新しい仕事とサワートマト
帝国立キルケ―魔法学校は帝都の中心部にあり、この国で最も長い歴史と権威のある魔法学校である。帝国内外から優秀な学生が集まり、彼らは三年をかけて広域的な魔法知識と技術を身につける。さらにこの学校は研究機関としての機能も持ち合わせており、より専門的な魔法を学びたいものは研究過程に進学することもできる。
そんな魔法学校の食堂料理人として雇われたネネは、この学校にやってきてはじめての朝を迎えていた。
ちちっという鳥のさえずりが、毛布にくるまっているネネの耳に届く。眠たげに目を瞬きながらうんと大きな伸びをしたネネは、ベッドから抜け出すと昨日渡されたお仕着せをハンガーから外した。ワンピース型のお仕着せは簡素な意匠だが生地も仕立てもとてもいいものだ。ネネはそのお仕着せに着替え、髪を手早く三つ編みにした。
(よし)
洗面台で顔を洗って、宿舎を出た。
宿舎から食堂の厨房までは歩くこと十歩。厨房の裏口に着くと、ネネはあらかじめもらっていた鍵で錠を外し、きしむ扉を開けた。
「うわぁ」
厨房は予想していたよりずっと広くて立派だった。
実はこの学校の建物、以前は皇宮として使われていた建物をそのまま利用したものらしい。今は隣に新しい皇宮ができたので皇族はみなそちらに移っているが、ひと昔前まではこの厨房で皇帝の食事もつくっていたのだ。設備が立派なのも当然なのであった。
ネネはそんな厨房内をウキウキしながら見てまわった。
部屋の中央には大きな石板の調理台があり、さらに壁際には見たこともないほど大きなクッキングストーブがあった。そばに寄ってよく見てみると随分年季が入ったもののようだが、きちんと手入れされ大事に使われてきたのが分かる。さらにネネはクッキングストーブの扉の隅に、ある紋章が描かれているのを見つけた。
(あれ? これうちの竈のと同じ紋章だ)
実家の薪コンロもそこそこいいものだとは思っていたが、こんな立派な厨房で使っている竈と同じ職人が作ったものだったとは。ちょっと嬉しい。
ネネは一通り厨房内を見てまわったあと、今度はカウンターの向こうに目を向けた。
カウンターを挟んで向こう側は、学生たちが食事をとる広間だ。
(あっちも見ておこうかな)
ネネは布巾を握りしめ、カウンターの端にある扉を開けて広間に出た。
広間には、大きな長テーブルが三つ並べてあって、華奢な燭台が点々と置かれている。
ネネは大きなテーブルを全て拭き上げると、辺りに誰もいないのを確認し、静かに長椅子に腰かけてみた。そしてふと上を見上げたネネは、思わず顎が外れそうになる。
吹き抜けになった高い天井には、視界に入りきらないほど大きな絵が描かれていた。
——果実がたわわに実る森。そこで踊る三人の魔女と、一匹の黒い猫——
この国では誰もが知っている、建国のおとぎ話を題材にした絵だ。ところどころ顔料が剥げているが、ともすれば絵の中に吸い込まれてしまいそうなほどの迫力があった。
「こんなところで食事できるなんて贅沢だなぁ」
田舎町の料理店なんか比べるのも悲しくなるくらいの豪華さだ。
ネネはふうっと息をはき出すと、テーブルに両手をついて立ち上がった。また厨房に戻ると使った布巾を洗っておく。
(さて、他にやっておくことは……)
とネネが辺りを見回していたとき、厨房の裏戸が開いた。
扉からひょっこり顔をのぞかせたのは、ふくよかで、朗らかで、羊みたいな見た目のおばさんだった。
「おや、あんたが新しい料理人かい?」
「はい。ネネ・クルタリカです。よろしくお願いします」
その羊みたいなおばさん——ミランダさん——は手際よく厨房を案内してくれたのち、ネネの肩をぽんと叩いた。
「まだ朝食まで時間があるからね。今からおまえさんの腕試しというこうか」
そう言ってミランダがにこっと微笑む。
どうやらこのおばさん。ただのほんわかしたおばさんではなかったようだ。新人いびりとは言わないまでも、力量はしっかり見ておこうというのだろう。
「そうさね、まずは朝食に合う卵料理でも作ってもらおうか。材料は食糧庫にあるものを何でも使っていいよ」
ネネはミランダに承知の意を伝えると、さっそく食材を取りに裏口から外へ出た。
食糧庫は裏口を出て目と鼻の先にあった。
ネネは食在庫の扉を開けると、手早く必要な食材を集め、厨房に戻る。
ミランダがパンや飲み物の用意をしている後ろで、ネネは卵料理作りに取りかかった。材料を刻み、卵をといて熱々のフライパンに入れる。ジュウとこぎみよい音を立てるフライパンを動かしながら、木べらで大きく円を描くように混ぜていく。
「よっ」
と絶妙のタイミングで皿に移せば、完成だ。
「できました」
ネネはできあがった料理をミランダに差し出す。
「おやトマト入りのオムレツか。ん? ちょっと待ちな。食糧庫にあったのはサワートマトだろ。ダメだよあれは生では使えないんだ」
サワートマトとは微量の魔力を帯びた魔法食材で、強烈に酸っぱいのが特徴だ。栄養豊富なのだが、酸っぱすぎるので本来は干して調味料にするものだ。
「大丈夫です。これは食べられますから、試食してみてください」
そう言い切ったネネに怪訝な目を向けつつ、ミランダは言われたとおりネネの作ったトマトオムレツを一口、口に入れる。途端、ミランダの目が大きく見開かれた。
「何で……? 全く酸っぱくない。むしろ旨味があふれてくるくらいだ。あんたいったい何を入れたんだい?」
「サワートマトと卵以外には、塩だけです」
「そんなわけないだろう。もしかして何か魔法を使ったのかい?」
「いえ、私は魔法が使えないんです」
「だったらどうして生のサワートマトがこんな美味しくなってるんだ」
そう言いながら、ミランダは次々にスプーンを口へ運んでいる。
「これは食材同士の相性を利用しました」
ネネは卵を一つ掴んでミランダに見せる。
「この卵、愚骨鶏の卵ですよね。愚骨鶏の持つ魔力は、サワートマトの魔力と混ざると特殊な反応を起こします。そのおかげでサワートマト独特の酸味が消され、旨味だけが残るんです」
「そんな話聞いたことないよ」
「この国ではサワートマト以外のトマトもたくさん採れるから、わざわざサワートマトを生で食べようとする人はあまりいません。でもサワートマトしか採れない山岳地方に住む人たちはこうして愚骨鶏の卵と一緒に調理して生のサワートマトを食べたりするんです。しかも干したのとはまた一味違った旨味を得られる」
「ほお、こりゃ驚いた。わたしゃサワートマトを生で食べれるなんて夢にも思ってなかったよ。あんた若いのに物知りなんだねえ」
「父が料理人だったので、いろいろ教わりました」
ネネの父は数年前に亡くなっているが、父から教わったことは今でもネネの財産になっている。
「よし。じゃあ、今日の朝食の卵料理は全部あんたに任せよう。できそうかい?」
ネネはうなずくと、さっそく調理にとりかかった。
ネネが食堂壁際のテーブルに学生用の朝食を並べ終えた頃、ぱらぱらと学生たちがやってきた。
朝食はテーブルに並んだ大皿から、自分で好きなだけ取って食べてもらうスタイルである。テーブルには先ほど作った卵料理に、パン、サラダ、ヨーグルト、蜂蜜、ジャムが並んでいた。
ネネは調理道具の片付けをしながら、学生たちが料理を食べている様子を眺める。
(貴族と平民と半々くらいかな)
この学校は身分に関係なく試験にさえ受かれば誰でも入学することができる。貴族か平民かどうかは、彼らの服装を見ればだいたいわかった。同じ制服を着ていても小物や靴、アクセサリーで差が出る。
(帝都の方が貧富の差が激しいってのは本当なのかな)
とはいえ食堂料理人としてはどんな相手だろうと美味しいと思ってもらえる料理を作るまで。予算内にどれだけ美味しい料理を作れるかが腕の見せどころだ。今日の昼はブラウンシチューだと先ほどミランが言っていた。
ネネが昼食のことを考えながら洗いものをはじめると、ミランダが話しかけてきた。
「ネネ、ちょいと問題が起きた」
ミランダが紙切れを台の上に放り投げる。
「あんたの前にいた料理人が注文を間違えていたみたいでね。もも肉を頼んだはずが、すじ肉が大量に届いちまった。ブラウンシチューに入れてもいいが、昼までにすじ肉を柔らかくするのは無理だろう。これはメニューを変更するしかないね。まったく予定が狂っちまったよ」
確かにすじ肉はとても硬いのでじっくり煮込んで柔らかくする時間が必要だ。今から急いで煮込んでも昼までに柔らかくするのは不可能だろう。
だが、ネネは一つ策を思いついた。
「ちょっと待ってください。もしかしたら間に合うかもしれません」
「ええ? そりゃできたら助かるけど、本当にいけるのかい?」
「先ほどのサワートマトを使いましょう。今度はサワートマトの酸味を利用して、肉を柔らかくするんです」
「確かに肉は酸味で柔らかくなるけど、間に合うかい?」
「サワートマトの酸味は特殊なので十分間に合うと思います」
ネネとミランダはすぐに準備を開始した。刻んだサワートマトにすじ肉をよくなじませ漬け込みしばらく休ませておく。
「どうだい肉の様子は」
「ちゃんと柔らかくなってます」
フォークで漬け込んだすじ肉をつついてみると、いい具合に柔らかくなっていた。これならブラウンシチューに入れても問題ない。
そこから昼食準備に向けて厨房内はとても忙しくなった。それでも繁忙時のブルーノ店で働いていたことを思えばずっと楽だった。なにしろミランダとは普通に会話ができるので仕事がさくさく進む。
「味見お願いします」
ネネは出来上がったシチューを小皿によそってミランダに渡した。ミランダはそのシチューをよく味わったのち、ぐっと親指を立てる。
(よし、これで準備は万端)
しかし料理人としては客の反応をみるまで気は抜けない。
午前授業終了のベルが鳴ると、学生たちがぞろぞろと食堂へやってきた。学生たちは食券と交換で料理を受け取ると、それぞれテーブルについて食事をしはじめた。
ネネは固唾を飲んで彼らを見守る。するとブラウンシチューを食べた学生たちがざわめきはじめた。
「おい、このシチュー食べたか? すんごい美味いぞ!」
「ほんとね。いつもの料理と全然違うわ」
どうやら反応は上々のようだ。あちこちから感嘆の声が聞こえてくる。さらに中にはこんなことを話している学生もいた。
「きっと今日はいいお肉使ってるのね。うちの屋敷で食べる高級肉と同じくらい柔らかくて美味しいわ」
注文書を見る限りこのすじ肉はかなりお買い得な値段だったが。それは学生たちには秘密にしておくとしよう。
「あんたのブラウンシチュー大人気だねえ」
いつの間にかネネの隣にやってきたミランダがにっこり微笑む。
「食材が無駄にならなくてよかったです」
「前に一緒に働いてた料理人とじゃこうはいかなかったね。あんたが来てくれて嬉しいよ」
そしてネネは、夕食の調理でも昼同様ミランダの期待を裏切らない仕事をぶりをみせ、勤務初日の仕事を無事に終えたのだった。
ネネは食堂を出ると、しかしまっすぐに宿舎へ戻る気分になれなかった。
(帰ってもすぐには寝つけそうにないな)
自覚はなかったが新しい職場で緊張していたのかもしれない。ネネは宿舎には戻らず図書館へ向かうことにした。
ネネはこの学校に就職することが決まってから、ずっと図書館に行ってみたいと思っていた。なにしろこの学校にある図書館はクヌルート帝国で一等大きな図書館らしいのだ。それを利用しない手はないだろう。
「面白い料理の本あるかなあ」
くくと笑みをこぼし、ネネは暗い廊下を足早に進んだ。




