる。
芦原が見ている。
「どっち向いてる?」
「南。現場から離れてる」
「ならそのまま」
レンはグリットから目を離さなかった。
ヴィランとの距離は十三メートル。
右拳が上がる。
「止まって」
グリットが止まる。
ヴィランの拳が落ちた。
舗装が隆起する。
グリットの左側を抜けた。
射程は九メートルほど。
レンは時刻と距離を記録した。
次の一撃。
ほぼ同じ。
「九メートルくらいか」
レンが呟く。
グリットが一歩前へ出る。
ヴィランが拳を上げた。
「まだ受けないで」
『分かった』
能力が地面を通して伝わるなら、グリットが直接受けたときに蓄積できるか分からない。
試す必要もない。
右肩もまだ治っていなかった。
芦原から次の報告が入った。
「警察一班、北側から進入準備」
レンはヴィランを見る。
今の向きは北西。
このまま能力を使えば、隆起の進路が警察側へ寄る。
「待機させて」
「私からは指示出せないよ」
「あ」
昨日まで三人の指揮者と組んでいたせいで、一瞬忘れていた。
今日は芦原に操作権限がない。
レンは警察情報を開き、待機要請を送る。
その間にヴィランが動いた。
グリットとの距離が縮まる。
レンはすぐ映像へ戻った。
十一メートル。
十。
右拳が上がる。
「グリット、右へ三メートル」
グリットが動く。
拳が落ちる。
隆起が左側を抜けた。
レンは息を吐いた。
警察への要請は通っている。
グリットも避けた。
どちらも間に合った。
ただ、画面を切り替えた数秒間、グリットを見ていなかった。
ヴィランが向きを変える。
グリットがそれに合わせる。
レンは相手の足を見る。
右へ向きを変えるときだけ、左脚の踏み替えが少し遅い。
もう一度。
「グリット、左へ」
動く。
ヴィランも追う。
遅れない。
「今度は右」
グリットが反対へ動く。
ヴィランの左脚が一度止まった。
やはり遅れる。
レンはその差を見ていた。
「天城くん、南の避難者が止まった」
芦原の声が入る。
レンの視線はヴィランの足に残った。
「何で?」
「一人転倒。残り二人も止まってる」
見たい。
負傷しているのか。
ヴィランからどれだけ離れているのか。
どこで転んだのか。
確認したい情報が一気に増えた。
レンの指が地図へ伸びる。
昨日の評価が頭をよぎった。
自分で見なくても入ってくる情報まで、確認し直さない。
レンは手を止めた。
「ヴィランからの距離は?」
「四十八メートル。離れる方向」
「近い警察は?」
「二班。救護に回せる」
「回して」
「だから私からは――」
「ああ、もう」
レンは警察情報を開いた。
救護要請を送る。
その瞬間、警告音が鳴った。
グリットの画面。
ヴィランが拳を上げている。
レンはすぐに戻る。
「右!」
グリットが動く。
舗装が足元をかすめるように隆起した。
避けられた。
ただ、余裕はほとんどなかった。
レンは画面を見たまま眉を寄せる。
芦原に情報を見てもらっても、最終的な操作が全部自分なら、そのたびに画面を切り替える必要がある。
見なくていい。
でも、操作はしなければならない。
その違いが思ったより大きかった。
数分後、状況が動いた。
避難していた十二人のうち九人が区域外へ出る。
転倒した一人も警察二班が確保した。
残りは二人。
北側の店舗から避難している。
ヴィランはまだ大通りの中央。
グリットが右側から距離を維持している。
「天城くん」
芦原が呼ぶ。
レンはグリットを見たまま返事をした。
「何?」
「北の警察一班、進入許可が出てる」
「待機にしたでしょ」
「別系統から更新された」
レンは警察情報を開こうとした。
その瞬間、ヴィランの右拳が上がった。
グリット。
ヴィラン。
警察。
三つが同時に動く。
レンは一瞬迷った。
「天城くん、北から二十六メートル。進入中」
芦原が続ける。
レンは警察画面を開かなかった。
「ヴィランとの直線に入る?」
「今の向きなら、あと十秒くらい」
十秒。
それだけ分かればいい。
「停止要請出す」
レンは操作だけを行った。
画面を細かく確認しない。
送信。
すぐグリットへ戻る。
ヴィランが拳を落とす。
グリットが避けた。
警察一班の停止まで七秒。
レンはヴィランの向きを見る。
このまま次を撃たせれば、北側が危ない。
「グリット、左へ回って。もっと」
グリットが動く。
ヴィランが追う。
身体の向きが北から東へ変わる。
拳が上がった。
「そこで」
グリットが止まる。
ヴィランの拳が落ちた。
舗装の隆起は、無人の道路を走った。
警察一班が停止する。
レンは息を吐いた。
「今の、いつ気づいた?」
レンが聞く。
芦原は端末から顔を上げなかった。
「進入許可が更新されたとき」
「何秒前?」
「最初に言ったのが十二秒くらい前」
レンは自分の履歴を見る。
同じ通知は届いていた。
開いていない。
グリットとヴィランを見ていた時間だった。
「先に言ってくれればよかったのに」
芦原が顔を上げる。
「言ったよ」
レンは黙った。
確かに呼ばれている。
最初の一回を、必要のない報告だと思って流した。
情報を減らしたつもりで、必要なものまで切っていた。
ヴィランが再びグリットへ向く。
案件はまだ終わっていない。
レンは画面へ視線を戻した。
全部聞けば、グリットを見る時間が減る。
聞かなければ、必要な情報まで落ちる。
なら、芦原から入ってくる情報そのものを減らすしかない。
「芦原」
「何?」
「報告、変えて」
芦原が待つ。
レンはヴィランを見ながら言った。
「グリットかヴィランに関係するやつを先に。避難者は近づいたとき。警察は進路に入る前。道路は逃げ道が変わるときだけ」
「それ以外は?」
「急ぎじゃなければ後」
芦原は数秒だけ自分の端末を見た。
「分かった」
それから報告の数が減った。
グリットが右へ動く。
ヴィランの左脚が遅れる。
「右へもう一回」
グリットが誘う。
ヴィランが追う。
また左脚の踏み替えが遅れた。
「〇・五。左から入って」
『分かった』
合図。
グリットが踏み込む。
ヴィランが右拳を上げようとするが、向きを変えた直後で体勢が整っていない。
グリットが左腕で右手首を押さえた。
地面へ拳を落とせない位置まで持ち上げる。
ヴィランが左腕を振る。
グリットは半歩だけ位置を変えて避けた。
右肩は使っていない。
「芦原、警察」
「二班が南から二十二メートル。進路上に避難者なし」
レンは地図を開かなかった。
「進入要請出す」
自分で操作する。
送信。
すぐにグリットへ戻る。
ヴィランが暴れる。
グリットの左足が少し滑った。
「そのまま。右肩は使わないで」
『分かった』
警察二班が現場へ入る。
拘束具。
確保。
終了表示が出た。
レンはヘッドセットを外した。
隣では芦原が、最後まで残っていた避難情報を確認している。
全員、区域外。
負傷者は転倒した一人だけで、軽傷だった。
研修担当者が二人の記録を大型画面へ出す。
前半。
芦原からレンへ送られた報告は多い。
後半。
半分近くまで減っていた。
それでも、警察の進入も避難者の接近も落としていない。
レンは自分の評価を見る。
個人観察。
突出。
複数対象監視。
不十分。
昨日と同じだった。
新しく追加された共同管制の欄には、要訓練と表示されている。
「成功したのに」
レンが言う。
研修担当者は北側の警察一班が動いた場面を表示した。
「補助指揮者からの最初の報告を落としています」
「後半は?」
「改善しています。ただし一件だけで評価は変えません」
レンは不満だったが、反論できる材料もなかった。
芦原の評価も表示される。
情報整理。
良好。
報告選別。
要改善。
芦原が画面を見る。
「私も?」
「前半は天城さんへ渡す情報が多すぎます」
「天城くんに三つ頼まれたので」
レンが芦原を見る。
「俺のせいじゃん」
「そうだね」
即答された。
研修担当者は二人のやり取りを気にせず、記録を閉じた。
第九分署へ戻ったのは夕方だった。
ガイは管制卓の前で紙の地図を広げている。
レンが入ると、一度だけ入口を見た。
芦原は本部からそのまま自分の分署へ戻っている。
レンは鞄を机へ置いた。
「ガイさん」
「何だ」
「人に見てもらうの、楽なんですけど」
ガイは地図を見たまま返事をする。
「そうか」
「言われすぎると邪魔なんですよ」
「そうか」
「でも言われないと見えないんですよ」
ガイがようやく顔を上げた。
「面倒だな」
レンは少し考えた。
「俺が?」
「知らん」
ガイはまた地図へ視線を戻した。
レンも自分の席へ座る。
今日の共同管制記録を開いた。
前半と後半。
芦原が見ていた情報の量そのものは、ほとんど変わっていない。
変わったのは、レンへ渡した量だった。
レンが見るものを減らす。
芦原が、残りを見る。
ただ、どれを渡すかはまだレンが決めている。
今日うまくいったのも、最後の数分だけだった。
それで十分とは思えなかった。
レンは記録を閉じた。
管制卓の横には、配属されたときから置かれている折り畳み椅子がある。
今日、本部で芦原が座っていた椅子は、それよりずっとまともだった。
レンは一度だけ折り畳み椅子を見てから、次の案件一覧を開いた。




