ノアのヘアオイルと歩き栗1
日曜の昼下がり。ネネはノアと一緒に、校舎の最上階の窓から中庭を覗いていた。
「おまえ、そんな高価な物どこで手に入れたんだよ」
「どこだっていいでしょ」
ネネが今、自分の両目に当てているのは魔眼鏡である。魔眼鏡とは遠くのものを見るための魔法道具だ。ネネはそれを使って中庭にいる、ある人物の様子を観察していた。
「おお? おぉぉおほほほ!」
ネネは魔眼鏡を覗いたまま、片手でポケットをゴソゴソあさり取り出した干し肉を嚙み千切る。
「ほらほら! ノア、見てよ。マリーったら、また男の人に声をかけられてる」
「もう、わぁかったから。そんなでかい声出すなって」
「みんなほっとけないよね。綺麗になったもんね。マリー」
マリーの赤く腫れあがっていた肌は今や、つるりとむき卵のように綺麗になっており、体形もほどよく肉がついてなかなかに魅力的な体つきになっていた。
「マリーの変貌ぶりには確かにおれも驚いた。正直、最初に厨房へ来たときとは見違えて綺麗になってる。食べ物の力ってすごいんだな。まるで魔法だよ」
「ぐふふ。私、実はすんごい魔女だったりして」
相変わらず干し肉を噛みちぎりながらしたり顔で微笑むネネに、ノアは抑揚のない声で応える。
「おーおーそうだな。ネネはすごい魔女だな。だからもう宿舎に戻ろうぜ」
「ええー、なんでもうちょっとだけ」
「ダメだってば。魔眼鏡で他人を覗いてるとこなんか見られたら通報されるぞ」
「…………うぅ、分かった。あとは直接マリーに様子を聞くことにする」
「ああ、そうしてくれ。同僚が覗きで捕まるなんて悲しい思いはおれもしたくない」
ネネは半ばノアに無理やり連れられ、自分たちの宿舎へと戻った。
ネネとノアは宿舎に戻ると、早めの夕食をすませ居間でくつろいでいた。ネネはソファに腰掛け、ババロアの背中を撫でながらまたマリーの話をはじめる。するとノアが急に立ち上がり、ネネの腕を引っ張っぱって言った。
「マリーの話はもう終わり。今度はおまえの番だ」
え、という間もなく、ネネはノアに引きずられていく。
「他人のこともいいが、おまえはおまえ自身のことももっと手入れしてやれ」
そう言われやってきたのは彼の部屋の前。ノアは扉の取っ手に手をかけると、そのままネネをふり返った。
「そういやおれの部屋、ちょっと驚くかもしれないけど。気にしないでくれるか」
ノアはなにやら神妙な面持ちである。
ネネはごくりと唾を飲み込んだ。部屋の扉が開かれ、ネネはノアに続いて恐る恐る部屋の中へ入る。
すると、眩いばかりに耀く金髪の美丈夫が、壁にたくさん貼り付いていた。
「ノア、これって……」
「俺の憧れ。フランソワ・フランボワーズだ」
言いながらノアは、両手を広げて天を仰ぐ。その周りの壁では、大勢のフランソワ・フランボワーズがそれぞれ違ったポーズをとっている。
確か有名な吟遊詩人だったと記憶しているが、一度にこんなたくさんのフランソワを見るのはさすがにはじめてだ。
「えっと、これは……すごいね」
「おれもいつかフランソワみたいに、美ししくて歌もダンスも一流の男になるんだ」
部屋にはフランソワの衣装を模した服や、化粧品の数々が所狭しと置いてあった。以前からノアは美意識が高いなと思うことはあったが、この部屋の美容グッズの多さは圧巻ともいえた。美容というものにこれまで縁のなかったネネにしてみればいったい何に使うのかよく分からないものもたくさんあるが、どのアイテムも華やかで可愛らしくて見ているだけでも楽しい。
ネネがきょろきょろ部屋の中を見回していると、ある物に違和感を覚えた。
(あれ? ノアの部屋に本棚?)
「ノアって本は読まないんじゃなかったっけ」
「ん? ああ、こういう恋愛小説は別だ。見てみろよ、挿絵がいっぱいあって読みやすいぞ」
ネネは本を一冊手に取って、中をぱらぱらめくってみた。確かに挿絵が多く、絵を見ているだけで面白そうな話だというのが分かる。そしてなかには、リリとララにはまだ見せられないようなものも。あった。
「ネネもたまにはこういうの読んでみろよ。小難しい本ばっか読んでないでさ」
ネネはふむ、と顎を指で撫でる。
確かにたまには普段読まない本を読んで見聞を広めるのも大事だ。
「……じゃあ、悪っぽい女の子が出てくる話とか、ある?」
「もちろん。おまえなかなか良い趣味してるじゃねえか」
ネネは『モミオとユリエット——悪役令嬢なのになぜか公爵様に懐かれてます——』と書かれた本を渡されると、そのまま鏡台の前に連れて行かれ椅子に座らされた。そして編んでいた髪をほどかれる。
鏡に写るノアは櫛を手に取っていた。どうやら髪を梳いてくれるらしいが。
「くっ、櫛が通らねえ。おい、ネネ。もっとこまめに手入れしろよ。髪が泣いてるぞ」
「髪に目はないよ」
「そういうこと言ってんじゃねえ」
言いながらノアは、引き出しから洒落た小瓶を取りだした。中の液体を掌に出してネネの髪にもみこんでいく。ふわっと、良い香りがネネを包み込んだ。
「この香りは、ジャスミン?」
「ああ。このヘアオイルはおれが魔法で調合したんだ」
ノアの髪油の効果は絶大で、ネネの髪にするすると櫛が通るようになった。ノアの手つきもずいぶん慣れた様子で心地よい。こういうことも小姓時代に練習したのだろうか。
「ノアってさ、なんで小姓になったの?」
けっこう粗野な感じなのに、と付け加えると、コイン禿作ってやろうか、と応戦された。ははっ、とネネは笑う。
「まあ、あれだ。おれ戦災孤児なんだ。小姓はさ、孤児とか捕虜とかそういう人間が選ばれるんだよ。一種の慈善事業? みたいなもんだな」
小姓になる者というとてっきりいいところの家から選ばれるものだと思っていたネネにとって、それは意外な事実だった。
「でも小姓っていったらエリート候補生だろ? おれ魔力の方は基準クリアしてたから選んでもらえたんだけど、だんだん勉強がついていけなくなってさ。エリート候補から外されたってわけ。ま、そのおかげで、こうやっておまえの髪を梳いてやれるわけだけど」
「小姓に戻りたいと思うことある?」
「ないな。もう勉強すんのやだし。それに料理もやってみたら案外面白かったしな」
ネネは借りた本に目を落としたまま、そっか、と返事をした。
「ネネはもし魔法が使えたら魔法の勉強したかったか?」
「昔はそう思ったこともあったかも。でも今は料理人の仕事が楽しいから」
子どものときは幼いながらになぜ自分だけ魔法が使えないのかと悩んだこともあった。けれど、今となってはこうして料理人として働けて不満はない。
「おまえ料理好きだもんな。けどこの学校来る前はどうしてたんだ?」
ネネは港町での暮らしや、ルスランと出逢った経緯をノアに話した。
「そっか。弟妹のこと心配だろ」
「ちょっとね。でもうちの弟、しっかりしてるから」
そもそも実家にいたときだって弟妹に会えるのは日曜日だけだった。仕事がある日は彼らが起きる前に家を出て彼らが眠った後に帰ってきていたので、日曜以外はほとんど顔を合わせることがなかったのである。
だから家のことは弟のヘーゼルがやってくれていた。
両親不在の中、そうやって姉弟四人やってきた。
「おまえも苦労してきたんだな。じゃあさ、これからは今までできなかったこといろいろやろうぜ」
「できなかったこと?」
「たとえば可愛い服着たり、化粧してみたりとかさ。楽しいぞ」
「でも私そういうのやったことないから全然分かんない」
「ならおれが教えてやるよ。おまえは料理、おれは美容。お互い得意なものを教え合おうぜ」
「……じゃあ、まずは何からはじめたらいい?」
「そうだな。とりあえずこのヘアオイルやるから、毎日こうしてヘアケアする。美容は継続が大事だからな」
そう言ってノアはヘアオイルの小瓶を一つ、プレゼントしてくれた。




