妖精ビネガー2
厨房の片隅で、ネネはマリーと向かい合って座っていた。組んだ指の上に顎を置くと、ぐっと目に力を入れマリーを見つめる。
二人のただならぬ雰囲気を察してか、離れたところからノアとミランダが固唾をのんで様子をうかがっていた。
「いい? マリー。私たちの目標は、食事を変えることであなたを美しいレディへと変貌させることだよ」
「え、ええ」
マリーは不安そうな表情をしているが、ネネはかまうことなく本題に入る。まずはマリーの食生活について確認だ。普段どんなものを食べていて、何を食べていないかを聞き出す。
これには長い時間がかかった。しかし問題点はよくわかった。彼女は普段、肉や野菜を全くと言っていいほど食べていないらしい。
(なるほどそういうことか)
マリーは寮生なので三食食堂の料理を食べていたのだが、太ると思って肉は食べず、野菜は好みでないから食べず、ということをしていたらしい。
当然それではお腹がすくので、パウンドケーキやクッキーなどを買ってきて腹を満たしていたという。
なぜ食堂の食事をとっていてここまで肌荒れし変な痩せ方をしているのかネネは不思議に思っていたのだが、話を聞いて納得した。
そして、やるべきことも決まった。
「ではさっそくはじめよう」
ネネは立ち上がった。
外の食糧庫から必要な食材を取ってきて、厨房の調理台にどさっと置く。その食材を見てマリーが眉をひそめた。
「野菜ばっかりだわ」
「そう。野菜は、お腹の中にいる妖精のエサになるんだよ。まずは妖精を元気にしてやらないと」
「ちょ、え? お腹に妖精がいるってどういうこと!?」
マリーのに目には怪訝を通り越して、恐怖の色が映っていた。
「ああ。うちの家では人間のお腹の中に妖精が棲んでる。って言い伝えがあるんだよ。その妖精たちの元気がなくなると、肌が荒れるし体調も悪くなる」
「そんなのはじめて聞いたわ……その妖精は一体、どんな姿なの?」
「え……姿? それは、まあ、知らないけど」
ネネがあっさり言ってのけると、マリーは「なんちゅう適当な」とでも言いたげな表情をした。
しかしネネとて言い伝えで妖精の話を聞いているだけで、自分で直接妖精の姿を見たことはないのだ。
ただ言えるのは、それが人間の食べるものによって機嫌を変えるということ。
そしてそれが機嫌を損ねると、人間の体に良からぬことが起きるということだ。
「そっか。よく分からないけど大事なのね、お腹の妖精。でも……私、そんなにたくさん野菜を食べる自信ないわ」
「大丈夫。食べられるよ」
「何で言い切れるの」
「食べたくなるように、魔法を使うから」
にしし、と微笑むとネネはすちゃっと包丁をかまえる。子気味良い音を立て、トマト、玉ねぎ、キュウリを刻み、アルコスオレンジも皮を剥いてサイコロ状にカット。それらを鼻歌混じりでボウルに入れ、オリーブ油、塩、蜂蜜、そして『ピンク色の液体』を回しかける。最後にバジルとミントを手でちぎって振りかけたら完成だ。
「これは何? サラダなのかしら?」
「うん『小悪魔サラダ』だよ」
マリーは「なんといいうことでしょう」と言わんばかりに目を見開き口を押えた。ほんとに、ころころ表情が変わる。面白い娘である。
「ま、とにかく食べてみて。食べても呪われることはないから」
マリーは恐る恐るスプーンで『小悪魔サラダ』をすくって口に入れる。ゆっくりした咀嚼音は、しかし次第に速くなっていった。マリーの目がキラリと輝く。
「一体何なのこれは。甘酸っぱくて、こんなの……」
言いながらもマリーの手はとまらない。
呪われることはないと言ったが、それは嘘だったかもしれない。マリーは悪魔に魅入られたように、サラダに夢中になっていた。
さて、野菜嫌いのマリーをすっかり虜にしてしまったこの魔法。その正体は先ほど使ったピンク色の液体、『妖精ビネガー』だ。りんごと砂糖を使い妖精を呼び寄せ、瓶の中で培養して作る。
お腹の妖精たちが元気をなくしているときは、この妖精ビネガーを食べたり飲んだりして妖精を補給してやるのだ。
「この中に妖精がいるなんて信じられないけど、とにかくすごく美味しいわ」
マリーはあっという間に『小悪魔サラダ』を食べてしまった。
(よしよし)
これなら何とかなりそうだ。マリーの肌を見る限り、マリーの腹にいる妖精はかなり元気をなくしていると推測される。しばらくマリーには通常メニューより多めの野菜を食べてもらうつもりだ。
「あとは、肉や魚もちゃんと食べること」
「どうして? そんなことしたら太ってしまうわ」
「逆だよ。肉や魚をちゃんと食べないから、いつまでも食欲が抑えられなくて食べすぎちゃうんだよ」
人間の体は必要な栄養が満たされないと、その栄養が満たされるまで食べものを探し回るようにできている。これはたとえお腹が一杯でも関係ない。不足している栄養がある限り、食欲は収まらないのだ。
逆に考えれば、必要な栄養を採っていれば異常な食欲は湧きおこらないということである。
「毎食、手のひらくらいの大きさの肉か魚をちゃんと食べてね」
こうしてマリーの食事改善がはじまったのだった。
マリーが食事改善をはじめてから、ケーキやクッキーなどそれまで大量に食べていた間食の量は自然と減ってきていた。顔にあった赤いブツブツも随分減っている。
(そろそろ普通のメニューを食べてもらうので良さそうかな)
そんなことを考えながら、ネネはりんごを切っていた。ザクザク一口大にカットして、皮のまま煮沸消毒した瓶に入れていく。上から砂糖と水を入れて、瓶の口を布でおおって紐でとめた。
新しい妖精ビネガーの仕込みである。
妖精はりんごの皮に宿るので、こうやって皮ごと瓶に入れておけば、りんごを酢に変えてくれる。ただし妖精の機嫌を損ねないようにいくつか注意する点がある。
瓶を煮沸消毒するのもその一つだ。妖精はキレイ好きなので、りんごを入れる瓶はキレイにしておかないといけない。さらに瓶のふたに布を使うのも、りんごに宿った妖精がちゃんと呼吸できるようにする配慮。空気の通らないふたで瓶を閉じると、妖精が怒って瓶を割ってしまうことがあるから気をつけないといけない。
妖精というのは非常に繊細で怒りっぽい奴なのである。
ただその分、仕事は一流といえる。
ネネは以前作っておいた妖精ビネガーの瓶を取り出した。蓋を開けて長いスプーンで中身をかき混ぜ新鮮な空気を妖精に届ける。
その際、ふわっといい香りがネネの鼻をくすぐった。
りんごの爽やかな香りに混じるこの香りはしかし、まだ「酢」の香りではない――。
「あんまり吸うとくらくらするね」
妖精はその種類によっていろんなおいしいものを作ってくれるが、りんごの皮についている妖精が作るのは酢だけではない。実はりんごを酢に変える過程で、酒もつくってしまうのだ。つまり、りんごは一度「酒」になり、さらにその「酒」が「酢」へと変貌を遂げる。
このことは世界中の言葉にも表れていて、西で使われるビネガー、ビネイグルという言葉は「ワイン」と「すっぱい」がくっついた言葉であるし、東では「酢」と「酒」の文字に共通した構造がある。
酢は何千年も昔からあると言われるだけあって、言葉にもその生成過程が現れているというのは面白いなあ、とネネは昔、父の本を読んで思ったものだった。
「うん。良い感じ」
ネネは妖精ビネガーをかき混ぜる手をとめ、再び布で瓶を蓋した。
妖精ビネガーの仕込みも、マリーの食事改善も、順調に進んでいる。
そう思われた矢先。
問題が起きた。
「私、もうやめるわ」
突然マリーが食事改善を中止したいと言い出した。
「何でやめたいの?」
「何でもよ」
言われてネネは、ふむと腕を組む。
実はこの三日間、学校の講義は休みだった。マリーは実家に帰りたいというので、マリー用のレシピ帖を持って帰らせたのだが。ひょっとすると。
「家でレシピ以外のものを食べちゃったの?」
マリーは目を合わせようとしない。図星のようだ。
ネネがじっとマリーを見つめていると、マリーの目から涙が溢れてきた。
「やっぱり私、ダメなのよ。こういうのいつも続けられないの。こんな私が、綺麗になる資格なんてないわ」
食事改善中に少々間食をしてしまったからといって、泣くほどのことではないだろう。
しかしおそらく彼女はずっとそのことを、食べたい欲求を抑えられない自分のことを、責めてきたのだ。自制心のない意志の弱い人間だと。そして苦しくなってまた、必要以上に食べものを貪る。そうなればもう自責と過食の輪の中をぐるぐる巡るだけ。食はもはや喜びでも楽しみでもなく、自分を虐待する道具に成り下がる。
(だけどそれは)
意志の弱さが原因ではないのだ。
過食になる最初のきっかけは、心ではなく体の方にある。
ネネには一つ思い当たることがあった。
「肉や魚、ちゃんと食べてた?」
「……う、うん……。いや、うそ。あんまり。食べてなかった」
マリーは小さな声で答えた。
「どうして食べなかったの?」
「だって肌も綺麗になってきてたし、もっと頑張ろうと思ったのよ。肉を我慢したらもっと早く、綺麗になれると思ったの」
マリーが間食に手を出してしまったのは、おそらくこれが原因だ。
人間の体はそもそも食欲を我慢するようにできていない。
食べることは、生きること。
本来生きるのに必要な栄養素まで断たれてしまったマリーの体は、必死に食べたい、生きたいと叫んでいたのだ。 なのにその声を、食べたい欲求を抑え込もうとするなんて、それは生きることを拒むのと一緒だ。
「そんなの苦しいに決まってるよ。いいんだよ肉も魚も食べて。大丈夫。お腹いっぱい食べても、あなたは綺麗になれるから」
ぐずっていたマリーは、今や大声でわんわん泣いていた。まるでお腹をすかせた赤ん坊である。
「そんなに泣いたら干からびちゃうよ。ほら、そこ座って」
ネネは食糧庫に行くと、熟成した妖精ビネガーの瓶に、それから鶏肉や野菜を腕一杯に抱え、マリーの待つ厨房へと戻った。




