第32話 帰蝶の棘
如月が、BEW側に入る。
その知らせを見た時、帰蝶はしばらく画面から目を離せなかった。
――Discord:月下繚乱・幹部チャンネル――
紫苑:BEW側に、如月が入るようです。
短い一文だった。
ただの情報共有。
ウォーフロントに向けた、戦力確認のひとつ。
そう受け取ればいい。
そう受け取るべきだった。
けれど、帰蝶の指先は、返信欄の上で止まった。
帰蝶:……如月、ですか。
打ってから、少しだけ後悔した。
間が出てしまった。
何でもない名前なら、そんな返し方にはならない。
紫苑:ええ。ミスティアさん経由でしょうね。
紫苑:詳しい条件までは不明ですが、BEW側に入る可能性は高いです。
帰蝶:承知しました。
今度は、すぐに返した。
短く。余計なものを乗せないように。
紫苑は、それ以上踏み込んでこなかった。
ありがたかった。
同時に、少しだけ苦しかった。
誰かに聞かれれば、説明できる気がした。
(如月は昔の固定のメンバーです。
ルシエルの指揮をよく知っています。
ウォーフロントの戦場を見るのが上手い人です。
敵に置くと危険です)
そう言えばいい。
どれも嘘ではない。
けれど、それだけでは足りない。
足りない部分こそ、誰にも言えない。
帰蝶は、Discordを閉じなかった。
閉じないまま、別の画像フォルダを開く。
そこには、何度も見たスクリーンショットがあった。
小麦畑の白いホール。
聖堂のようなステンドグラス。
白いドレスのひまり。
その隣に立つ、白金のナイト装備のルシエル。
配信で拡散された一枚。
聖女と騎士。
誰かがそう呼んだ。
最初に見た時、胸の奥がひどく痛んだ。
ルシエルの隣。
その場所に、ひまりが立っていた。
何も知らない顔で。
(たぶん、本当に何も知らなかった)
ひまりは、悪くない。
それは帰蝶にもわかっている。
あの子は、ルシエルが昔どんな指揮をしていたのか知らない。
負けたと思った戦場を、どれだけ拾ってきたのかも知らない。
崩れた味方を見捨てず、最後まで勝ち筋を残す声を知らない。
その声に合わせて、自分がどれだけ必死にヒールを重ねたかも知らない。
如月が隣で何を見ていたかも知らない。
自分たちの固定が、どう壊れたのかも知らない。
何も知らない。
だから、憎めなかった。
ひまりの白いドレスは、事故のようなものだった。
眩しくて、痛くて、それでも責める先がなかった。
ひまりは、ただそこに立っていただけだ。
配信の流れで。
小麦畑の依頼で。
BEWに守られる生産職として。
ルシエルの隣が、帰蝶にとってどんな場所だったのかなど、知るはずもない。
だから、憎めない。
憎めないことが、余計に痛かった。
シルヴィスのことを、帰蝶は好きではない。
ひまりを襲ったこと。
終戦後も言葉を投げ続けたこと。
ゲームの外にまで踏み込んだこと。
どれも、許されることではないと思っている。
境界を越えた。それだけは、どんな理由があっても変わらない。
けれど。
どうして、あの子なの。
そう思ってしまう瞬間が、帰蝶にもないわけではなかった。
何も知らない子が、何も悪くない顔で、自分が欲しかった場所に立っている。
その痛みを、相手への怒りに変えてしまえば、たぶん楽だった。
シルヴィスは、そうしたのだと思う。
自分が傷ついた理由を、ひまりという形にしてしまった。
あの子がいるから。
あの子だけが許されたから。
あの子が守られたから。
そう思えば、痛みには名前がつく。
怒る先もできる。
でも、帰蝶はそこで止まった。
止まらなければならないと思った。
(ひまりは、何も知らなかった。
知らないままそこへ立った子を、憎むわけにはいかない。
そのくらいの分別は、まだ自分に残っている)
画面の中で、白いドレスのひまりは笑っていた。
その隣で、ルシエルは静かに立っている。
きれいな絵だった。
きれいだから、痛かった。
帰蝶は、画像を閉じた。
代わりに、ウォーフロント用の装備セットを開く。
だが、指はすぐに止まる。
如月。
その名前だけは、ひまりとは違う。
ひまりは知らなかった。
でも、如月は知っている。
ルシエルの隣が、どういう場所だったのか。
彼がどんな声で指揮をするのか。
不利な盤面で、どこを見て、何を捨てず、誰を拾うのか。
如月は知っている。
自分がそこから抜けたあと、何が壊れたのかも。
たぶん、知っている。
知っていて、もう一度そこへ戻る。
その事実が、ひまりの白いドレスよりも深く刺さった。
帰蝶は、如月を嫌いではなかった。
嫌えるなら、どれほど楽だっただろうと思う。
嫌な人だったならよかった。
下手なヒーラーだったならよかった。
自分勝手で、ルシエルの隣にいる資格なんてないと思える人ならよかった。
でも、違う。
如月は上手かった。
戦場を見るのが、怖いくらい上手かった。
敵のバーストが来る前に、声が入る。
如月『次、来る。帰蝶、前衛厚め』
帰蝶『はい』
帰蝶が回復を厚く置く。
その一秒後に敵のバーストが来る。
味方の前衛が赤く削れる。
けれど、落ちない。
帰蝶『戻します』
如月『いい。そこ耐えたら押せる』
ルシエル『押します。前へ』
その声に合わせて、味方が前へ出る。
ルシエルが点数を見ている。
如月が戦場の揺れを拾っている。
帰蝶が、その間をヒールでつないでいる。
気持ちよかった。
悔しいくらいに。
如月と組むヒーラーは、やりやすかった。
帰蝶が手を伸ばしたい場所に、如月は先に土台を置いてくれる。
帰蝶が戻すべき味方を、如月は一拍早く指してくれる。
帰蝶が厚くしたいタイミングを、如月は戦場全体の流れで作ってくれる。
だから、二人はよく回った。
ヒーラーのバディとして、たぶん理想に近かった。
そのことを、帰蝶は忘れられない。
忘れられないから、痛い。
ルシエルは如月を見ていた。
帰蝶は、それを知っていた。
知らないふりをしていた時期もある。
自分が回復を合わせれば、ルシエルは礼を言ってくれる。
自分が支えれば、ルシエルの指揮はもう一歩前へ出られる。
それだけでよかった。
そう思おうとした。
けれど、戦場が終わったあとの声は嘘をつかなかった。
ルシエルが、如月の判断を待つ間。
如月が「今なら乗る」と言った時の、ルシエルの呼吸。
あの短い間を、帰蝶は聞いていた。
聞きたくなくても、聞こえていた。
そして、ある日。
如月が固定を抜けた。
詳しいことは、誰も説明しなかった。
ただ、空気だけが変わった。
如月がいなくなった戦場で、帰蝶はいつもより多く声を出した。
帰蝶『そこ、戻します』
帰蝶『前衛、落とさせません』
帰蝶『大丈夫です。合わせます』
必死だった。
(如月がいなくても回ると証明したかったのかもしれない。
自分がいれば大丈夫だと、ルシエルに思ってほしかったのかもしれない)
けれど、帰蝶は知っていた。
自分は、如月の代わりではない。
上手いヒーラーではあったと思う。それは今でも否定しない。
けれど、如月が見ていたものは、帰蝶の手の届く場所とは少し違っていた。
その差が、残酷だった。
ルシエルは何も言わなかった。
優しい人だから。
言わないことが、さらに残酷だった。
ほどなくして、帰蝶も固定を抜けた。
あの場所に残ることが、できなかった。
ルシエルの隣に立ちたかった。
けれど、その隣は、帰蝶が立つ場所ではなかった。
少なくとも、あの頃の帰蝶にはそう見えていた。
そしてルシエルは、固定を解散した。
彼はウォーフロントから離れ、BEWへ行った。
それから長い時間が過ぎた。
帰蝶は月下繚乱にいる。
紫苑の側で、月下の戦場を見ている。
もう、あの固定のヒーラーではない。
わかっている。
わかっているのに、如月がBEW側に入ると聞いた瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さった。
抜けない棘。
大きな刃ではない。
叫ぶほどの痛みでもない。
けれど、息をするたびに少しだけ触れる。
ひまりがルシエルの隣に立った時とは違う。
ひまりは知らなかった。
如月は知っている。
知っていて、戻る。
それが痛い。
それでも、帰蝶は如月を罵る言葉を持てなかった。
(あの人もまた、何かを抱えていたのかもしれない。
そう思ってしまう程度には、帰蝶は如月を知っている)
嫌いになれるほど遠くない。
許せるほど近くもない。
中途半端な距離だけが、胸の中に残っている。
もし、立場がなかったら。
ふと、そんなことを考えた。
月下繚乱の帰蝶ではなく。
古戦場協定の一員でもなく。
敵側のヒーラーでもなく。
ただ、昔の固定にいた一人としてなら。
ルシエルが現場指揮をする。
如月が戦場を整える。
自分がヒールを合わせる。
そこに、もう一度混ざりたい。
そう思わないと言えば、嘘になる。
あの戦場を知っている。
あの声を知っている。
あの呼吸を知っている。
自分だって、そこにいた。
そこにいたのだ。
だからこそ、今そこへ戻れないことが苦しい。
帰蝶は、深く息を吐いた。
それから、装備セットを開き直す。
感傷は、ここまで。
次のウォーフロントで、帰蝶はBEW側にはいない。
月下側にいる。
相手にはルシエルがいる。
如月がいる。
ひまりの配信も入る。
なら、やることは決まっている。
帰蝶は、ヒーラー用のホットバーを確認した。
回復スキル。軽減。浄化。範囲回復。逃げるための移動スキル。味方を戻すための瞬間回復。
ウォーフロント専用スキルの配置を、少し変える。
如月がBEW側に入るなら、ルシエルの指揮は昔の形に近づく。
中央を完全には空にしない。
味方が最初に怖がる場所を捨てない。
点数上の最適解だけではなく、味方が乗れる場所を選ぶ。
如月は、それを支える。
なら、こちらはそこを読む。
読める。
読めてしまう。
読めること自体が、昔そこにいた証明のようで、また少しだけ胸が痛んだ。
けれど、痛いからといって、手は止められない。
帰蝶は月下側の編成表を開いた。
前衛の数。遠隔火力の数。ヒーラーの人数。誰が前に出すぎるか。誰が引き遅れるか。誰なら、ルシエルの誘いに乗ってしまうか。
ひとつずつ、確認する。
紫苑から追加のメッセージが来た。
紫苑:帰蝶。無理はしないでください。
帰蝶は、少しだけ画面を見つめた。
紫苑は、何も聞かない。
けれど、何も察していないわけではないのだろう。
帰蝶:大丈夫です。
帰蝶:戦場の話ですから。
送ってから、自分で少し笑った。
戦場の話。
便利な言葉だ。
恋も、未練も、痛みも、全部その中に隠せる。
戦場の話ですから。
そう言えば、誰も深く踏み込まない。
帰蝶は、最後にもう一度だけ、装備を確認した。
ひまりを憎まない。
シルヴィスの痛みを、少しだけわかってしまっても、同じことはしない。
如月を嫌いきれない。
ルシエルの隣に戻りたいと思ってしまう自分も、なかったことにはしない。
その全部を抱えたまま、戦場へ行く。
棘は抜けない。
けれど、抜けないままでも、戦場には立てる。
帰蝶は、ウォーフロント用のセットを保存した。
画面の中で、準備完了の表示が静かに灯る。
憎めない相手を憎むより、読まなければならない戦場がある。
次にルシエルの声を聞く時。
自分は、味方ではない。
その事実を胸の奥に沈めて、帰蝶は月下繚乱のチャンネルへ戻った。




