ノアのヘアオイルと歩き栗2
朝、ノアはあくびをしながら宿舎の一階に降りた。一階の居間にはババロアが転がっていたが、ネネの姿はなかった。すでに厨房の方へ行ったのだろう。ネネはいつも早起きで、しかも夜遅くまで厨房に居座ってゴソゴソしている。よくもまあそんなに働くなと思うが、それだけ料理が好きということなのだろう。
(その情熱をもうちっと、あいつ自身にもまわしてくれたらいいんだけどな)
昨日聞いた話では、ネネはこの学校に来るまで家族の世話や仕事に明け暮れなかなか自分自身の手入れまでできなかったようだ。でもせっかく帝都に来たのだ。これからは自分のことにももっと時間を使ってオシャレも楽しんで欲しいと思う。そもそも彼女は顔の造形だって悪くないし肌も綺麗だ。少し手を加えるだけできっと見違えるだろう。昨日もヘアオイルをつけて櫛で髪をとかしてやっただけでずいぶん艶っぽい雰囲気になっていた。
(明るいところで見たらどんな感じだろう)
夜と昼で見た目の雰囲気というのは変わるものだ。昼に見るネネはどんな様子だろう、とウキウキしながら厨房の裏戸を開けると、ネネは椅子に座って珈琲を飲んでいるところだった。そんな彼女の頭上にはちょうど窓から差し込んだ陽光が降り注いて、髪に美しい天使の輪ができている。髪型はいつもと同じでも、やはり少し手入れしただけで普段とは見違えるようだ。
ノアは満足気にほくそ笑むと、ネネに声をかけた。
「おはよう、ネネ。今日の気分はどうだ?」
「うん、まあまあだよ」
ノアは珈琲をカップに入れると、ネネの向かいの椅子に座ってその珈琲をすすりながら再び彼女の髪をじっくり眺めた。
(うん、やっぱり綺麗だぜ)
こうして眺めているだけでもいいが、良い仕事をしたら誰かに見て欲しくなるものだ。せっかくなら他人の評価も聞きたい。今ならマリー・ビッツをこっそり覗いていたネネの気持ちも分かる気がする。
(ミランダさんか学生か、誰でもいいから早く来ねーかな)
とノアが一人そわそわしながら待っていると、思いがけない上客がやってきた。
「ごきげんよう。諸君」
早朝の厨房へやってきたのはルスランだった。相変わらず目も眩むほどに美しい男である。そんな男が厨房へ入ってくるなりさっと表情を引き締めたのを、ノアは見逃さなかった。
ルスランはネネの後頭部を見つめながらつぶやく。
「なんだか君の髪、いつもと違う気がする……」
その言葉を聞いたノアは調理台の影で、よし、と小さく拳を握った。一方ネネはというと、表情を変えることなくカップに口をつけたまま答える。
「気のせいじゃないですか」
その様子に、ノアはふっと微笑んだ。
(ネネのやつ照れてるのか?)
普段料理を褒めるともっとわかりやすく照れるくせに、何を澄ました顔をしているのだろう。
ルスランも同じことを思っているのか、にやにやしながらネネの顔を覗き込む。
「気のせいじゃないな。すごく艶があって、綺麗だよ」
言われたネネは、顔面を覆うほどの角度でカップを傾けていた。もう絶対に中身は入っていまい。
「何で顔を隠してしまうんだ? せっかくだから前からもちゃんと見せて」
隣で聞いているこちらが蕩けてしまいそうな甘い声で囁きながら、ルスランはそっとカップを持っているネネの手を下げた。
ネネは酸っぱいレモンでも食べたような顔をしていた。
「にゃふ! にゃふにゃふ!」
厨房の裏でババロアが鳴いている。
(あ、いっけね)
こんなときに限って餌をやるのを忘れていた。
もう少しネネが褒め殺しされるのを見ていたかったが、ババロアを待たせるのも可哀想だ。
ノアは厨房の裏戸を開けて外へ出た。
◆ ◆ ◆
ババロアの鳴き声が聞こえたかと思うと、ノアが厨房から出て行ってしまった。
ネネもババロアが気にならないわけではなかったが、ルスランに返しておかなければいけないものがあるのを思い出し、厨房の隅に置いてあった布袋を取りに行った。
「これ、ありがとうごさいました」
「ああ、魔眼鏡か。もういいのか?」
「ええ、観たかったものは観れましたから」
「そうか。ビッツ女史の観察はもう終わりか」
「はい……って、え。どうしてそれを……?」
ルスランには鳥を見たいと言って魔眼鏡を借りたはずのに、なぜかマリーを盗み見していたのがバレている。まさかノアが告げ口したとは思えないし、おそらくどこかから見られていたのだろう。ほんとに目ざとい男である。
ルスランはネネの問いかけには答えず、勝手に戸棚からカップを取り珈琲を注ぎながら言った。
「マリーはずいぶん喜んでいたよ。君にも感謝していた。俺や他の先生方に君のことをすごい料理人だと熱っぽく語って聞かせるくらいにね」
「そうですか。彼女が喜んでくれたなら良かったです」
「それにしても君、彼女に『カボチャの馬車に乗せてやる』って言って口説いたんだって? くくっ。ほんとに面白いなあ、君は」
「なっ……、あれは売り言葉に買い言葉で」
今思い返せば、魔法も使えない人間がカボチャの馬車に乗せてやる、なんてハッタリもいいところだ。
魔法を使える者からすれば、それはそれはおかしく聞こえただろう。
「どうせ私は魔法が使えないですよ」
ネネが冗談ぽく口を尖らせると、ルスランは珈琲の入ったカップを置いた。すっと彼の手が伸びてきたかと思えば両手で頭をつかまれ、そのまま頭をわしゃわしゃあっ、とされる。おかげでせっかく整っていた髪はみごとボサボサだ。さっきまで散々、艶がどうのと宣っていたくせにいったい何なんだ、という意を込めてネネがルスランの顔を見上げると、ルスランは静かに言葉を紡いだ。
「魔法が使えなくても、君は他の人にはないものをもってる。俺はそれを分かってる」
ネネは、ルスランの凪いだ海のような瞳からすっと目を逸らした。
ちょうどそのとき、厨房の裏戸を叩く音がした。
「お届け物でーす」
その声に返事をしようとネネが口を開きかけると、ルスランに手で制された。ネネが目を瞬いている間にルスランは立ち上がって裏戸を開け、配達人から手渡された確認書にサインをして荷物を受け取ってしまった。
そして困惑しているネネのもとへ戻ってくると、今しがた受け取った荷物をネネに差し出してくる。
「君への贈り物だ」
開けてごらん、と促されるままネネは荷物を受け取って包みを開ける。
「あっ……」
包みの中身は、大きなガラス瓶に入った『歩き栗』だった。瓶の蓋には、ドミトル商会の紋章が描かれている。
「こ、これ……食べていいんですか?」
「もちろん。ドミトル教授との合同講義ではよくやってくれたし、頼んでいた食堂運営の方も今月ついに黒字になったからね。そのお礼も込めて取り寄せたんだ」
ネネが食堂運営を任されてから食堂の売り上げは順調に伸び、ついに黒字化を達成していた。
「ありがとうございます。では遠慮なく頂きます」
ネネはさっそく瓶の蓋を開けると、中に入っている『歩き栗』を一つ手に取ってみた。その大きな実を包んでいる渋皮はまるでブラウンダイヤモンドのようにつややかな輝きを放っていた。
そんな『歩き栗』に負けず劣らずのキラキラした目をしているネネの様子を見てルスランが隣でクスクス笑っていたが、もうネネの耳には届いていなかった。
ネネはさっそく包丁を手にすると、『歩き栗』の渋皮に切れ目を入れフライパンに移した。薪に火をつけ、フライパンをゆっくりかき回しながら炒る。
そのうち甘く香ばしい匂いが厨房に溢れた。
「ではいただきましょう」
ネネは炒った『歩き栗』を皿に移すと、それを中央の調理台の上に置いた。
憧れのドミトル産『歩き栗』。
ネネは、硬い渋皮をむいてまだ熱々の黄色い実を取り出し、一思いに口に入れる。その瞬間、ホクホクの実が口の中でほろりと砕け、ねっとり濃厚な甘みが口いっぱいに広がった。砂糖など使っていないのに、まるで砂糖漬けにしたような甘さだ。
ネネはうっとり天を仰ぎながら『歩き栗』を味わっているうち、いつの間にか重心が後ろへ移動していた。ルスランがさっと支えてくれなければそのまま椅子から転げ落ちていただろう。
「こらこら、魂がどこかにいってるぞ。戻ってきなさい」
その声にハッとしたネネは、姿勢を正して次の『歩き栗』に手を伸ばした。
気が済むまで『歩き栗』を堪能したネネは、ルスランに頭を下げる。
「大変おいしゅうございました」
ルスランは満足そうにうなずき、『歩き栗』の入っていた食器を持って流しへ向かった。今ではすっかり皿洗いがルスランの仕事として定着していた。
ルスランはいつものごとく皿を洗いながら、背中越しに話しかけてくる。
「そういえば収穫祭のことなんだけど、君も露店を出してみるかい?」
「露店ですか、面白そうですね。あ、でも私、帝都の収穫祭って見たことがないんですけど、どんな感じなんですか?」
「君の故郷とそう変わらないんじゃないかな。カボチャのランタンを飾ったり、仮装して篝火を焚いたり」
「カボチャでランタンを作るんですか。うちの田舎ではカブで作ってましたよ」
そっちが伝統的なやり方だな、と言いながらルスランは洗いあがった食器を拭いて棚に戻した。
「じゃあ出店するということで申請を出しておくよ。詳細は申請が通ってからまた話そう」
ネネがうなずくと、ルスランは裏口へ向かった。裏戸を押し開けたルスランは、しかし、すぐに出て行かない。戸の取っ手に手をかけたまま、ネネを振り返る。
「収穫祭の日は髪を下ろしてるところが見たいな」
そう言ったルスランは、女夢魔をも昏倒させるであろう甘い微笑みを残し出て行った。
ぱたん、と裏戸が閉まる。
ネネは自分の髪をつまんで、ふんふんふんっと匂いをかいだ。
「このヘアオイル媚薬でも入ってたのかな」




