第22話 通報がない
塀の写真を、レンは分署の受付に持っていった。
旧市街の外れ。ブロック塀の上に、等間隔の三本の線。壊れた首輪と、落ちた鎖。
受付の職員は写真を見て、区分の様式を出した。それから、手が止まった。
「これ、通報は」
「入ってません」
「目撃も?」
「ないです」
職員は写真をもう一度見た。
「あの、こういうのって、案件票が立たないんですよ」
被害の届出がない。目撃の通報もない。危険度の判定ができない。
判定ができないものには、区分が付かない。区分が付かないものは、案件にならない。
「じゃあ、どうすれば」
「情報提供として上げておきます。あとは、警察のほうで動物の管轄になるかどうか」
「犬は消えてます。首輪ごと」
「そう書いておきますね」
悪意はなかった。職員は書ける欄に書ける内容を書いて、それを上げた。
レンは礼を言って、階段を上がった。
途中の踊り場で、レンは足を止めた。
写真の中の三本の線は、塀の上の縁に付いている。上を通ったのではなく、前肢をかけて越えたのだと、跡の向きで分かる。越えた先に何があるかは、写真には写っていない。
管制室で、レンは検索の条件を組んだ。
この管内で、区分Bの発生は今月ゼロ件。隣接する三つの管内では、合計で四件出ている。
平年の同月と比べると、こちらだけが低い。低いというより、抜けている。
獣は都市の中を移動する。管内の境界を知らない。
(通ってないわけがない)
通報の記録を、別の分類で引き直した。
区分Bではなく、警察の受理した相談。飼い犬がいなくなった。猫を見ない。ごみ集積所が荒らされた。夜中に物音がした。
どれも、案件にならない種類の記録だった。
六月から、旧市街の南側に集まっていた。
六月は三件。七月は七件。八月は、今日までで十件。
増え方に規則があった。増えているというより、範囲が狭まっている。同じ区画の中で、件数だけが上がっていた。
レンは地図を出した。
管内図の上に、その座標を落としていく。二十件ほどあった。
その上に、もう一つの層を重ねた。八月に打ち込んだ、赤い丸の層だった。
重なった。
丸の密度が高い区画と、相談の集まっている区画が、同じ場所だった。
建て替えの少ない、古い区画。塀の高い区画。犬を外で飼っている家が残っている区画。
人が薄いのではない。人がいて、気づかれにくい区画だった。
獣は新しい区画に出るものだと、レンは数字から結論していた。人が薄いところを通るからだと。
その結論は、通報のあった案件だけを数えて出したものだった。
通報のない場所は、数字に入らない。
入らないものは、なかったことになる。
レンは椅子の背に体を預けた。天井を見た。
同じ言い方を、どこかで見た気がした。どこで見たのかは、すぐには出てこなかった。
自分の書いた報告書かもしれない。任意の欄を空のまま出したことは、何度もあった。
芦原に連絡したのは、その日の夜だった。
――案件票が立たない事案って、どこから立てるの
――被害届がないなら無理じゃない?
――集めたらいける?
既読がついて、しばらく空いた。
――様式ならある。使ってる人、見たことないけど
様式はあった。名前が長かった。
病院に着いたのは、面会時間の終わり際だった。
ガイはベッドの縁に座って、靴下を履こうとしていた。上体を曲げると肋に来るらしく、途中で止まっては息を整えている。
レンは端末を出して、地図を見せた。
「重なりました」
「なにがだ」
「アンタの丸と、通報にならなかった相談です」
ガイは画面を見た。目を細めた。字が小さいからだった。
レンは表示を大きくした。
「六月から二十件。全部、案件票が立ってません。だから区分もありません。だから、誰も出ません」
「そうか」
「一頭います。たぶん一頭。区分は、D以上」
ガイは靴下を持ったまま黙っていた。それから、片方だけ履いた。
「根拠は」
「塀の高さです。あの高さに前肢が届いてます。届く体格で、跡の間隔から前肢の幅が出ます。中型より大きいです」
「そうか」
「それと、六月から二か月います。移動してません。定着してます」
定着している獣が何をするかは、資料に書いてある。
行動範囲が固まり、餌の順番が決まる。取りやすいものから減っていって、減れば次に移る。
犬が消え、猫が消え、集積所が荒らされた。その順番どおりに進んでいた。
ガイはもう片方の靴下を履いた。
「案件にならんのだろう」
「なりません」
「出られんぞ、俺は」
「知ってます。あと二週間です」
ガイは顔を上げた。
「二週間、待つのか」
「待ちません」
レンは端末を閉じた。
「立てます。案件票を」
通報がないなら、通報を作ればいい。
被害の届出がないなら、被害の記録を集めればいい。飼い犬の相談も、猫の相談も、集積所の記録も、一つずつなら案件にならない。まとめて一つの様式に入れれば、判定の材料になる。
様式は探せばある。芦原に聞けば、通し方も分かる。
「二週間で、票を立てます。アンタが復帰する日に、区分の付いた案件にしておきます」
ガイは靴を履いた。時間がかかった。
それから、こちらを見ないまま言った。
「天城」
「はい」
「その二週間で、そいつが何を食うかは、考えてあるか」
レンは口を開いた。
考えていなかった。
二週間で票を立てる。その計算はしてある。様式の枝も、集める記録の数も、頭に入っていた。
二週間が、こちらの都合だということを、計算に入れていなかった。
窓の外は、まだ明るかった。八月の終わりで、日が落ちるのが少しずつ早くなっている。
旧市街の南側に、丸が四十いくつ付いている。全部、家だった。




