第1話 見えていた
ヒーローの適齢期は、十八歳から三十歳。
三十を過ぎたヒーローには、新人の指揮者しか回ってこない。
黒崎ガイ、三十八歳。
天城レン、十八歳。
煙に匂いがなかった。
演習用だからで、天城レンはそれを知っていた。本物の火災現場なら、こんなに白くも均一にもならないはずだった。焦げた樹脂と、水を吸った石膏の匂いがする。教本にはそう書いてあった。
送風機の音がしている。煙は左から右へ、同じ速さで流れていた。風向きが変わらないので、視界の悪くなる場所も変わらない。試験に使われるものは、何もかもそういう作りになっている。
順番を待つあいだ、地面の冷たさが靴底から上がってきていた。四月の朝で、まだ手袋が要るくらいの気温だった。レンの前にいた受験者が二人続けて、時間内に要救助者を運び出していた。
最終実技試験。市街地災害を想定した崩落建物のセット。制限時間は八分。
「天城レン、入って」
名前を呼ばれた。レンは開始位置に立って、目の前の構造物を見た。
三階建ての事務所を模した建物。正面は瓦礫で塞がっている。西側の非常階段は途中で折れていて、あそこを登れば二階まで届くが、踊り場の手前で足場が斜めになる。体重をかける位置を間違えれば落ちる。
東側に、窓が一つ開いていた。
(そっちだ)
開口部の下に、空調の室外機がある。踏み台にすれば届く。固定は甘いが、片足を乗せて跳ねるだけなら保つ。
要救助者役は二階の奥にいる。人形ではなく、同じ課程の学生が横たわっている。声を上げる決まりになっていて、さっきから遠くでそれが聞こえていた。演技だと分かる声だった。
レンの頭の中で、順序が組み上がっていった。室外機、窓、廊下、奥の部屋。搬出は来た道を戻るより西側の非常階段が早い。折れているのは上の段だから、二階からなら降りられる。時間は余る。
合図が鳴る前に、経路の確認は終わっていた。ここまではいつもそうだった。座学の点が取れなくても、こういうものだけは勝手に見える。
全部見えていた。
開始の合図が鳴った。
レンは動かなかった。
右足を出そうとした。出なかった。
腰から動かそうとした。腿の筋肉が固まっていて、命令が途中で消えた。呼吸が浅くなる。口の中が乾いて、舌が上顎に貼りついた。
手袋の中で指が汗ばんでいた。体で動いているのは、そこだけだった。
「天城、どうした」
教官の声だった。
答えられなかった。喉は開いていた。声が出なかったわけではない。言うことがなかった。
誰かが横を走り抜けていった。次の受験者が繰り上がったのだと、あとになって知った。
時間切れの電子音が鳴ったとき、レンはまだ同じ場所に立っていた。
煙は相変わらず匂わなかった。
更衣室で装備を返却した。誰も声をかけてこなかった。かけられないほうが楽だったので、それについては助かったと思うことにした。
なぜ動けなかったのかを、レンは考えなかった。考えれば答えが出そうな気がして、その答えを聞きたくなかった。
修了名簿で、レンの名前は下から数えたほうが早い位置にあった。ヒーロー認可は下りなかった。
面談は短かった。担当官は書類をめくりながら、個人分析の項目だけが突出していると言った。ほかに褒めるところがないという意味でもある。
指揮者課程への振り替えを勧められたとき、レンは書類を読まずに署名した。
指揮所にいれば現場に出なくていい。理由はそれだけだった。
配属通知が出たのは四月に入ってからだった。
封筒を開けると、担当ヒーローの名前が印字されていた。
黒崎ガイ。登録名、グリット。
レンはその名前を知らなかった。同期の男が横から覗き込んで、黙った。
「なに」
「いや」男は通知から視線を外した。「頑張れ」
その言い方が引っかかった。励ましというより、見送りに近かった。
事務室で手続きをしたときも、窓口の職員が同じ顔をした。書類を受け取り、印を押し、レンの顔を一度見てから、何も言わずに控えを渡してきた。気の毒そうな顔というのは、ああいうものらしい。
端末で経歴を引いた。三十八歳。ランクはD。過去五年の撃破実績は、同年代の平均を大きく下回っていた。救助件数の欄だけ、桁が一つ違っていた。
能力の欄には短い一行が書いてある。受けた衝撃を体内に蓄積し、一定時間、身体能力へ変換する。レンはそこを読み飛ばした。
(……嘘だろ)
分署は市の外れにあった。外壁の塗り直しが途中で止まっていて、色の境目がそのまま残っている。玄関の自動ドアは片側だけ動かなかった。
待機室に入ると、男が一人で座っていた。作業着の上着を脱いで、椅子の背にかけている。テーブルには紙の資料が広げてあった。端末ではなく紙だった。
ほかに誰もいない。壁の掲示板には、去年の防災訓練の日程が貼られたままになっている。
男は座ったまま顔を上げた。
「天城レンか」
「はい」
「黒崎だ」
立ち上がるのに時間がかかった。膝に手をついて、腰を持ち上げるようにして立つ。思っていたより背が高くて、首から肩にかけての厚みが服の上からでも分かる。それでも遅い。同じ動作を若手がやれば、二歩は先に進んでいる。
(このオッサンか)
ガイが手を差し出してきた。
握手という習慣を、レンは久しぶりに見た。断る理由も思いつかなかったので、手を出した。
触れているあいだだけ、相手の心拍と体温、筋肉の張りが分かる。戦闘では何の役にも立たない能力で、試験でも加点されなかった。レンが持っているのはそれだけだった。
心拍が遅かった。
初対面の新人と向き合って、この男は緊張していない。脈は眠っている人間のそれに近かった。
手そのものも妙だった。硬い。皮膚が厚くて、指の腹の感覚がなさそうなほど乾いている。薬指と小指が、まっすぐ伸びきっていなかった。折れたものがそのまま固まった形をしている。
握る力は弱かった。加減しているのか、本当に握れないのか、レンには判断がつかなかった。
レンは意味を考えなかった。ただ、遅い、と思っただけだった。
ガイは手を離すと、椅子の背から上着を取った。
「今日、出るぞ」




