第21話 歩く
八月の管制室は暇だった。
担当ヒーローが出られないので、案件を受けられない。移管の話も止めた。加算値の欄は、七月の途中から水平になっている。
やることがないわけではなかった。装備の申請、報告書の残り、研修の受講記録。全部片付けても、午後が余った。
レンは映像を見ていた。
過去の案件のものではなく、市の広報が出している防災の説明動画だった。避難経路の考え方について、五分で話している。
三度見て、消した。何も入ってこなかった。
芦原から連絡が来たのは、その週だった。
――グリットさん、どう?
――六週間です
――案件止まるね
――止まってます
返信はそこで途切れた。次に来たのは、丸一日空いてからだった。
――暇なら、今のうちにできること探したら
余計なお世話だと打って、送らなかった。
三週間目に、レンは病院へ行った。
ガイは廊下を歩いていた。看護師に何か言われて、壁ぎわを往復している。歩幅が狭い。息を吸うときに、途中で止まる。
「散歩ですか」
「歩けと言われた」
レンは付いて歩いた。廊下は長く、片道が三十歩ほどあった。ガイの速度だと、それなりに時間がかかった。
「聞きたいことがあるんですけど」
「なんだ」
「あの地図」
ガイは足を止めなかった。
「丸の付け方です。どうやって決めてるんですか」
「見て決めてる」
「それじゃ分からないです」
ガイは廊下の端で折り返した。壁に手をついて、方向を変えるのに数秒かかった。
「言葉にしたことがない」
「じゃあ、しましょう」
「面倒だな」
「俺のほうが面倒です。今、暇なんで」
ガイは三歩ほど黙って歩いた。それから言った。
「歩くか」
外に出たのは、その週の後半だった。
医者の許可は、無理をしないことという条件付きだった。ガイは紙の地図と、赤い鉛筆を持ってきていた。
夕方でも暑かった。アスファルトが熱を返してくる。管制室にはない種類の空気だった。
商店街の裏の路地から入った。配属の初日に、この人が立ち止まった場所だった。
アーケードの潰れた区画は、仮設の足場が外れていた。天井が新しい。誰が金を出したのかを、レンは知らなかった。
「ここ、覚えてます」
「そうか」
ガイは自転車の置いてある壁を見ていた。今日は自転車がない。
「この家、丸が付いてます。耳が遠い人が住んでるって」
「それだけじゃない」
ガイは軒の下を指した。
「庇が短いだろう。雨の日に、玄関の前が濡れる。だから雨だと外に出ない」
「……それが何か関係ありますか」
「雨の日は、避難放送が聞こえん。窓を閉めてるからな。外にも出ない。だから雨の日に何かあると、この家はいちばん遅れる」
レンは軒を見上げた。
短い。それだけの話だった。それだけの話が、丸の中に入っている。
「全部の丸に、そういうのがあるんですか」
「あるものもある」
「書いてないですよね」
「書ききれん」
二人は路地を出た。ガイの歩く速度に合わせると、街の見え方が変わった。
管制室から見る管内図には、道と建物と交差点しかない。実際には、道の幅が途中で狭くなり、電柱が片側に寄り、路上に鉢植えが並んでいる。担架は通らないだろうと思った。思ってから、自分がそんなことを考えたことに気づいた。
カメラは交差点を向いている。カメラに映らない側に、玄関がある。これまで、レンはその玄関を見たことがなかった。
用水路のところで、ガイが立ち止まった。
「ここ、窪んでる」
「そうですか」
「道が低い。雨が集まる。夏場は水が澱む」
ガイは地図を開いて、そこに小さい丸を足した。何年ぶりに足したのかは聞かなかった。
「匂いで分かるんですか」
「匂いもある。虫の多さもある」
レンはしゃがんで、路面を見た。
側溝の縁に、水の跡が残っている。乾いた線が、道の中央より低い位置に付いていた。
言われれば分かる。言われなければ、一生見ない場所だった。
その夜、レンは管制室で地図を開いた。
管内図を出す。標高の層を重ねる。降水量の記録を重ねる。過去五年の浸水の通報を重ねる。
用水路の窪みは、データの上でも出た。
(出る)
レンは手を止めた。
出るのだ。データにはある。ずっとあった。誰も重ねていなかっただけだった。
あの人は、二十年かけて足で拾った。こちらは、三分で層を重ねられる。
ただし、庇の長さは出ない。
どのデータにも、その家の玄関が雨に濡れるかどうかは入っていない。
レンは新しい画面を作った。
管内図の上に、ガイの丸を打ち込んでいく。地図から拾って、座標に落とす。数は多かった。半分も終わらないうちに日付が変わった。
打ち込みながら、レンは丸の分布を見ていた。均等ではない。古い区画に固まっている。建て替えの少ない場所に集まっている。
(これ、重ねたら何が出るんだ)
手が止まらなくなった。
楽をするための作業ではなかった。今回は、そういう説明を自分に用意しなかった。
三日で、丸は全部座標に入った。
重ねると、いくつか出た。丸の密度が高い区画と、区分Bの発生地点は、ほとんど重ならない。獣は新しい区画に出ている。人が薄い場所を通るからだった。
救助が要る場所と、獣が出る場所は、別だった。二十年ぶんの丸は、獣のために打たれたものではなかった。
翌週、二人はもう一度歩いた。
ガイの息は、前より続くようになっていた。歩幅も戻ってきている。
旧市街の外れで、ガイが足を止めた。
路地の入口だった。ブロック塀が続いていて、その角のところで、こちらを見ないまま立っている。
「どうしました」
「……ここ、犬がいた」
「いた?」
塀の内側に、鎖が落ちていた。首輪ごと落ちている。留め具が壊れていた。
ガイは塀の上を見た。高さは大人の胸ほどある。上の縁に、三本の線が付いていた。
塗装が削れている。等間隔で、斜めに。
レンは写真を撮った。撮ってから、指が冷たくなっているのに気づいた。
この町の管内で、区分Bの通報は入っていない。今月は一件もない。
「グリット」
「なんだ」
「ケガ、あと二週間は動けませんよね」




