第16話 Nachtを削除しますか?
画面の中で、《Nacht》はいつも通り立っていた。
黒い鎧。
何度も戦場に出た槍。
古いイベントで手に入れた外套。
Daybreakの紋章。
そして、キャラクター名。
Nacht。
ナハトは、その名前を見ていた。
消せるわけがない。
さっき、そう思った。
いまも、そう思っている。
蓄積型のMMORPGで、メインキャラクターを消すというのは、ただデータを消すことではない。
休止とは違う。
引退とも違う。
ログインしなくなれば、キャラクターは残る。
フレンドリストの中に名前が残る。
戦績にも、ギルド履歴にも、ランキング履歴にも残る。
誰かが昔話をするとき、その名前はまだそこにある。
だが、削除は違う。
その名前で過ごした時間を、自分の手で消す。
かつて呼ばれた名前。
戦場で立っていた場所。
積み上げた装備。
称号。
失敗した強化。
徹夜で集めた素材。
勝った戦争。
負けた戦争。
全部を、その名前ごと消す。
ナハトにとって《Nacht》は、ただのキャラクターではなかった。
青春の、いちばん濃い時間だった。
BEWにいた頃の自分。
グラディオの横で戦っていた自分。
ルシエルやミスティアと同じVCにいた自分。
シルヴィスに呼ばれて、Daybreakへ移った自分。
副長として、何度も後始末をした自分。
楽しかった時間も、確かにそこにあった。
戻りたいわけではない。
けれど、なかったことになどできるはずがない。
それでも、ナハトは削除ボタンの上にカーソルを置いていた。
寝室の方から、扉の開く音がした。
「ナハト」
シルヴィスの声だった。
少し掠れている。
泣いたあとか、泣く前か。
どちらにせよ、ナハトにはもう区別がつかなかった。
「やめて」
ナハトは振り返らなかった。
「お願い。そんなことしないで」
画面の中の《Nacht》は、何も言わない。
ただ、そこに立っている。
「私が悪かったから」
その言葉も、聞いたことがある。
「もうしないから」
その言葉も、聞いたことがある。
「ナハト、お願い。話を聞いて」
その言葉で、かつて自分はこの場所に来た。
その言葉で、BEWを出た。
その言葉で、何度も戻された。
ナハトは、やっとわかった。
この言葉に返事をしてはいけない。
返事をした瞬間、また始まる。
「話は聞かない」
ナハトは、画面を見たまま言った。
「もう聞いた」
「聞いてない。ちゃんと聞いてないじゃない」
「聞いた」
短く答える。
「何度も聞いた」
シルヴィスが近づいてくる気配がした。
「ナハト、お願い。消さないで」
その声には、本当に怯えがあった。
それでも、ナハトの手は止まらなかった。
このキャラクターを残しておけば、シルヴィスは必ずここに来る。
ゲーム内で。
Discordで。
SNSで。
LINEで。
過去のギルドメンバーを経由して。
同盟先を経由して。
誰かの口を借りて。
《Nacht》という名前が残っている限り、シルヴィスは必ず手を伸ばしてくる。
ナハトはそれを知っている。
何度も、そうやって戻されたからだ。
だから、消す。
要らないからではない。
憎いからでもない。
残しておけば、逃げられないからだ。
画面に確認ウィンドウが出た。
【System】キャラクター《Nacht》を削除しますか?
ナハトは、しばらくその文字を見ていた。
小さな確認文だった。
けれど、その意味はあまりに大きかった。
背後で、シルヴィスが息を呑む。
「嘘でしょ」
ナハトは、入力欄にキャラクター名を打ち込んだ。
Nacht。
一文字ずつ。
間違えようのない名前。
何年も呼ばれ続けた名前。
入力が終わる。
削除ボタンが有効になる。
「ナハト!」
シルヴィスが叫んだ。
その声に、昔なら振り返っていた。
怒っていても、疲れていても、振り返っていた。
けれど今は、振り返らなかった。
クリックした。
【System】キャラクター《Nacht》が削除されました。
画面から、黒い鎧の男が消えた。
キャラクター選択画面に、空白が残る。
ナハトは、しばらくその空白を見ていた。
胸の奥が痛むと思った。
涙が出るかもしれないと思った。
けれど、何も出なかった。
ただ、体の中のどこかが、静かに壊れたような気がした。
「……なんで」
シルヴィスの声が震えていた。
「なんで、そこまでするの」
ナハトはようやく振り返った。
シルヴィスは、リビングの入口に立っていた。
スマホを握ったまま、顔を青くしている。
「逃げるためだ」
ナハトは言った。
「お前から」
シルヴィスの顔が歪んだ。
泣き出しそうだった。
怒り出しそうでもあった。
だが、その前にナハトはPCへ向き直る。
次はDiscordだった。
Daybreakのサーバーを抜ける。
幹部チャンネルの権限を放棄する。
引き継ぎ資料だけを、共有フォルダへ置く。
副長として必要な最後の作業だけを終える。
――Discord:Daybreak幹部チャンネル――
ナハト:引き継ぎ資料を共有した。
ナハト:装備補填、脱退者対応、同盟先への連絡はファイルの通り進めてくれ。
ナハト:俺はこれで抜ける。
送信。
すぐに通知が鳴り始める。
けれど、ナハトはもう見なかった。
サーバーを抜ける。
アカウント設定を開く。
削除手続きへ進む。
「やめて」
背後から、シルヴィスが言った。
「お願い、ナハト。そこまでしないで」
ナハトは答えない。
答えれば、また始まる。
Discordアカウントの削除申請を進める。
ゲーム用SNSアカウントを開く。
ログアウトではない。
削除。
関連付けていた連絡先を外す。
Xのゲーム用アカウントも消す。
LINEを開く。
シルヴィスの名前がある。
何年分ものやり取りがある。
怒った日。
謝った日。
何でもないスタンプ。
深夜の通話。
イベント前の連絡。
全部、そこにある。
ナハトはそれを開かなかった。
開けば、読む。
読めば、迷う。
迷えば、戻される。
ブロック。
確認。
完了。
「ナハト……」
シルヴィスの声が、すぐ後ろにあった。
泣いていた。
それでも、ナハトは振り返らなかった。
「私、どうしたらいいの」
その問いも、知っている。
以前なら、答えを探した。
一緒に考えた。
支えた。
慰めた。
そして、また同じ場所に戻った。
今は違う。
「俺に聞くな」
ナハトは静かに言った。
「もう、俺に聞くな」
シルヴィスが何かを言おうとした。
だが、声にならなかった。
ナハトは立ち上がり、クローゼットを開けた。
大きめのバッグを取り出す。
最低限の服。
ノートPC。
財布。
鍵。
必要な書類。
仕事道具。
手際よく詰めていく。
シルヴィスの荷物には触れない。
それは、明日業者を呼んで、彼女の実家へ送る。
自分の荷物は、今夜出す。
別の部屋は、もう手配できる。
仕事上、急な滞在先くらいはどうにでもなる。
それも、ナハトが何度も考えていた逃げ道の一つだった。
考えていただけで、実行しなかった道。
今日、ようやくそこを歩く。
「本当に、出ていくの」
「ああ」
「今から?」
「ああ」
「こんな夜中に?」
「今じゃないと、出られない」
ナハトはバッグのファスナーを閉めた。
玄関へ向かう。
シルヴィスが追ってくる。
「待って」
ナハトは靴を履いた。
「待たない」
「明日、話そう」
「話さない」
「お願い」
「聞かない」
「ナハト!」
その声が、背中に刺さる。
痛くないわけではなかった。
けれど、もう戻らない。
ナハトは玄関のドアを開けた。
振り返らずに言う。
「荷物は送る。部屋のことは、あとで連絡する」
「どこに連絡するの。全部切ったんでしょ」
「弁護士か、管理会社を通せ」
シルヴィスが息を止めた。
ナハトは、それ以上何も言わなかった。
ドアを閉める。
廊下に出る。
深夜のマンションは静かだった。
エレベーターの前まで歩く。
指が少し震えていた。
それでも、戻ろうとは思わなかった。
スマホを見る。
もうシルヴィスからの通知は来ない。
来ても、届かない。
それを確認して、ナハトはようやく息を吐いた。
胸の中には、まだ何もない。
怒りも。
悲しみも。
達成感も。
ただ、空白だけがあった。
その空白の中心に、《Nacht》が消えたあとの画面が残っている。
消した。
本当に、消した。
エレベーターの扉が開く。
ナハトは中へ入った。
扉が閉まる。
シルヴィスのいる部屋から、完全に離れていく。
◇
同じころ。
グラディオのマンションでは、コーヒーの匂いが漂っていた。
ルシエルが淹れたコーヒーを、グラディオはほとんど飲まないまま、モニターを見ていた。
終戦宣言は出た。
BBSはまだ燃えている。
ひまりへのWhisperも確認済み。
夜は、まだ終わらない。
その時、Discordの通知音が鳴った。
――Discord:BEW幹部チャンネル――
ミスティア:団長
いつもの軽い調子ではなかった。
グラディオはすぐに返す。
グラディオ:どうした
少し間がある。
それから、次のメッセージが来た。
ミスティア:Nachtが消えた
ルシエルの手が止まった。
「……消えた?」
グラディオは画面を見たまま、動かない。
ミスティアの連投が入る。
ミスティア:嘘だと思って確認した
ミスティア:Daybreakのメンバー一覧にいない
ミスティア:フレンドリストからも消えてる
ミスティア:PvPランキング履歴も飛んでる
ミスティア:これ、キャラデリしてる
部屋の空気が変わった。
軽口を挟む者はいなかった。
ミスティアも。
スカーレットも。
誰も。
ルシエルは、ゆっくりと椅子に座り直した。
「……キャラデリ、ですか」
その声は低かった。
蓄積型のMMORPGで、上位プレイヤーがメインキャラクターを削除する。
それは、ありえないことだった。
休止なら、ログインしなければいい。
引退なら、キャラクターを残しておけばいい。
いつか戻るかもしれない。
戻らなくても、名前は残る。
フレンドリストにも、ギルド履歴にも、戦績にも、昔話の中にも。
けれど、キャラクター削除は違う。
積み上げた装備も、称号も、戦績も、フレンドも、ギルドで呼ばれてきた名前も。
そのキャラクターで過ごした時間を、自分の手で消す。
《Nacht》は、ただのキャラクターではない。
元BEW副長。
現Daybreak副長。
何年もPK界隈の中心にいた名前だ。
その《Nacht》が消えた。
ルシエルは、すぐには言葉を続けられなかった。
グラディオが、ようやく口を開く。
「確認する」
声は冷静だった。
だが、低い。
グラディオはゲーム内のフレンドリストを開く。
Nacht。
検索する。
該当なし。
過去の戦績リンクを開く。
名前がない。
Daybreakのギルドメンバー一覧を開く。
そこにも、ない。
ルシエルが隣から見ていた。
「誤表示では」
「ない」
グラディオは短く答えた。
さらに別の画面を開く。
PvPランキングの履歴。
古い戦争ログ。
同盟戦の記録。
いくつかの場所で、名前が空白になっていた。
かつてそこにあった《Nacht》という名前が、削り取られたように消えている。
グラディオは、しばらく黙った。
それから、低く言った。
「……Nachtを消したのか」
ルシエルは、目を伏せた。
ナハトがBEWにいた頃を知っている。
副長だった頃を知っている。
グラディオの横で指揮を補佐していた頃を知っている。
Daybreakへ移った時のことも、知っている。
腹が立った。
呆れもした。
それでも、消えていい名前ではなかった。
「ナハトさんが、そこまで」
ルシエルの声は、かすれていた。
グラディオは答えない。
Discordに、スカーレットの文字が流れた。
スカーレット:何があった
ミスティアが返す。
ミスティア:わからない
ミスティア:でも、普通じゃない
ミスティア:Nachtを消すって、普通じゃない
グラディオは短く打った。
グラディオ:騒ぐな
グラディオ:Daybreak側の情報を拾え
グラディオ:ただし接触するな
ミスティア:了解
少し間があって、スカーレットも返した。
スカーレット:了解
ルシエルが静かに言う。
「シルヴィス嬢から逃げたんですね」
「たぶんな」
「キャラまで消して」
「ああ」
「そこまでしないと、逃げられなかった」
その言葉は、質問ではなかった。
確認だった。
グラディオは、否定しなかった。
「ナハトは、話せば戻されると思ったんだろ」
「……でしょうね」
「だから、話せない形にした」
ルシエルは、胸の奥が重くなるのを感じた。
別れ話ではない。
逃走だ。
しかも、ただ部屋を出るだけでは足りなかった。
ゲーム内の名前を消すほどの逃走。
《Nacht》という、自分の楽しかった時間ごと切り離すしかなかった逃走。
「団長」
「なんだ」
「シルヴィス嬢を止める人が、いなくなりました」
グラディオは、すぐに頷いた。
「わかってる」
ナハトが消えた。
それは、ナハトがDaybreakから消えたというだけではない。
シルヴィスを止めていた最後の線が切れたということだった。
グラディオは、ひまりから送られてきたスクリーンショットをもう一度開く。
【Whisper】Sylvis:お願い、話をきいてほしいの
短い一文。
それが、さっきよりずっと重く見えた。
グラディオは、幹部チャンネルへ指示を打った。
グラディオ:ひまりへの接触警戒を上げる
グラディオ:Whisper、Xリプ、DM、全部スクショ
グラディオ:本人に返事させるな
グラディオ:ミス、明日説明しておけ
ミスティア:了解
スカーレット:張る
グラディオ:護衛だ。張るな
スカーレット:同じだろ
グラディオ:違う
いつもなら、そこでミスティアが軽く笑うところだった。
けれど、その夜は誰も笑わなかった。
ルシエルは、冷めたコーヒーに視線を落とした。
「ナハトさんを、探しますか」
「探さない」
グラディオは即答した。
「ここまで切ったやつを、こっちから追うな」
「……はい」
「必要なら、向こうから来る」
そう言ってから、グラディオは少しだけ目を伏せた。
「来ないかもしれないがな」
ルシエルは黙った。
モニターの中には、まだ《Nacht》の痕跡を探した検索画面が残っている。
だが、どこにもいない。
消えていた。
本当に。
《Nacht》は消えた。
それは、ひとりのプレイヤーが、ただゲームをやめたという意味ではなかった。
ナハトが、自分のいちばん楽しかった時間ごと、シルヴィスから逃げたということだった。
そして、その逃げ道を選ばせたものは、まだ終わっていない。




