第30話 戦場だけが知っている
ウォーフロント。
その言葉が出た瞬間、BEW幹部チャンネルの空気が変わった。
温度が変わった、と言う方が正確かもしれない。
じわりと、熱を持ったまま冷えていくような、あの感じ。
黒翼城の攻城戦とは、違う。
城壁もない。
門もない。
守る場所も、攻め落とす場所もない。
あるのは、三つの陣営と、点数と、移動し続ける戦場。
ひまりには、まだよくわからない。
けれど、グラディオも、ルシエルも、ミスティアも、さっきからずっと真面目な声をしている。
(だから、たぶん。
これは、かなり大事な話なのだと思う)
ひまりは、そっと画面の端に視線を落とした。
グラディオ『ミスティア』
ミスティア『はいはい』
グラディオ『如月は』
ひまりは思わず顔を上げた。
如月。
前の会議で出てきた名前だ。
ルシエルの昔の固定にいた人。
ウォーフロントを知っている人。
敵側に渡したくない人。
それくらいしか、ひまりは知らない。
ミスティア『呼べました』
その言い方は、いつものミスティアより少しだけ軽かった。
軽い。
(軽すぎる、と思った。
ひまりがそう感じたのは、たぶん、気のせいではなかった)
グラディオ『入れろ』
ミスティア『はいはい。じゃ、入れます』
数秒、音が途切れた。
誰かがチャンネルに入ってくる通知音が、小さく鳴る。
それから。
知らない女性の声が、聞こえた。
如月『こんばんは。如月です』
柔らかい声だった。
けれど、甘くはなかった。
落ち着いていて、静かで、最初から場の空気を読んでいるような声。
まるで、波のない水面に石を置くような、静かな着地の仕方だった。
ひまりがそう思った直後、ルシエルの返事が半拍だけ遅れた。
ルシエル『……お久しぶりです。如月さん』
如月『久しぶり、ルシエル』
その声に、懐かしさはあった。
けれど、踏み込む響きはなかった。
閉じた扉の前で、互いに鍵を持っていないふりをしているみたいな、そういう間合いだった。
ひまりは、そっと息を止めた。
何かある。
そう思った。
でも、それが何なのかはわからない。
ミスティア『じゃ、如月。さっそくで悪いけど、説明お願いしていい?』
如月『ええ』
如月は、すぐに話題を変えた。
変えた、というより、最初からそこへ来るために入ってきたような自然さだった。
如月『まず、月下側に指揮官候補はいます。ただ、点数を見るタイプではありません。ぶつかる場所を作るのは上手いけれど、点差が開いた時に少し前のめりになる』
グラディオ『月下の指揮官か』
如月『候補です。確定ではありません。ただ、紫苑さんが自分で全部見るよりは、その人を立てる可能性が高いと思います』
ミスティア『今も出てる人?』
如月『出ています。頻度は高いです。少なくとも、今のマップの流れは見ています』
ひまりは、黙って聞いていた。
知らない名前が出てくる。
知らない戦場の話が続いていく。
でも、不思議と、置いていかれている感じはしなかった。
如月の説明は、難しい言葉を並べているわけではない。
ただ、見てきたものを、見てきたままに置いているだけ、というような話し方だった。
(この人は、本当に戦場を見ている。
ひまりにも、それだけはわかった)
グラディオ『山賊団は』
如月『権蔵さん本人が前に出るなら、山賊団は釣りに使ってきます』
グラディオ『釣り』
如月『はい。あそこは、負けても絵になる場所を選ぶので。数字だけでは読み切れません』
ミスティア『山賊だからねえ』
如月『山賊だからです』
淡々と返した如月に、ミスティアが小さく笑った。
けれど、いつもの笑い方とは、少しだけ違った。
(ミスティアはいつも通りにしている。
たぶん、いつも通りにしようとしている。
だから、少しだけ違って聞こえる)
ルシエル『今の主流は、中央初動ですか』
それまで少し黙っていたルシエルが、静かに聞いた。
如月『いいえ。今は初動中央に見せて、東を先に取る流れが多いです』
ルシエル『東』
如月『中央は見せ場になるけれど、点数効率だけで見ると、最初にこだわりすぎる場所ではありません。中央で長く殴り合うと、外周を取った陣営に点差をつけられる』
ルシエル『なるほど』
如月『ただ』
如月の声が、ほんの少しだけ変わった。
如月『あなたが現場指揮なら、たぶん中央は捨てない』
空気が、止まった。
グラディオは何も言わない。
ミスティアも笑わない。
スカーレットも黙っている。
ひまりにも、それはわかった。
ルシエル『……理由を聞いても?』
如月『あなたは、味方が最初に怖がる場所を空にしないから』
返事は、すぐにはなかった。
ひまりは、画面の向こうを見つめた。
如月は、作戦の話をしている。
ルシエルも、作戦の話をしている。
なのに、ただの作戦会議には聞こえなかった。
もっと別の何かが、静かに、二人の間に挟まっているようだった。
如月『中央を完全に捨てると、慣れていない味方は不安になる。点数上は正しくても、最初の一分で足が止まる人が出る。あなたはそこを嫌う』
ルシエル『……昔の話です』
如月『今も変わっていないと思います』
その言葉は、優しくも、甘くもなかった。
ただ、確信していた。
ルシエルがどういう指揮をするのか。
どこで味方を怖がらせないのか。
どこで無理をさせないのか。
如月は、それを知っている。
そのことだけが、静かに、置かれた。
ミスティア『はいはい、ルシさんの取扱説明書ありがとうございます』
如月『事実を言っただけよ』
ミスティア『その事実が一番こわいんだよなあ』
ミスティアは笑っていた。
いつもの声だった。
けれど、その笑い声だけが、少しだけ画面の端に置き去りになったように聞こえた。
(ひまりには、何も言えなかった。
たぶん、自分が口を挟んでいい空気ではない)
グラディオ『条件を確認する』
グラディオの声で、空気が作戦会議に戻った。
グラディオ『月下と山賊団は別陣営で入る。だが実質同盟として動く』
如月『はい』
グラディオ『BEWは二倍を見る』
如月『正確には、二倍に見える時間帯を作られます。常に二倍で殴られるわけではありません。そこを誤解すると、必要以上に引きます』
ルシエル『挟まれる時間を短くする必要がありますね』
如月『ええ。挟まれないことより、挟まれる場所と時間を選ぶ方が現実的です』
グラディオ『装備差は消える』
如月『消えます。高OEも、城防衛も、PKフィールドの装備圧も使えません』
ミスティア『黒翼城の圧はなし、と』
如月『ないです。なので、黒翼城で強かった人が、そのまま強いとは限りません』
ひまりは、少しだけ背筋を伸ばした。
黒翼城で強かった人が、そのまま強いとは限らない。
(それは、なんとなく怖い言葉だった。
BEWは強い。ひまりはそう思っている。
グラディオがいて、ルシエルがいて、ミスティアがいて、スカーレットがいる。
でも、戦場が変われば、その強さの形も変わる)
如月は、それを当たり前のように言った。
グラディオ『勝ち筋は』
如月『あります』
即答だった。
その速さに、ひまりは目を瞬かせた。
如月『ただし、ルシエルを現場指揮に戻す前提です』
ルシエル『戻す、ですか』
如月『戻す、です』
如月は、はっきりと言った。
如月『この条件で、点数を見ながら味方を動かせる人を、私は他に知りません』
それは褒め言葉だった。
でも、少しも甘くなかった。
戦場で必要な駒を選んだ人の声だった。
恋愛の言葉でも、懐かしむ言葉でもない。
だからこそ、強かった。
ルシエル『買いかぶりです』
如月『そう思うなら、二倍を相手にするのはやめた方がいいです』
ルシエルが黙った。
ミスティアが小さく吹き出す。
ミスティア『相変わらず、逃げ道つぶすねえ』
如月『必要な道だけ残しているつもりだけど』
ミスティア『その言い方がもう怖いんだって』
軽口のはずなのに、どこか鋭い。
ひまりは、二人のやり取りを聞きながら、そっと首を傾げた。
ミスティアは如月と親しいのだと思う。
会話の距離が近い。
(でも、近いからこそ、見えないものがあるようにも聞こえた。
よくわからない。
わからないけれど。
このチャンネルの中に、ひまりの知らない時間がある)
それだけは、わかった。
スカーレット『ひまりの位置は』
短い声が入った。
如月は、すぐに答えた。
如月『配信するなら、後方固定は危険です。安全に見えて、狙われると逃げ場がない』
スカーレット『じゃあ』
如月『ルシエルの移動指示に乗せます。戦闘参加は最低限。視点は固定しすぎない方がいいです』
スカーレット『護衛はいる』
如月『必要です。ただし、護衛を厚くしすぎると、そこが目印になります』
スカーレット『……』
ミスティア『スカちゃん、今のは怒るとこじゃないよ』
スカーレット『怒ってない』
ミスティア『怒ってる声だったよ』
スカーレット『怒ってない』
ひまりは、少しだけほっとした。
いつものBEWの空気が、ほんの少し戻ってきた気がしたからだ。
でも、その空気の中心に、如月がいる。
それが不思議だった。
如月は、初めてこのチャンネルに入ってきたはずなのに。
戦場の話になると、もうずっと前からそこにいたみたいに話している。
ルシエルも、それを否定しない。
グラディオも、余計なことは言わない。
ミスティアだけが、軽く笑っている。
(その笑いの意味は、ひまりにはまだわからない)
グラディオ『如月』
如月『はい』
グラディオ『こちらに入れるのか』
如月『入れます』
グラディオ『条件は』
如月『現場指揮はルシエル。私はその補助に入ります。配信はありで構いません。ただし、作戦の詳細は配信に乗せない。ひまりさんの視点は、戦場を見せるためのものにしてください』
ひまりは、自分の名前が出て、少し肩を揺らした。
「あ、はい」
思わず普通に返事をしてしまった。
すぐに、ここがVCだと思い出す。
ひまり『は、はい。すみません』
ミスティア『かわいい』
スカーレット『うるさい』
ミスティア『俺、今ひまちゃんしか褒めてないんだけど』
スカーレット『うるさい』
如月が、ほんの少しだけ笑った気配がした。
如月『ひまりさん』
ひまり『はい』
如月『あなたは、戦場で全部を理解しようとしなくていいです』
ひまり『え?』
如月『配信で見えるものと、指揮官が見ているものは違います。わからないことを無理に説明しようとすると、視点がぶれます』
ひまり『あ、はい』
如月『驚いたら驚いていいです。怖かったら怖いと言っていい。ただし、判断はしなくていい。判断は指揮官がします』
その言葉に、ひまりは少しだけ安心した。
戦場を理解しなければならないのだと思っていた。
ちゃんと説明できなければ、配信してはいけないのだと思っていた。
でも、如月は違うと言った。
見えるものを、見えるままに出せばいい。
判断は、別の人がする。
ひまり『わかりました。私、見えたものをちゃんと映します』
如月『それで十分です』
ルシエル『ひまりさんの視点は、たぶん重要になります』
ひまり『そうなんですか?』
ルシエル『はい。ウォーフロントを知らない人に、ウォーフロントを見せる視点になりますから』
ルシエルの声は、いつも通り丁寧だった。
(それに、ひまりは少しだけ救われた)
グラディオ『決まりだな』
グラディオが、短く言った。
グラディオ『ウォーフロント案は受ける方向で詰める。ルシエル、現場指揮。ミスティア、如月との調整。スカーレット、ひまりの護衛案を出せ』
ルシエル『わかりました』
ミスティア『了解』
スカーレット『出す』
グラディオ『如月』
如月『はい』
グラディオ『頼む』
如月『できることをします』
それで、会議は一度区切られた。
けれど、ひまりの中には、まだ何かが残っていた。
如月の声。
ルシエルの半拍遅れた返事。
ミスティアの軽すぎる軽口。
グラディオが何も掘らなかったこと。
スカーレットがひまりの位置だけを気にしたこと。
全部が、少しずつ違う方向を向いている。
なのに、ウォーフロントという一つの戦場へ向かって、同じ場所に集まっている。
ひまりは、画面に表示された参加者名を見つめた。
グラディオ。
ルシエル。
ミスティア。
スカーレット。
如月。
知らない名前が、ひとつ増えただけ。
それなのに、BEW幹部チャンネルの空気は、さっきまでとは別のものになっていた。
(如月。
ルシエルの昔の固定にいた人。
ウォーフロントを知る人。
そして、たぶん。
ひまりの知らない過去を、戦場から連れてきた人)
黒翼城の攻城戦は終わった。
鉄血旅団は降りた。
次の戦場は、城ではない。
ウォーフロント。
そこには、ひまりの知らないルシエルがいる。
ひまりの知らない如月がいる。
きっと、ひまりの知らない誰かの痛みもある。
でも、今はまだ、誰もそれを口にしない。
戦場だけが、知っている。




