第2話 匂いのない部屋
管制室は廊下の突き当たりにあった。
ガイが先を歩いて、レンが後ろをついていく。照明が白い。壁も床も白い。床材の継ぎ目に沿って、掃除の跡が細く残っていた。ここも匂いがしないな、とレンは思った。
ガイの歩幅は狭かった。急いでいないのではなく、そういう歩き方をする人間の速度だった。廊下の途中で一度だけ立ち止まって、消火器の点検票を見ていた。
「ここだ」
ドアを開けると、部屋は思っていたより狭かった。机が一つ。管制卓のモニターが四面。壁際に装備射出用の端末があって、その横に折り畳みの椅子が畳んだまま立てかけてある。
(一人分か)
養成課程の実習室では、一つの卓に三人がついた。上位ヒーローの管制室はモニターだけで二十面あると聞いている。ここは違う。ここは、一人で足りる規模だということだった。
レンは机の引き出しを開けた。消しゴムのかけらと、乾いた付箋が一枚だけ入っていた。付箋には数字が書いてある。周波数のようにも、電話番号のようにも見えた。誰の字なのかは分からない。
卓の縁が、手首の当たる場所だけ塗装が剥げていた。何年ぶんの摩耗なのかを、レンは考えなかった。
ガイは入口に立ったまま、部屋に入ってこない。
「毎年、新人が来る」
レンは振り返った。
「二年で出ていく。お前で何人目だったかな」
数える気配がなかった。この男は実際に数えていない。
「……それ、俺に言う必要あります?」
「ないな」
ガイは畳まれた椅子のほうを見ていた。
「ただ、それは出しておいたほうがいい。誰か来たときに困る」
誰も来ないだろう、とレンは思った。口には出さなかった。
席についた。電源を入れると起動音がして、モニターが順に明るくなる。管内の地図。監視カメラの一覧。装備の残数。担当ヒーローの生体情報。
背もたれが体重を受け止めた。椅子の高さが合っていない。前に座っていた人間のほうが、レンより背が高かったらしい。
空調の音がした。それ以外に音がしなかった。
レンは息を吐いた。ここは静かで、暖かくて、誰も走っていない。
(悪くない)
自分が何から逃げてきたのかを、レンはこのとき考えなかった。
二年、とあの男は言った。
二年で出ていくなら、二年ぶんの我慢でいい。適当に実績を積んで、大きい分署に移る。誰でもそうしている。責められる話でもない。
レンはそう考えて、椅子の高さを直すのをやめた。どうせ長くいる部屋ではなかった。
午前中は書式の確認で終わった。出動記録の様式、装備の申請、事後報告の提出先。座学でやったはずのものが、実務では番号も欄の数も違っていた。レンは覚えるのをやめて、必要になったら調べることにした。
ガイは待機室から動かなかった。廊下を挟んだ向かいなので、扉が開けば分かる。開かなかった。
通報が入ったのは、昼を過ぎてからだった。
警報音は短い電子音が三つで、思っていたよりずっと軽い音だった。画面の上端に案件票が出る。
案件区分E。商店街で能力者が暴れている。人的被害の報告はまだない。
レンは手順どおりに動いた。該当区画のカメラを引き当て、対象を捉える。中年の男が、アーケードの下で金属製の看板を引き剥がしていた。腕の力を上げる能力。持続は短く、範囲もない。教本の分類でいえば最下位の部類だった。
通行人は逃げている。逃げ遅れた者がいるかどうかは、この画角では分からない。分からないものは、報告書に書かなくていいことになっている。
「グリット、出動要請。現着まで六分」
『了解』
耳に返ってきた声は、待機室で聞いたときより低かった。無線を通すとそうなるのか、この男がそういう声を出すのかは分からない。
窓のない部屋なので、外に出ていく音は聞こえない。光点が動き出したことで、出たのだと分かった。
レンは経路を組んだ。北口から入って中央通りを直進する。背後を取って制圧。教本どおりの、最短で最も損害の少ない手順だった。
「北口から直進してください。対象は中央通りの三番街区。背後を取って」
『分かった』
ガイは北口から入った。そして、直進しなかった。
モニターの光点が指定した経路を外れて、東側の路地へ入っていく。
「グリット。ルートが違います」
『聞こえてる』
「聞こえてるなら――」
『聞こえてるよ』
同じ言葉が返ってきただけだった。
レンは息を吸って、吐いた。指がキーの上で止まっている。動かしても意味がないと分かっていたからで、それが余計に癪だった。
カメラを切り替える。ガイは路地を進み、シャッターの降りた店の前で一度立ち止まった。それから、また歩き出した。何をしているのか分からない。
(このオッサン、本当に聞いてないな)
商店街の中央で、男がまた看板を投げた。アーケードの支柱に当たって、天井の骨組みが軋んだ。
レンは構造データを呼び出した。築年数が古い。あの支柱を二本折られると、アーケード全体が傾く。
「グリット、急いでください。構造がもちません」
『あと十秒』
「十秒って何の――」
ガイが路地から出た。
男の正面に立った。背後ではなく、正面だった。
「なんで正面に――」
男が殴った。ガイは避けなかった。腕を上げて、そのまま受けた。踏み込んだ足が半歩下がって、アーケードの床が鳴る。
(受けた。わざと受けた)
生体情報の欄で、ガイの数値が跳ね上がった。心拍と血圧だけではない。レンの知らない項目が一つ動いて、それから緩やかに戻っていく。波形が、教本に載っていたどの型とも違っていた。
二発目が来る前に、ガイが動いた。
速い。待機室で椅子から立ち上がるのに手間取っていた男と、同じ人間には見えなかった。伸びてきた腕を内側から取って、手首を返す。男が膝をつく。
制圧まで、あと数秒だった。
そこでガイが止まった。
顔を上げて、アーケードの二階を見ている。
レンはカメラを切り替えた。二階の窓。人の反応はない。熱源も出ていない。
「グリット、上には誰もいません。そのまま制圧を」
ガイは男の腕を離した。
『いる』




