エリートとアツアツイモのシチュー
ペトラは諜報局にある自分の机で仕事をしながら、ネネ・クルタリカのことを考えていた。
昨日はやっとネネ・クルタリカにルスラン・ユトのことを尋ねることができた。だけど有益な情報を聞き出すことはできず、むしろ出自で人を疑うのはどうなのかと彼女に嗜められてしまった。
(あの子ぼんやりしているように見えて、意外と芯のある子なのね)
自分が見て聞いて感じたものを信じている。自分の感覚に自信があるのだ。だから他人に何を言われても揺るがない。そんな彼女と話しているとルスラン・ユトは自分が思っているほど悪人ではないのかもしれないとさえ思えてきた。
(でも私は諜報官。人を疑うのが仕事)
一般人であるネネ・クルタリカと違って、自分の直感など信じてはいけない。ただひたすらに客観的な情報だけを追い求めなくてはならないのだ。
ペトラが自分の両頬を叩いて気を引き締め直していたとき、後輩から声をかけられた。
「あ、いたいたペトラさん。局長がお呼びですよ」
局長から呼び出しとは珍しい。まだ報告できることは何も掴めていないのにいったい何の用だろうか。
ペトラは部下に礼を言うと、緊張した面持ちで局長室へ向かった。
局長室の扉を叩くとすぐに中から返事があった。ペトラはすっと背筋を伸ばし扉を開けて中に入る。
「ペトラ・ペペ、参りました」
「やあ、ペトラ。そこへかけて少し待っていてくれますか」
局長はペトラにソファへ座るようすすめると、棚から茶器を取り出し茶の準備をはじめる。局長は茶は必ず自分で淹れないと気が済まない人だった。だからペトラは茶の用意を手伝うことはせず言われたとおりソファに腰かけ局長が茶を淹れてくれるのを黙って眺める。
局長はもう初老と言える年齢だが、そのすらりとした体躯に上質なローブを身にまとっていると三十代くらいにも見えた。立ち居振る舞いはいかにも紳士的で品があり、もちろん仕事もできる優秀な上司だ。ペトラはそんな局長のことを心から尊敬していた。だからか局長と二人きりになるといつも緊張する。今も部屋が静かなことに耐えきれなくなってきた。
「あの……局長。私にご用とはいったい?」
「まあ、そう焦らずともよいでしょう。君とこうして話をするのもずいぶん久しぶりです。なかなか時間を取ってあげられなくてすまないね」
言いながら局長は湯気の立つティーカップをペトラに差し出した。テーブルの上に置かれたティーカップからふわりと良い香りが立ち上ってくる。
ペトラはそのティーカップを見つめながら言った。
「いえ、そんなとんでもない。局長はお忙しいかたですから。もし私に何かお手伝いできることがあれば何でもおっしゃってください。私は完璧に仕事を全うしてみせます」
「ふふふ、君はほんとに頼もしいですね。こんな部下を持つことができて私は幸運だ」
「私の方こそ、局長の下で働けて幸せです。どんな難しい仕事でもお任せください。必ずや局長のご期待に応えてみせます」
「そう。では、ペトラ。ルスラン・ユトの件から手を引きなさい」
思いがけない言葉にペトラの頭は一瞬真っ白になった。
「え……? それは、どういう……」
「そのままの意味です。ルスラン・ユトの調査を中止しなさい」
「しかしっ、ルスラン・ユトは要注意人物として挙げられていたはずです。なのになぜ手を引かなかければならないのですか!」
「要注意人物だからこそです。下手をすれば、私たち諜報局がつぶされかねない」
「そんな……諜報局がつぶされるなんて、いくらルスラン・ユトでも我々には直接手を出せないはずです。諜報局に手を出せるものがいるとすれば、こうて——」
「そうです。だから表立ってルスラン・ユトを調査することはできないのです。これ以上は言わなくても分かりますね? ペトラ」
局長の顔を見て、ペトラは思わず足がすくんだ。彼の口元には柔らかい笑みが浮かんでいたが、その瞳は視線だけで人を殺せるのではないかと思えるほど鋭くどこまでも暗かった。
返す言葉を失っているペトラに、局長が続ける。
「そうだ、君も最近働き詰めでずいぶん疲れがたまっているでしょう。この辺りで一度、長期休暇を取ってはいかがでしょうか」
「休暇……ですか」
これが何を意味するのか分からないペトラではなかった。急な長期休暇に入って元の現場に戻ってきた者をペトラは知らない。これは事実上の左遷宣告であった。
「ときには休むことも大切ですよ。良い機会だから、しっかり心身を休めなさい」
そこからの記憶はあまりない。ペトラはあいさつもそこそこに局長室を出て、ふらふらと自分の家に向かった。はずだったのだが。
「あれ……? どうしてここに」
気づけば自分の家ではなく、魔法学校に着いていた。最近ずっとこの学校に通っていたから無意識に足が向いてしまったのだろう。
(まったく。どれだけ仕事が身に沁みついてるのよ)
自分でも嫌になる。今さっき局長からもう魔法学校には行くなと言われたのに。
すっかり暗くなった学校に学生の影はなかった。学舎の扉も窓もきっちり閉められもちろん明かりも落とされている。ただ、ある場所だけ、まだ灯りのついているところがあった。食堂だ。
「あの子、まだ働いているのかしら」
ペトラは食堂の窓から中を覗いてみた。すると、厨房でなにやらごそごそしているネネ・クルタリカの姿が見えた。予想通り彼女はまだ仕事をしていたらしい。
ペトラは彼女の姿を窓の外からぼんやり眺めた。こんな夜遅くだというのに、ネネ・クルタリカは辛そうな表情どころか嬉々として仕事に取り組んでいる。
(あんな風に仕事ができるっていいわね)
ペトラはなんだか虚しくなった。ペトラは自分を極限まで追い込むタイプだ。追い込んで追い込んで、ボロボロになるまで仕事をしてやっと仕事をしたと思える。一応はそれに中身も伴っていたから諜報官になれたわけだが、それでもまだペトラは満足できなかった。もっと功績を上げて、局長に、周りの人間に認められなくてはいけない。そうでなくては、エリートでない自分に価値はないと。そうやって自分に鞭を打ち続けここまでやってきた。
なのに、一番認めて欲しかった局長からは仕事を取り上げられてしまった。
ペトラは冷たい壁に寄りかかって、ぼんやり窓の中を見つめていた。すると、ふと中にいた料理人と目が合った。
◆ ◆ ◆
ネネは寮生たちに夕食を提供しおえたのち、今日も一人厨房に残ってメニュー作成に勤しんでいた。以前ノアに美容に悪いから早く帰って寝ろと怒られたことがあるが、思いついたアイデアを早く試したくて結局いつも夜更かししていた。
だから窓の外に人影を発見したとき、最初はノアが呼びに来たのかと思った。しかしよく見てみれば、窓の外にいたのはペトラだった。図書館はとっくに閉まっている時間なのに、なぜ図書館職員のペトラがこんな夜遅くまで残っているのだろう。ネネは不思議に思ってペトラの元へ向かった。
「ペトラさんこんな時間にどうしたんですか? もしかして今まで仕事を?」
「あ……え……まあ、そうね」
ペトラは何だか気まずそうで、そしてものすごく疲れた顔をしていた。正直、図書館の職員がこんな夜遅くまで仕事をしているとは知らなかった。普段見えていないだけでどんな職業にも苦労があるようだ。
「お仕事大変なんですね。あ、ということは晩ご飯もまだだったりします?」
「え? そう言えば、そうだったわね……」
「よかったらご飯食べていきませんか? ちょうど今新しいメニューを考えていたところで」
ネネは言いながらペトラの腕を掴むと半ば強引にペトラを厨房へ引きずっていく。
「ちょ……ちょっと」
ネネはペトラを厨房の中へ連れてくると、適当な椅子に座らせた。
「すぐできますから」
そう言いながら、ネネは両手のひらに収まるくらいの大きさの丸くて硬いパンをまな板の上に置いた。パンの上三分の一を横にをカットし中をくり抜く。そこへ、出来たて熱々のクリームシチューを流し込んだ。そしてそのクリームシチューをスプーンとともにペトラの前に出した。
「アツアツイモのクリームシチューです。塩分に触れると発熱するイモを使って、最後まで熱々のシチューが食べられるようにしてみたんですけど」
とぼんやりしているペトラに声をかけると、彼女はのろのろとスプーンを手に取りゆっくりシチューをすくって口に入れた。半ば放心状態で口をモグモグさせていたペトラだが、急に目を見開いたかと思うと次々スプーンを口に運ぶ。
「そんな急がなくても、まだたくさんありますよ。あと味の感想を頂けるとありがたいんですが」
しかしペトラはネネの声が聞こえていないのか黙ったまま咀嚼を続けていた。これはどう考えても様子がおかしい。この前話したときとはまるで別人だ。
ネネが首を傾げてペトラの顔を覗き込むと、彼女の目から大粒の涙がこぼれ落ちてきた。
ネネはぎょっとして近くにあった布巾を差し出した。
「ペトラさん。何かあったんですか?」
「あ、いや……ごめんなさい。この温かいシチューを頂いていたらなんだかほっとして、気が緩んでしまって」
ペトラは布巾で涙を拭った。そしてぽつりぽつりと語りはじめる。
「私ね、仕事で失敗してしまったの。しかも……上司からは長期休暇を取れと言われてしまったわ。もう、あの職場には戻れないと思う。それでどうしたらいいか分からなくて」
「もう図書館で働けないってことですか?」
「え? ああ違うの。私実は仕事をかけもちしていて、もう一つの方の話ね」
ダブルワークとは恐れいる。ペトラは仕事が好きそうだとは思っていたが二つもやるほどだったとは驚いた。
「ごめんなさいね、いきなり。こんなことあなたに言うべきではないのに……どうしてかしら。あなたの料理って、なんだかすっと心に染みるのよ。あなたは料理をするのがほんとに好きなのね。それが料理に出てるんだわ」
「やっぱり、料理を食べるとその人のことが分かるでしょ?」
「……ほんとね。あなたの言うとおりだったわ」
ペトラは再び涙をぬぐうと、今度はちーんと鼻をかんで言った。
「はぁーあ。私も何か好きなことをしてみようかしら」
「いいですね。ペトラさんは何が好きなんですか?」
「そうねぇ、今までは仕事が好きだと思ってやってきたんだけど、何だかよく分からなくなってしまったわね。でも……本は好きだったかも。最近は法律の本ばかり読んでいたけれど、昔は物語を読むのが好きだったわ」
「私も最近、友達にオススメされた小説を読んでるんですけど、新しい扉開いちゃいました」
「あら、その本私にも貸してもらえるかしら」
「今度友達に頼んでみます」
こうして夜遅くまで語り合っているうち、ペトラは何か決心したようだった。
この数日後、ペトラは正式に図書館職員に転職したらしい。今までは短時間勤務だったが、もう一つの仕事は辞め図書館で正職員として働くことになったのだ。
そんな話を今日も厨房にやって来ていたルスランに話した。
「へえ、あのペトラ・ペペさんがねえ」
「ドクターもペトラさんと面識あったんですか?」
「ああ、うん。物凄く嫌われていたけどね」
とルスランはカラカラ笑った。ペトラに警戒されていたのはルスラン自身も気づいていたようだ。
(まあこの人、確かに一見胡散臭そうには見えるけど)
それでもやはりペトラが言うほど危険な人には見えなかった。
(ペトラさんは何をそんなに気にしていたのかな)
確かにルスランは自分のことをあまり話さないし、過去のことを語ったのも研究棟の部屋に置いてあったあのクマのぬいぐるみのことくらいだ。だからといって根掘り葉掘りプライベートなことを聞き出すのはどうだろうか。話したければあちらから話すだろうし、話さないなら触れてほしくないことなのかもしれない。なら無理に聞きたいとも思わない。
ただ——。
「どうした? そんなにじっと見つめて」
「いえ、なんでもないです」
こんな美しい造形の人間をこの世に生み出した彼の両親は、いったいどんな人たちなのだろう。
くらいは思ったりするネネだった。




