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第15話 お願い、話を聞いて

 終戦宣言を出してからも、ナハトはしばらくPCの前から動けなかった。


 Discordの通知は止まらない。


 装備を失ったメンバーからの連絡。


 脱退を考えているという相談。


 同盟先からの確認。


 幹部からの苦い報告。


 Daybreakは、まだ壊れていない。


 けれど、昨日までと同じ形ではもう続かない。


 ナハトはそれを、画面の向こうから流れてくる文字の量だけで理解していた。


 寝室の扉は閉まったままだった。


 シルヴィスは、あれから出てこない。


 リビングの照明はついたまま。


 PCのファンの音だけが、やけに耳につく。


 ナハトは一度だけ、寝室の扉を見た。


 声をかけるべきか。


 やめておくべきか。


 考えて、すぐにやめた。


 いま声をかければ、また同じ話になる。


 私は悪くない。


 みんな私を否定する。


 ナハトまで私を捨てるの。


 その言葉を、彼はもう何度も聞いてきた。


 PCの横に置いたスマホが、短く震える。


 ナハトは反射的に画面を見た。


 自分宛てではない。


 寝室の方からも、かすかに通知音が聞こえた。


 BROには、スマホ連携機能がある。


 戦闘はできない。移動もできない。アイテム操作にも制限がある。


 けれど、チャットだけは見られる。


 Guildも、Whisperも、最低限の返信ならできる。


 外出先でも、ベッドの中でも、誰かに言葉を送ることはできる。


 ナハトは、その仕様をよく知っていた。


 そして、シルヴィスの癖も知っていた。


 傷ついた時。


 否定された時。


 自分を止める相手しかいなくなった時。


 彼女は、まだ自分を否定していない誰かへ手を伸ばす。


 最初の言葉は、いつも似ている。


 お願い、話をきいてほしいの。


 今、その画面をナハトが見ているわけではない。


 相手が誰なのかも知らない。


 けれど、わかった。


 わかってしまった。


 これは初めてではないからだ。


 昔、ナハトはその言葉を受け取る側だった。


 グラディオはひどい。


 私は大事にされていない。


 BEWには入れてもらえなかった。


 私だけが、ずっと外にいる気がする。


 シルヴィスはそう言って、ナハトに寄りかかった。


 ナハトは、それを恋だと思った。


 あるいは、勝利だと思った。


 グラディオの隣にいた女が、自分にだけ弱音を吐く。


 自分だけが理解してやれる。


 自分だけが、彼女を救える。


 そう思いたかった。


 その結果、ナハトはBEWを出て、Daybreakへ移った。


 けれど、そのあとも同じことは何度か起きた。


 シルヴィスは傷つくたびに、別の男へ行く。


 最初は、いつも相談だった。


 ただ話を聞いてほしかっただけ。


 否定しないでほしかっただけ。


 自分の味方がほしかっただけ。


 彼女は、いつもそう言った。


 けれど、相談で終わらなかったことを、ナハトは知っている。


 ゲームの外で会ったこともある。


 浮気になったこともある。


 一度ではない。


 そのたびにナハトは怒り、問い詰め、疲れ、許した。


 許したというより、処理した。


 Daybreakを壊さないために。


 シルヴィスをマスターの席に残すために。


 自分が選んだ場所を、間違いだったと認めないために。


 寝室の向こうで、また通知音が鳴った。


 短く、軽い音。


 けれど、ナハトの耳には、それだけがやけに大きく聞こえた。


 まただ。


 証拠はない。


 だが、証拠が必要な段階は、もうとっくに過ぎていた。


 ナハトは画面に戻り、幹部チャンネルへ返事を打とうとした。


 指が止まる。


 打つべき文面は、いくらでもある。


 装備補填の基準。


 脱退者への対応。


 戦争参加者リストの確認。


 倉庫から出した消耗品の清算。


 けれど、頭に浮かぶのは別の言葉だった。


 お願い、話をきいてほしいの。


 それは、シルヴィスにとって謝罪ではない。


 相談でもない。


 自分を否定しない誰かを見つけるための、最初の一文だ。


 ナハトは、ようやく椅子から立ち上がった。


 寝室の前まで歩く。


 ノックはしなかった。


 扉越しに、静かに声をかける。


「シル」


 しばらく返事はなかった。


 それから、少しだけ遅れて声が返る。


「……なに」


 泣いている声ではない。


 拗ねている声でもない。


 少し甘く、少し弱く、相手に続きを促す声だった。


 昔、ナハトが何度も聞いた声。


 その声を聞いた瞬間、胸の奥に残っていた熱が、すっと消えた。


 怒りではなかった。


 悲しみでもなかった。


 ただ、冷めた。


 信じられないほど静かに。


「また、誰かに送ってるんだな」


 扉の向こうが、静かになる。


「何を?」


「お願い、話をきいてほしいの、だ」


 短い沈黙。


 それだけで十分だった。


「……見たの?」


「見てない」


「じゃあ、決めつけないで」


「決めつけじゃない。知ってるんだよ」


 ナハトは、疲れたように言った。


「その言葉のあとに、何が起きるか」


 扉の向こうで、シルヴィスが息を呑む気配がした。


「ただ、話を聞いてもらうだけよ」


「前もそう言った」


「今回は違う」


「その言葉も聞いた」


「ナハト」


 名前を呼ぶ声が、少し揺れる。


 以前なら、その揺れに足を止めていた。


 何度もそうしてきた。


 けれど、もう何も動かなかった。


「俺は、もう同じことを処理しない」


 シルヴィスの声が変わった。


「処理って、なに」


「そのままの意味だ」


「私のこと、そんなふうに見てたの?」


「違う」


 ナハトは目を閉じた。


「そう見ないようにしてきた」


 扉の向こうから、衣擦れの音がした。


 シルヴィスが立ち上がったのだろう。


「ひどい」


 小さな声。


「ナハトまで、私をそんなふうに言うんだ」


「そうだな」


 ナハトは静かに答えた。


「ひどいんだろうな」


「だったら――」


「でも、もう戻らない」


 言葉を重ねられる前に、ナハトは言った。


 ここで会話を長引かせてはいけない。


 それも、彼は知っている。


 少しでも隙間を作れば、シルヴィスはそこへ入り込んでくる。


 泣く。


 謝る。


 怒る。


 責める。


 縋る。


 そして最後には、ナハトがまた処理役に戻る。


 それを、もう繰り返さない。


「戻らないって、なに」


「俺は、Daybreakの副長を降りる」


 扉の向こうが、完全に止まった。


「……は?」


「お前の恋人もやめる」


「待って」


 扉が開いた。


 シルヴィスが立っていた。


 スマホを握ったまま。


 顔は青ざめている。


「待って、ナハト。そんな話、いましないで」


「いま決めた」


「怒ってるの?」


「怒ってた」


 ナハトは、正直に言った。


「でも、もう冷めた」


 その言葉に、シルヴィスの顔が歪んだ。


 怒鳴られるより、責められるより、ずっと堪えたのだろう。


「冷めたって、なに」


「そのままだ」


「そんな簡単に言わないでよ」


「簡単じゃなかった」


 ナハトは、彼女を見た。


 昔、自分が奪ったと思っていた人。


 自分を選んだと思っていた人。


 守って、支えて、何度も許してきた人。


 その人を見ても、もう胸が熱くならない。


 腹も立たない。


 ただ、ここから離れなければならないと思った。


「何年もかかった」


「ナハト」


「俺も、そうやって呼ばれたんだったな」


 シルヴィスが黙る。


「お願い、話をきいてほしいのって」


 その一文で、自分はBEWを出た。


 グラディオへの妙な優越感を抱いた。


 自分なら彼女を救えると思った。


 今ならわかる。


 あれは救いではなかった。


 逃げ道の一つに選ばれただけだ。


 そして今度は、自分がその場所に置かれている。


「俺は、もう聞かない」


 ナハトは言った。


「これ以上は、聞かない」


「……私を捨てるの?」


 来た。


 その言葉を、ナハトはどこか遠くで聞いた。


 何度も聞いた言葉だ。


 以前なら、ここで止まっていた。


 違う。


 捨てるわけじゃない。


 話し合おう。


 落ち着こう。


 そう言って、また元の場所へ戻っていた。


 けれど、今日は違った。


「そうだな」


 ナハトは答えた。


「そういうことになる」


 シルヴィスの目が、大きく見開かれる。


「嘘」


「嘘じゃない」


「やめて」


「無理だ」


「謝るから」


「もういい」


「もうしない」


「その言葉も聞いた」


「ナハト、お願い」


 シルヴィスが一歩近づく。


 ナハトは一歩下がった。


 その距離に、シルヴィスが傷ついた顔をする。


 だが、ナハトはもう近づかなかった。


「明日の朝までに、必要な荷物をまとめてくれ」


「……なに、それ」


「送る。お前の実家に」


「勝手に決めないで」


「この部屋は俺が出る」


「だったら私も――」


「来るな」


 初めて、ナハトの声が少しだけ鋭くなった。


 シルヴィスが息を止める。


「来るな。連絡もするな。ゲーム内も、Discordも、SNSも、LINEも、全部切る」


「そんなの、ひどい」


「ひどくていい」


 ナハトは、もう揺れなかった。


「話し合えば戻ると思ってるだろ」


 シルヴィスの唇が震える。


「戻らない」


 ナハトは言った。


「だから、話し合わない」


 沈黙。


 寝室の中で、シルヴィスのスマホがまた震えた。


 通知音。


 ナハトは、その音を聞いた。


 そして、完全に決まった。


「今日は、もう寝ろ」


「眠れるわけないでしょ」


「俺は作業がある」


「作業?」


「終わらせる作業だ」


 ナハトはリビングへ戻った。


 PCの前に座る。


 Daybreakの幹部チャンネルが開いたままになっている。


 通知はまだ流れていた。


 ナハトは、そこへ短い文を打った。


ナハト:副長を降りる。

ナハト:後任は明日、幹部内で決めてくれ。

ナハト:装備補填と脱退者対応の引き継ぎ資料は、このあと共有する。


 送信する前に、一瞬だけ指が止まる。


 Daybreakで過ごした時間。


 シルヴィスの隣にいた時間。


 BEWを出た時に、自分が勝ったつもりでいた記憶。


 全部が、画面の向こうで薄く光っていた。


 ナハトは送信した。


 次に、ゲームを起動する。


 メインキャラクター。


 《Nacht》。


 Daybreak副長として使ってきた名前。


 キャラクター選択画面に、黒い鎧の男が立っていた。


 何度も戦場に出た。


 何度も倒れ、何度も戻り、何度も指揮を受け、何度も指揮を返した。


 装備欄には、長い時間をかけて揃えた武器と防具がある。


 称号欄には、もう二度と取れないイベント称号が並んでいる。


 戦績には、何年分もの勝敗が刻まれている。


 フレンドリストには、ログインしなくなった古い名前も残っている。


 蓄積型のMMORPGで、自分のキャラクターを削除する。


 それは、しばらく休止することではない。


 引退します、と言ってログインしなくなることでもない。


 そのキャラクターで過ごした時間を、自分の手で消すことだった。


 プレイヤーの感覚では、ほとんど自分を殺すのに近い。


 少なくとも、ナハトにとって《Nacht》は、ただのデータではなかった。


 BEWにいた頃の自分。


 グラディオの横で戦っていた自分。


 ルシエルやミスティアと同じVCにいた自分。


 シルヴィスに呼ばれて、Daybreakへ移った自分。


 副長として、何度も後始末をした自分。


 一番楽しかった時間も、確かにそこにあった。


 全部、《Nacht》に積み上がっていた。


 消せるわけがない。


 そう思った。


 それでも、この名前を残しておけば、シルヴィスは必ずそこへ手を伸ばしてくる。


 Nachtである限り、自分はまたDaybreakの副長に戻される。


 また、彼女の隣に立たされる。


 また、処理役に戻る。


 だから消す。


 要らないからではない。


 残しておけば、逃げられないからだ。


 削除ボタンに、カーソルを合わせる。


 指が止まる。


 画面の中で、《Nacht》はいつも通り立っていた。


 消せるわけがない。


 そう思った。


 それなのに、ナハトは初めて、その名前を消す以外の逃げ道がないことに気づいていた。

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