13、いつか許せるなら
「沙紀ちゃん…こ…こんばんは」
俯き気味で小さな声で挨拶をしてくる渚は少し震えていた。
そういえば以前からちょっと喧嘩した時もこんな風に駅で”偶然”会ったような気がする。
偶然というよりもこの子がずっと待ってたような”必然”っぽいイメージではあるが。
結局はその都度私が折れてしまったがさすがに今回はそんなつもりもない。
「…こんばんは」
私はあまり感情のこもらない声で答え、渚を観察する。
なんだろう…元々線の細かった子だけど益々影が薄くなったって言うか…やつれてる?
そう考えているとゆっくりと顔を上げた渚を見てぎょっとなった。
右頬と目の周辺が赤紫?赤黒くなっている。理沙の話だと1週間は前の話だというが、これはそんな以前の痕なのだろうか。
「それ…やったの文也なの?」
「…」
「ちゃんと答えて。手を上げたのは文也なの?」
「…からだって…」
「えっ?」
「私が…誘ったからだって…」
「そんな…」
渚は肯定したのだ。手を上げた相手は文也だと。
しかも自分の子供を身篭っている相手に手をあげたのだ、信じられなかった。
渚は私から目線を逸らしながらポツリポツリと話し出した。
「疲れてる文也君…見てると切なくて。最初は…沙紀ちゃんの変わりでもいいからって言った」
「あなたは何処まで馬鹿なのよ…」
「だから…気持ちは今でも沙紀ちゃんにあると思う…。あの日も本当はちゃんと謝って沙紀ちゃんとやり直したかったんだって。どんなに時間がかかっても信頼を取り戻したいって。それに私が無理やりついて行ったから余計にこじれたって…」
「だからって手を上げるなんて男として最低でしょ…子供だって」
「私も…本当はおろすつもりで、沙紀ちゃんにでもちゃんと謝りたくて。文也君凄く後悔してたから」
その一言で私は頭に血が上った。命を何だと思っているんだ。
「簡単におろすとか言わないでっ」
私の大声に驚いたのか渚の身体が小さく跳ねた。
「さ…きちゃ…」
「子供は…欲しくても望めない人だっているんだよ?二人にとってそんな簡単に解決できちゃうような事なの?二人の考えている事って人間として最低よ…。これ以上私を失望させないで」
「ごめっごめんなさい…でも文也君も…子供おろしてくれって…」
「本当に…どうしちゃったのよ渚も文也も…」
二人の余りのいい加減さに眩暈を起こしそうで額に手を当てた。
そんな男だったろうか文也は…そんな男と5年も付き合ってきたのだろうか?
ショックを隠せない、そんな誠意のない男じゃなかった筈なのに。
自分の身体も自然と震える。疑問?絶望?失望?哀しみ?今まで見てきた彼はまるで虚栄だったような、私の中での後藤文也という人間が崩れていく気分だ。
同時に渚に対する怒りなのか哀れみなのかわからないような感情。
所謂「寝取られ」た私と「寝取った」渚。
裏切られた怒りは確かにある。だからといってこの状態を喜ぶ事もできなかった。
出来るのであれば私の知らない場所で二人で幸せになっていれば私もどこか報われる気にもなっっていた。相愛しているのなら仕方ないと「いつか」二人を許せそうだと思っていたからだ。
そんな原因を作ったのは自分にもあるという事は理解している。
浮気の原因を自分のせいにするなとあの時は言ったが、自分だって部外者とは言えない。文也が渚に絆された原因は確かに自分にもあるのだ。
聞き分けのよい振りをしながらも結局私は文也に全てを委ねる事が出来なかった。自分の殻を破り彼に心から頼る事が出来なかった。
だがどうだろうか…この私の知らない彼の豹変は…。
これも私が蒔いた種となってしまうのであろうか…。
私は…どうすればいい…。
「文也君…ずっと沙紀ちゃん探してる。今の文也君何するかわからないから…沙紀ちゃんも気をつけて。それだけが心配でどうしても言いたかったの…」
やはりかと口からため息が漏れた。この寒空の下、会えるかどうかもわからないのにこの子は私を…多分何時間もまってたのだろう。自分が妊婦だという自覚はないのか。
人の心配よりまずは自分だろうと苦しくなった。
渚の話を聞いたからといって私はどうすればいい?
忠告されなくても極力文也とは会うことを避けたい。
謝って謝られて、それで昔の関係が戻るわけがない。
そんな簡単な事情ではないだろう。
そして文也と渚の今の関係も話を聞いた限り、恐らく最低最悪なのだろうが私がしてあげれることなど無いのだ。
もはやそれに関して言えば冷たいだろうが私は部外者だ。
あぁ…もう頭の中めちゃくちゃだっ…
「沙紀は僕がちゃんと守ってるから心配は不要だよ」
不意に背後から声が聞こえた。
驚いて振り返ると総司さんがにこやかに微笑みながら公衆だというのに肩を抱いてきた。
「そ…総司さん!?」
「遅くなった」
目の前の渚は戸惑ったように私たちを見渡す。
「えっと…?」
総司さんは先ほど私に向けた笑顔から私の知る営業スマイルへと変わっていた。そして驚いたままの私を気にしないかのように渚に挨拶をした。
「はじめまして、小暮といいます」
「か…片桐…です。沙紀ちゃん…?」
渚は不安そうな顔で私を見るが、私はこの場はもう総司さんに任せることにした。
仕事中もめったに口を挟まず部下に任せる彼だが、それでも時として口を挟むことがある。その時は大体にして窮地を察しての時だ。
正直今の状態もそれに近い、私には彼女に何を言ったらいいのかわからない。
どこから聞いていたのか分からない。
だけど無責任かもしれないが総司さんの登場に私は心から安堵した。
「片桐さん。大体の事情は沙紀から聞いている。君たちの関係にもはや沙紀の出る幕はないんだよ」
「っ…」
「君たち3人の友情を終わらせたのは紛れも無い君たち二人だ。いい大人なんだ、あとはそっちの問題だというんだ」
渚は険しい顔つきになり、総司さんも厳しい口調となった。
「…」
「過去はどうあれ今は君たち二人で解決しなくてはいけない問題になぜ沙紀を巻き込もうとする?君は沙紀になんと言ってほしいんだ?」
「あ…そんな…つもりじゃ…」
「君のさっきの言い分じゃ何も無かったことにして今まで通りに戻りたいといっているように聞こえたが違うのかい?自分たちだけよければ沙紀のこれからの苦悩はどうでもいいと?」
「ち…ちがいますっ…ただ私はっ…」
「総司さん…」
私は総司さんのスーツを軽く引っ張ると彼は静かに頷いた。
「ねぇ渚?私ね、あの時凄く悲しかったし悔しかった。裏切られたとも思った。だからって二人の幸せを祈ってないわけじゃないんだ」
「沙紀ちゃん…?」
「私も実は今とっても幸せなんだ。だから二人もちゃんと幸せになってほしい」
「沙紀ちゃんは今…幸せなんだ?」
一瞬だけ目を見開いた渚は涙をためて私に言った。
「うん、幸せだよ。二人がどんな結論を出すかは私はわからないけど、それでも幸せになってほしいよ」
敢えて「二人で幸せに」とは言えなかった。現状の渚には多分酷だと思ったから。
渚はぽろぽろと涙を零し少し笑いながら嗚咽交じりでゆっくりと口を開いた。
「私ね…『沙紀ちゃんを好きだった文也君』が本当は好きだったんだって今更気付いたんだ…。二人とも私にはとても眩しかった…だから自分のせいで壊れちゃったのが悲しかった。でも違うんだね…沙紀ちゃんは今が幸せなんだね」
「うん…だから渚もできればちゃんと話し合ってほしいよ。私の事はもう気にしなくていいんだから」
「…うん」
そうして私たちは彼女と別れて自宅へと向かった。
一度振り向いたが渚はずっと私たちを見ているようだった。
いつか昔みたいに話せるかな?と最後に言った彼女の言葉を私は苦笑いで濁してしまった。先のことなんて分からない。むしろ私などいない方が二人が幸せになれるんじゃないかとも思う。だから曖昧にした。
私のマンションに歩きつつ総司さんに友人と話した事などを伝えていた。
「なんか…色々とショックです…人ってそんなに変わるものなんでしょうか?それとも…」
「また余計な事を考えてないか?」
「…いえ」
「自分のせいだと思っているなら大きな間違いだ」
「…そうでしょうか」
「人間は変化していく生物だと俺は思うよ。同じ自分でいることの方が難しいんじゃないかな。だが根本を変える事は簡単な事じゃない。俺自身もね」
「総司さんもですか?」
「あぁ、偉そうな事言ってるけど俺だって今まで生きてきてそれなりに挫折も妥協も味わった。その度に少しずつ成長していったと思ってる。壁にぶつかっても、それでも絶対に譲れない矜持があって生きているからこそ人間だとも思っている。そんな自分の生き方に後悔はしてない。結局は自分の道を決めるのは自分自身なんだ」
「自分自身…」
「それに…」
「…?」
「今だってはたから見れば俺は十分汚い男だと思うぞ?沙紀の弱っている隙をついて猛アタック中だ」
「それはっ…それを言えば私だって汚いです、他人から見ればすぐに乗り換えた女だって思われても仕方ない…」
「俺にとってはそれは幸運な出来事でしかなかった。巡ってきたチャンスに縋った俺の行動は沙紀からみてセーフかい?」
悪戯っぽい笑みを浮かべて彼は聞いてくる。
「最初は驚いて戸惑いましたが…嫌ではないです…総司さんといると安心します。汚いとか、ずるいとかそんな事思ってなんかない…」
「それと同じだよ。彼を擁護するわけじゃないが、客観的にみて片桐さんの話しか聞いていない自分たちには彼らの善悪はわからない。暴力は絶対に許されることじゃないが、第三者は結局当事者じゃないからそこに行き着くまでの経緯は知ることなどできない」
だからこそ自分のせいで彼が変わったなど思うなと彼は言いたいのだろう。
「どちらにしろあまり気持ちのいい話じゃないですね…」
文也がそこまで激高するような内容など私には想像もできない。
自分が知っている彼であれば誠意をみせて恐らく…渚と籍を入れるだろうと思っていた。
「…彼と…会う?」
「えっ…」
「俺としてはあまり会ってほしくはないが、沙紀の疑念が解けるなら会って話すのもひとつの手段だとも思う。勿論その時は一緒に行く」
「そんな保護者みたいな」
「片桐さんの言葉も軽視できないだけだ。言ってただろう?今の彼は何をするかわからないと」
「…そうですけど。でもやめておきます。話したところで私は何もしてあげられない。あの二人に今は関わるべきじゃないと思ってます」
「そうか」
「はい」
総司さんは隣を歩いている私の手を握り締めた。
あの夜と同じで彼の手は暖かい。私の燻った心まで温めてくれるように。
私も同じように総司さんの手を握り返した。
私の中で膨れていく総司さんへの気持ち。暖かくて切なくてとても大切にしたい。
マンションのエレベーターでお互い吸い込まれたように目が合い自然と口付けを交わしていた。
私は今本当に幸せだ。
「ところで必要なものって結構大荷物?」
「いえ、そんな事ないですよ?」
「じゃあ取ったらadoucirに行こうか。新鮮な牡蠣が入ったそうだ」
「わぁ。牡蠣ですか!行きたいです」
「じゃあ急ごうか」
「はい」
手はずっと繋がれたままだった。