第3話 四千二百円
『いる』
レンはもう一度カメラを確認した。二階の窓。人の反応なし。熱源の表示も出ていない。
「出てません。センサーにも映っていません」
『そうか』
「そうか、じゃなくて――」
光点が動いた。ガイが男から離れて、アーケードの端の階段へ向かっていく。制圧しかけた対象を置き去りにして、背中を向けていた。
男が立ち上がる。腕を押さえて、痛みに顔を歪めながら、それでも立った。
「グリット、戻って。対象がまだ動けます」
『あの店、シャッターが半分だけ降りてた』
「は?」
『路地に自転車もあった』
レンは路地のカメラを巻き戻した。シャッターの降りた店。ガイが一度立ち止まった場所。画面の隅に、確かに古い自転車が停めてある。買い物かごに惣菜の袋が入ったままだった。
時刻表示を見た。二十分前。買ってきたばかりの人間が、まだ中にいる。
言葉が出てこなかった。指がキーの上で止まっている。
(見てなかった)
熱源が出ないのは当たり前だった。あのカメラは通りの外側から向いている。ガラス越しに熱は読めない。教本の三章に書いてあった。試験でも出た。レンは正しく答えて、正しく忘れていた。
男が走り出した。
逃げるほうではなく、支柱のほうへ走った。
残っていた力を全部使ったのだと、あとで解析して分かった。看板の残骸が支柱に叩きつけられて、金属が折れる音がした。
「グリット、崩れます」
天井が落ちた。
モニターの中で埃が膨れ上がる。レンには音しか届かない。匂いも、軋みの振動も、この部屋には来ない。
カメラが白く濁って、三秒ほど何も見えなかった。
映像が戻ったとき、ガイは階段の下にいた。背中を丸めて、上から落ちてきた骨組みを背負う形で止まっている。腕の中に、小さい体があった。
白髪の男だった。八十は過ぎている。咳き込んでいる。
ガイが立ち上がった。
骨組みが持ち上がって、横へずれて、床に落ちた。
生体情報の欄で、あの項目がまた跳ねた。上がって、頂点で少し留まって、それから落ちていく。落ちきったところで、心拍が乱れた。
レンは画面を見つめた。何が起きたのか説明できなかった。
『天城』
「……はい」
『救急、呼んでくれ。この人、肋が折れてる』
「対象は」
『逃げた』
男の光点は、もう管内の端にあった。
処理が終わったのは、日が傾いてからだった。
救急車が一台。消防が二台。老人は担架に乗せられるとき、ガイの腕を掴んで何か言っていた。音声は拾えていない。ガイは短く頷いただけで、そのまま消防のほうへ歩いていった。
商店会の役員が三人来た。アーケードの復旧見積もりは商店会が出すことになった。警察の事情聴取は現場で済み、レンには後日、指揮記録の提出を求める連絡が来た。
ガイの背中は打撲だけで、本人が病院を断った。
様式は長かった。レンは必須の欄だけ埋めて、任意の欄は空のまま送った。任意と書いてあるものを埋める人間の気が知れない。
レンは管制室に一人で座っていた。
空調が切り替わる音がして、それきり静かになった。日が落ちても部屋の明るさは変わらない。ここには夕方がない。
速報値が出ていた。
撃破報酬、なし。
救助報酬、一名。
二次災害防止の加算が付いていた。
合計、四千二百円。
レンはその数字をしばらく見ていた。金額そのものより、桁の少なさが目に残った。ガイの取り分はこの半分にもならない。自分の評価欄には、任務失敗の記録だけが残る。
落ちた天井の下に人がいなかったのは、結果としてそうなったからだ。報告書の様式に、その差を書く欄はなかった。
ドアが開いて、ガイが入ってきた。上着の背中が裂けている。
「終わったか」
「……終わりました」
ガイは折り畳みの椅子を見て、それから壁に凭れた。出す気はないらしい。
「アンタ」
レンは初めてそう呼んだ。敬語を続ける気が失せていた。
「なんであの男を放したんですか」
「上に人がいたからだ」
「制圧してから行けばよかった。三十秒あれば足りた」
「支柱が先に折れてたら間に合わない」
「折れませんよ。あの時点では」
ガイは答えなかった。壁に凭れたまま、天井のほうを見ている。
「俺はデータで言ってます」
「そうだな」
「そうだな、って何ですか」
声が大きくなった。自分でも分かった。
「アンタが指示を聞かなかったから、Eランクを一体逃がして、アーケードが半分潰れて、報酬が四千二百円なんですよ」
「そうだな」
同じ答えだった。怒鳴られたほうがまだよかった。
この男は反論しない。反論しないから、こちらの言い分だけが部屋に残る。残ったものを聞かされているのは自分だけだった。
ガイは壁から離れて、ドアに手をかけた。それから一度だけ振り返った。
「今日、死人が出なかった」
「……はい」
「それで足りる日もある」
ドアが閉まった。
レンは椅子に座ったまま動かなかった。
(足りるわけないだろ)
あの男は自分の判断を説明しない。説明しないまま、正しかったことにしている。
次も同じことをする。そして次も、報酬は四千二百円になる。
自分の評価は上がらない。上がらないまま二年が過ぎて、誰かに引き継いで出ていく。付箋の数字を残していった人間と同じように。
レンは端末を開いた。装備の私物届の様式を呼び出して、それから通販の画面に切り替えた。
カーソルがしばらく止まった。何を証明したいのかは、自分でも整理できていなかった。
安いボディカメラを探した。
一番安いものを選んで、注文した。
あの男が何をしているのかを、全部録っておく。
指示が正しかったという記録さえ残っていれば、失敗はあの男のものになる。次に同じことが起きたとき、こちらは何もかぶらずに済む。
それがこの日の、レンの動機だった。




