第20話 0.1秒
三日、レンは病院へ行かなかった。
行かない理由は用意してあった。報告書がある。事後の様式は区分Cになると枝が増える。負傷の届出、装備の損耗報告、市民救助の記録。打ち込む欄は多かった。
多かったが、三日もかかる量ではなかった。
管制室に一人でいる時間が長くなった。案件がないので、通報も入らない。
空調の音がしている。折り畳みの椅子は開いたままで、誰も座っていない。待機室の扉が開く音も、しばらく聞いていなかった。
二日目の夜、レンは記録を開いた。
開くつもりはなかった。次の案件の予定を消していて、その下に映像の一覧が並んでいたので、指が勝手に押した。
高架下の場面から再生した。
男が振りかぶる。ガイが位置についている。組み立てのとおりだった。
後方で音がする。ここで止めた。
時刻を書き出す。
罅が入ってから、二階が傾ぐまで。傾いでから、レンが気づくまで。気づいてから、「行くな」と言うまで。
最後の一つが、いちばん長かった。
(十一秒)
レンは椅子の背に体を戻した。
考えていた時間だった。ビルを見て、男を見て、消防の位置を見て、どちらを取るかを決めようとしていた。決められないまま、十一秒が過ぎている。
その十一秒のあいだ、ガイは待っていた。合図を待って、同じ位置に立っていた。
十一秒目に届いたのが、行くな、という言葉だった。
レンは映像を進めた。
救出。ビルから出てくる。振り返る。男が来る。
止めた。
ここから先を、レンはまだ見ていなかった。三日、見ていなかった。
見ない理由も、用意してあった。もう分かっていることだから、確認する必要がない。そう自分に言っていた。
再生した。
男が右で殴っている。左で砕いてから、右で殴る。順番が決まっている人間だった。四日かけて調べて、そう書いた。書いたのは自分だった。
ガイは正面から受けている。避ければ後ろの二人に当たるから、避けなかった。
レンは映像を巻き戻して、速度を落とした。
男が左を振る。地面が砕ける。破片が上がる。そのあとで右が来る。
左から右までの間隔を、レンは計った。
〇・五秒。
指が止まった。
もう一度計った。同じだった。
三本の記録でも同じ間隔だった。この男は、左を振ってから右を出すまでに、必ず〇・五秒かける。
ガイの回避に必要な時間は、〇・四五秒。
六月の記録から出してある。数字は頭に入っていた。
(間に合ってる)
間に合っていた。
溜まっていなくても、避けられた。左が来た時点で下がれと言えば、右は空を切った。
言わなかった。
あの瞬間、レンは何も言えなかった。何も言えないまま、ガイが受けた。
六つの言葉のうち、一つは「下がれ」だった。あの人が自分から足させた言葉だった。自分から退けと言い出せない人間だから、誰かに言われる形が要る、と。
その言葉を、いちばん必要な場面で使わなかった。
レンはもう一度、高架下まで戻した。
合図の設定を確認する。猶予の欄に、〇・四秒と入っている。
河川敷で、鉄骨と爪の順番が逆になった日。あのとき〇・五に戻すかどうかを考えて、数字で比べて、〇・四のままにした。
もし〇・五だったら、と考えた。
あの日、鉄骨は先に落ちていた。ガイの肩には入っていて、腕は掠めていない。四針は要らなかった。
四針が要らなければ、七月の予定は動かせた。防具の部品を待って、綻びの直った当て板で、区分Cに出られた。
直接の原因ではない。〇・一秒で肋骨は折れない。
それでも、たどっていくと、全部同じところから出ていた。
削れる余地があるものを、そのままにしておく理由がない、と自分は書いた。余地というのは、そういう名前の何かだった。
余っていた、と早瀬は言った。
レンは画面を閉じた。閉じてから、しばらく卓に肘をついていた。
七つの言葉が貼ってある。いちばん下に、行くな、と書いてある。
あの言葉が守られていたら、二階から二人は出てこなかった。守られていたら、ガイは無傷で、案件は予定どおりに回っていた。
どちらが正しいのかを、レンは考えようとした。
考えようとして、考える資格が自分にあるかどうかで止まった。
病院までの道で、レンは言うことを組み立てた。
三日ぶんの言い訳と、二日ぶんの計算がある。順番も決めた。決めたものを、待合の椅子でもう一度並べ直した。
四日目の午後、レンは病院へ行った。
ガイは上体を起こしていた。呼吸はまだ浅い。窓の外を見ていて、入ってきたレンのほうを一度だけ見た。
「来たか」
「……はい」
レンは端末を出した。出してから、置いた。
「〇・五秒でした」
「なんの話だ」
「あの男、左を振ってから右を出すまで〇・五秒あります。アンタが避けるのに要るのは〇・四五です」
ガイは黙っていた。
「間に合ってました。下がれって言えば、避けられた」
「言えなかったな」
「言えませんでした」
声が出しにくかった。喉ではなく、その手前で引っかかった。
「その前の十一秒も、俺が止まってた時間です。アンタは待ってました。待たせたのは俺です」
「そうか」
「あと、合図の猶予を削ってました。河川敷で戻すかどうか決めるときに、削ったままにしました。だから四針縫って、だから予定が動かなくて、だから防具が直ってない状態でCに出ました」
言い終わって、レンは息を吐いた。
用意していた言葉ではなかった。用意していたのは、もっと短い一言だった。
「すみませんでした」
ガイは窓のほうへ顔を戻した。しばらく何も言わなかった。
それから、こちらを見ないまま言った。
「お前が間違えるのは、いい」
レンは顔を上げた。
「俺が、お前を信じられなくなるような指示だけはするな」




