誰もいない
しとしとと地面を打つ雨の音が響く。もう西の空に傾いた月はこの部屋からは見えない。夜中か、いや早朝と言うべきか、どちらとも言えないような時間に香は目を覚ました。
広いベッドの右端で縮こまりながら寝ていた姿勢から上体を起こし、ぼんやりとする瞳で辺りを見回す。横に寝ていたはずの誠が居ないのが視界に入って、急に布団の温度が少し下がった気がした。まぁ、これが当たり前か、と少し嘆息する。目が覚めたら明るくて、澄んだ朝の空気を吸って、誰かの体温と共に起きられたらどんなに幸せだろうか、などと期待したボクがいけなかったんだ。きっと誠は自分の部屋に帰ってしまったのだろう。それとも、ボクの寝相が悪かったりしたのかな? なんて考え始めた時、急に喉の乾きを感じた。
身体の向きを変え、足をそっと床につける。膝下までしかズボンの丈がないせいで、布団から出たばかりの足が空気をひんやりとしたものだと感じ取ってしまう。そのままベッドの下を探り、スリッパを引き出すと、足を差し入れた。空気よりもさらに冷たく硬い感触に香の機嫌はさらに悪くなったが、眉一つ動かさず立ち上がった。
ペタ、ペタと静まり返った廊下に響き渡る足音を必死に殺して階段を上がり、自らの部屋に戻り、小さな冷蔵庫にあった手付かずのペットボトルを引き出すと、冷たい水を喉に流し込んだ。一気に飲みすぎてしまったためか、少し頭が痛くなる。が、そんな事は今の香にとってはどうでもよく、むしろ痛みで冴えた頭で考え事をしながらペットボトルを戻した。顔を洗い、上着を1枚羽織ると、動きやすいいつもの靴に変えて、そっと音を立てぬように部屋を出ると、真っ先に誠の部屋を目指す。と言っても真向かいにあるので、そんなに距離はない。廊下を横切った紫のスカーフのかかったドアをノックする。……反応はない。
「おーい、誠……?」
呼びかけたつもりだが、廊下の静寂に負けて蚊の鳴くような声しか出ない。ノブを回すが、案の定鍵がかかっていた。こんな子供みたいな我儘で誠に渡された合鍵を使う訳にも行かず、そっと部屋をあとにする。なんとなく嫌な予感がして、香は吹の部屋もノックしてみる。されど、返事はない。そして、こんなに音を立てているのに、紅の反応もない。
怖い、胸を締め付けるようなじんわりとした恐怖に脳内が支配される。そう、このフロアには誰もいない。一体ボクを置いてどこに行ったんだよ、と今すぐ誰かの胸ぐらを掴んで怒鳴ってやりたい気持ちを堪えて、香は階段を駆け下りる。目指すは、地下一階。7階から降り始めたため、息が切れ、病み上がりの足が痛む。
地下への重たい扉を体重を使って開けて、また階段を下って、目の前の廊下を一番奥まで進む。隅っこにある部屋にノックして、返答を待つ。地下一階は部下用の部屋。つまりここは、香がまるで弟のように可愛がる山野未来の部屋だ。案の定、反応はない。いつもなら数回のノックで慌てて顔を出すのに、今に限って居ないなんて。自らの知り合いが全員いないなんて、ありえないほどの偶然の一致に怖くなる。皆トイレか? ……そんなはずはない。
こうなれば部下の部屋を全部ノックして全員叩き起してやろうかとも思ったが、そういう訳にも行かず、一人とぼとぼと来た道を戻った。
「誠は……コンピュータルームかも」
頭に浮かんだ一片の希望を捨てまいと、階段を駆け上がる。とっくに足は限界を迎え、先程整えた呼吸も徐々に乱れてきた。
もうすぐ4階、という所で強い衝撃を感じた。薬物の臭いと、空っぽだった頭で、階段を降りてきた人にぶつかったのだと理解する。その人は香の背中に手を回して香が階段を落下するのを防ぎ、香はその人に半ば抱かれている状態で、途切れ途切れの声で謝罪した。
「いいんだよ、それより君こそ大丈夫?」
高めの声が聞こえてきて、香はハッとして身体を離す。薄桃色の柔らかくウェーブした髪、雑にまいているようでしっかりしているお飾りの包帯、狂ったように瞳孔がぐるぐるしている明るい紅赤色の瞳。いつも七分丈の白衣を着ている……ヤバい、もう少しなんだけど名前が思い出せない。香がまじまじと見つめていると、先程まで思案していたその人物は、ハッとしたような表情で、
「えっと、君は三室さんだよね?」
「そうだけど……」
「ボクは桃組の神代 瑞葉。副隊長をさせて貰ってるよ」
そこでやっと顔と名前が一致した。やけに女の子みたいな名前だな、と思った事がある。あとはハッキリ言って関わりたくないタイプだと言う事とか。何を考えているかわかったものじゃない。香は肩で息をしながら右足を引いた。そんな香の心情などお構い無しのように瑞葉は香の肩に両手を置いて、不思議な瞳でじっと見つめた。
「どうして寝てないの? ダメじゃないか抜け出したら」
「あ、ごめんなさい」
「それに、何をそんなに慌ててるの? 誰かが攻めてきた訳でもないのに、そんなにひきつった顔をして」
ふと、無意識に答えようとした自分に驚いて、香は顔を逸らす。瑞葉の瞳を見つめていると、いつの間にか自分の事を全て話してしまう気がした。
「いいんだよ、無理に答えなくても」
「ごめんなさい……」
「大丈夫だよ。ここで立ち話もなんだし、病室に戻ろうか」
ポンポンと優しく頭を叩かれ、自分の幼稚さに引け目を感じる。言葉を出せずにこくりと頷くと、頭の手は背中に移動し、促すようにさすった。バサリと翻った白衣からは、相も変わらず強い薬品臭がした。




