第14話 ナハトとシルヴィス
部屋に戻ってからも、ナハトはコートを脱がなかった。
玄関を上がり、リビングの照明をつける。
テーブルの上には、朝出る前に置いたままのマグカップと、半分だけ残ったペットボトル。ソファの端には、シルヴィスの薄いカーディガンが丸まっていた。
生活の気配がある。
けれど、そのどれもが、いまのナハトには少し遠かった。
時計は二十三時を過ぎている。
二十四時には、Daybreakの公式Xアカウントから終戦宣言を出さなければならない。
文面は、焼き肉屋で合意した通りだ。
同盟ギルドに対する事前調整を欠いた行為であったことを認める。
今回の戦争に紐づく報復行為、粘着行為を禁じる。
通常のPKフィールド上の交戦は、この限りではない。
短い文章だった。
だが、それを出したあとに処理しなければならないことは、短くない。
装備を失った精鋭の補填。
やる気をなくしたメンバーへの説明。
すでに脱退申請を出している者への対応。
同盟先への連絡。
ギルド倉庫の確認。
そして、シルヴィスの処理。
ナハトはPCを立ち上げた。
画面が明るくなる。
Discordには、すでに未読通知が積み上がっていた。
――Discord:Daybreak幹部チャンネル――
幹部A:終戦宣言、本当に今日出すんですか?
幹部B:装備戻らないなら抜けるって言ってる奴います
幹部C:シルさん、何か言ってます?
幹部A:今回の件、対外的にどう説明します?
ナハトは椅子に座り、息を吐いた。
返すべき言葉を選ぶ。
言葉を間違えれば、さらに燃える。
言葉を濁せば、内部が割れる。
グラディオは、終わらせろと言った。
それが、お前の仕事だ、と。
その通りだった。
ナハトはDaybreakの副長だ。
いまここで、言葉を尽くす側にいる。
シルヴィスは、リビングのソファに座っていた。
焼き肉屋を出てから、ほとんど口をきいていない。
コートも脱がず、スマホを見つめている。
画面の光だけが、彼女の顔を白く照らしていた。
「シル」
ナハトは声をかけた。
「終戦宣言、予定通り出す。文面は、さっきの通りでいいな」
「……好きにすれば」
「お前の名前で出す」
「Daybreakのマスターは私でしょ」
シルヴィスは、画面から目を離さずに言った。
「だったら、それでいいじゃない」
声は冷たかった。
納得している声ではない。
ナハトは、それでも頷くしかなかった。
「わかった」
投稿画面を開く。
Daybreakのギルド専用Xアカウント。
文面を貼り付け、時刻を確認する。
あと十七分。
その間にも、Discordの通知が鳴り続けている。
ナハトは幹部チャンネルへ短く返した。
ナハト:終戦宣言は24時に出す。
ナハト:ルート品の返却はない。そこは交渉で確定した。
ナハト:装備損失については、明日以降、ギルド倉庫と参加メンバーのリストを照合して対応する。
ナハト:脱退希望者は止めない。ただし、戦争中に持ち出した物資の清算は行う。
送信。
すぐに反応が返ってくる。
納得。
不満。
質問。
怒り。
全部が混ざっていた。
ナハトはそれを追いながら、別窓でBBSを開いた。
BRO総合スレ。
終戦宣言を待つ書き込みが流れている。
そこに、嫌な文が混じっていた。
843:名無しの冒険者
聖女(笑)
844:名無しの冒険者
守られてるだけで聖女扱いとか楽でいいよね
845:名無しの冒険者
PKのことも戦争のことも何も知らないくせに
846:名無しの冒険者
ルシエルに庇われて、コメント欄に持ち上げられて、次は小麦畑の広告塔?
847:名無しの冒険者
何もしてない子が中心にいるの、さすがに気持ち悪い
ナハトの手が止まった。
IDを見る。
匿名。
だが、文体は隠せていない。
横を見る。
シルヴィスは、スマホを握ったまま、じっと画面を見ていた。
唇が、かすかに動いている。
「シル」
ナハトは低く呼んだ。
返事はない。
「BBSに書いたか」
シルヴィスの指が止まった。
数秒の沈黙。
それから彼女は、こちらを見ずに言った。
「何のこと」
「とぼけるな」
ナハトの声が、少しだけ硬くなる。
「文体でわかる。あれはお前だろ」
「別に、名前を出して書いたわけじゃない」
「そういう問題じゃない」
「みんな書いてるじゃない。掲示板なんて、そういう場所でしょ」
シルヴィスは、やっと顔を上げた。
目が赤い。
泣いたわけではない。
怒りと悔しさで、眠れない目だった。
「あの子だけ、何も言われないの?」
「ひまりさんは何もしていない」
「何もしてないから腹が立つのよ」
シルヴィスの声が跳ねた。
「何もしてないのに、全部持っていく。グラディオも、ルシエルも、コメント欄も、小麦畑も。何も知らない顔で、真ん中に立ってる」
「だからって、BBSで叩いていい理由にはならない」
「叩いた? 感想を書いただけでしょ」
「やめろ」
ナハトは短く言った。
「今すぐやめろ」
シルヴィスは、唇を噛んだ。
「ナハトまで、私を否定するの」
「否定じゃない」
「同じよ」
「違う」
ナハトは椅子から立ち上がった。
ソファの前まで行き、シルヴィスのスマホを見る。
画面には、ゲーム画面が映っていた。
チャット欄。
ひまり宛てのWhisper。
【Whisper】Sylvis:お願い、話をきいてほしいの
送信済みだった。
ナハトは、一瞬、言葉を失った。
「……シル」
「何」
「ひまりさんに、直接送ったのか」
「話を聞いてほしかっただけ」
「やめろ」
声が低くなった。
今度は、さっきよりもはっきりと。
「それは、やめろ」
「どうして」
シルヴィスが立ち上がる。
ナハトとの距離が近くなる。
「あの子、何も知らないんでしょ? だったら、話してあげてもいいじゃない。私が何を思ってたのか。どうしてこうなったのか。あの子だって、知る権利くらいあるでしょ」
「ない」
「どうしてよ」
「ひまりさんは当事者じゃない」
「襲われたんだから当事者でしょ」
「だからこそだ」
ナハトは、言葉を切るように言った。
「襲われた側に、襲った側の感情を受け止めさせるな」
シルヴィスの顔が歪んだ。
「私は、ただ話を――」
「それは攻撃じゃない、じゃない」
ナハトは遮った。
部屋の空気が止まる。
「殴ってないだけだ」
シルヴィスは黙った。
その目が、大きく開かれる。
傷ついた顔だった。
理解した顔ではない。
否定された顔だった。
「……ひどい」
小さく、シルヴィスが言った。
「ナハトまで、そんなふうに言うんだ」
「言う」
ナハトは目を逸らさなかった。
「言わなきゃいけない」
「私が悪いって言いたいの?」
「今回の件では、悪い」
「全部?」
「全部じゃない。けど、ひまりさんにWhisperするのは違う」
「どうして、みんなあの子の味方なの」
その声は、焼き肉屋で聞いた声と同じだった。
グラディオに向けられたもの。
ルシエルに向けられたもの。
そして今は、ナハトにも向けられている。
「俺はDaybreakの味方だ」
ナハトは言った。
「だから止めてる」
「嘘」
「嘘じゃない」
「だって、私を止めるじゃない」
「止めないと、Daybreakが壊れる」
シルヴィスは息を呑んだ。
ナハトは続けた。
「今日、どれだけ抜けると思う。装備を剥がされた奴だけじゃない。今回のやり方についていけない奴もいる。幹部にも不満が出てる。終戦宣言を出して、ようやく少し止められるかもしれないところまで来た」
机の上のPCでは、Discord通知がまだ鳴っている。
質問。
怒り。
脱退。
補填。
整理すべきものが山ほどある。
「そこでお前が、BBSでひまりさんを叩いて、本人にWhisperを送ったらどうなる」
「……」
「終わらないんだよ」
ナハトの声が少しかすれた。
「終わらせるって、さっき言っただろ」
シルヴィスは視線を落とした。
スマホを握る手が震えている。
「私は」
声が小さくなる。
「私は、ただ、見ていられなかっただけ」
「知ってる」
ナハトは言った。
「でも、それをひまりさんに向けるな」
「じゃあ、どこに向ければいいの」
その問いに、ナハトはすぐには答えられなかった。
シルヴィスはそれを見て、少し笑った。
泣きそうな笑いだった。
「ほら。誰も答えてくれない」
「シル」
「もういい」
彼女はスマホを胸元に抱えるようにして、寝室の方へ歩いた。
「終戦宣言、出せばいいんでしょ。Daybreakのために」
「シル、待て」
「出して」
振り返らずに言う。
「マスターの名前で出していいわ」
寝室の扉が閉まる。
音は大きくなかった。
けれど、ナハトには、やけに重く聞こえた。
リビングに一人残される。
PCの画面では、投稿予約の時間が迫っていた。
二十三時五十八分。
ナハトは椅子に戻り、Daybreak公式Xアカウントの投稿画面を確認した。
文面は、焼き肉屋で合意した通り。
シルヴィスの名義で出す。
それは彼女自身が言ったことだった。
やったことの責任くらい、自分で取る、と。
だが今、その言葉がどれほど彼女の中に残っているのか、ナハトにはわからない。
DiscordにDMが来る。
グラディオだった。
グラディオ:予定通り出せ。
グラディオ:止められないなら、次はナハトごと叩く。
ナハトは、その文面を見て、小さく笑った。
容赦がない。
昔からそうだ。
けれど、筋は通っている。
ナハトは返信を打つ。
ナハト:予定通り出す。
ナハト:こちらで止める。
送信。
それが、どれほど守れる言葉なのかはわからない。
それでも、送るしかなかった。
二十四時。
ナハトは、Daybreak公式Xアカウントから終戦宣言を投稿した。
――X:Daybreak公式――
Daybreakは、本日24時をもってBlack End Wingとのギルド戦争を終結します。
今回の同盟解除および開戦について、同盟ギルドに対する事前調整を欠いた行為であったことを認めます。
以後、今回の戦争に紐づく報復行為、粘着行為を禁止します。
通常のPKフィールド上の交戦は、この限りではありません。
末尾には、ギルドマスター・Sylvisの名が入っている。
投稿は、すぐに拡散され始めた。
ナハトは、椅子の背にもたれた。
部屋は静かだった。
寝室の扉は閉まったまま。
Discordの通知は止まらない。
BBSでは、また新しい書き込みが流れているだろう。
戦争は終わった。
少なくとも、公式には。
だが、ナハトの部屋の中では、まだ何も終わっていなかった。




