妖精ビネガー1
ネネが終業後の厨房で新メニューの開発に勤しんでいると、いつものごとくルスランが夕食を食べにやってきた。しかし、何があったのかいつもの無駄な元気の良さがまったくみられない。
「どうしたんですか。壁に投げつけられた蛙みたいな顔になってますよ」
「…………それは、びっくりして憔悴した顔ってこと?」
「そうそう、そんな感じです」
「ならその通りだよ」
答える声に覇気がない。こんなルスランを見るのははじめてだ。体調でも悪いのだろうかと思いながらナトゥ・カリーを出した途端、ルスランは勢いよくそれかきこんだ。
(食欲があるなら)
心配する必要はないかもしれない。ルスランはナトゥ・カリーをたいらげると少し元気がもどったらしく、流しの前に行って猛烈な勢いで皿を洗いはじめた。今度は元気が出すぎたのか、どこかやけくそ感も漂っている。
忙しい人だな、とネネが茶をすすりながらその後ろ姿を眺めていると、彼が背を向けたまま言った。
「君、パンをくわえながら走ったことあるかい?」
「は、え?」
藪から棒に何の話だろうか。
「私を何だと思ってるんですか。いくら田舎育ちでも食事は座って食べますよ」
「そうだよな。これからも絶対食べ物をくわえて走らないように。どんなに急いでいても、だ」
「はあ」
ルスランは皿を洗い終わると「じゃ帰る」と裏口から飛び出していった。
何だったのだろう。
首をかしげるネネであったが、翌日、彼女はその理由を身をもって知ることとなった。
学校の廊下を歩いていたときである。曲がり角の向こうから急に誰かが飛び出してきた。
あ、と思った瞬間、目に入ったのは、コッペパンをくわえた女学生。
よけきれず盛大にその学生とぶつかる。そのときネネは相手の女学生を抱えるようにして倒れ込んだので、ちょうどネネが女学生の下敷きになる格好となった。
(あっぶないなあ、もう)
一瞬この女学生がわざと飛び込んできたように見えたのは気のせいだろうか。
「やっだ、ごめんなさい!」
女学生は妙に高い声でそう言いながら、むくりと起き上がった。そしてネネの顔を見た途端、その肌荒れして赤く腫れあがった顔を歪めた。
「なぁんだ。女の子じゃない。あーあ、痛い思いして損した」
さっきより随分と低い声にネネが面食らっているうちに、女学生は立ち上がってそそくさと行ってしまった。
(おいおい)
人にぶつかっておいてあの態度。初対面の時のノアよりひどい。
「世も末じゃ」
と呟きながらネネが起き上がろうとすると、すっと誰かの手が伸びてきた。
「大丈夫?」
見上げると、可憐な女学生が首を傾げこちらを見ていた。ネネは彼女の手に引っ張り起こされる。
「ケガはない?」
そう尋ねられ、ネネは自分の身なりを確認する。
「あ、はい。どこも破れてないみたい。よかった」
「自分の体より服の心配してるの?」
可憐な女学生はクスクス笑った。まさに花が咲いたような笑顔である。
「でもほんと、ごめんなさいね」
「なぜあなたが謝るんですか。あなたは関係ないでしょう?」
「ええ。でも私、あの娘、マリー・ビッツのルームメイトなのよ。マリー最近ちょっと辛いことがあったから、大目に見てやってくれないかしら」
自分が辛いからといって他人に何をしてもいいわけではないだろう。でも何があったのかは少し気になる。
「辛いことって何があったんですか?」
ネネの問いかけに可憐な女学生は顔を曇らせた。
「実は彼女、婚約を破棄されたの。しかも初めての顔合わせでマリーの顔を見た婚約者が、見た目が受け入れられないって、その場で婚約破棄したのよ。そんなこと言われた相手がどんな気持ちになるか、男って想像もしないのね」
可憐な女学生の声は落ち着いていたがやんわり棘を含んでいた。
まあ確かにその男の行動は非常識ではある。男と一括りにするのはどうかと思うが、赤の他人であるネネが聞いてもその男に怒りが湧く。
「だけど婚約破棄されたからって、どうしてパンをくわえて走ることに?」
「ああ、それはね。この前受けた占い学の講義のせいなのよ」
彼女の話では、先日行われた占い学の講義で『運命の相手に出会える魔法』というものを習ったらしい。それは、まず毎日食べている食べ物に魔法をかけ、その食べ物をくわえて走ることで、運命の相手に出会えるというものだそうだ。
「私は占い学で習う魔法ってあまり実用性はないと思ってるんだけど、マリーはすっかり信じてしまっているの。もう私が何を言っても聞く耳を持ってくれないのよ」
可憐な女学生は悲しそうに言った。きっとこの可憐な女学生は先ほどのマリー・ビッツのことをとても心配しているのだろう。
優しい人なんだな、と他人事のような感想を抱いていたネネだが、このあとさらなる事件に巻き込まれるのだった。
数日後、ネネが中庭のベンチで休憩していると、どんと何かがぶつかる音が聞こえてきた。ネネがそろりとふり返ると、どこかで見たような光景が広がっていた。
床に尻もちをついている二人の学生。男子学生と、もう一人はあのマリー・ビッツだ。
そして案の定、マリーの傍らには大きなバケットが転がっている。
「あぁん、ごめんなさい」
「ごめんなさいだと? わざとぶつかってきておいて、どういうつもりだ」
男子学生はそう言って、マリーが伸ばしかけていた手を振り払らい、代わりに友人と思しき男の手をとった。
二人の男は、マリーに蔑みの目を向ける。
「この娘、ビッツ家の者じゃないか? ほら、トーマスが婚約破棄したっていう」
「はっ。なるほどな。こんな女、僕がトーマスでも願い下げだ」
男子学生はそう言い捨てると、地べたに座り込んだままのマリーを置いて行ってしまった。置いて行かれたマリーはというと、うつむいたままスカートの裾を握りしめている。そして、ふと顔をあげたマリーと目が合ってしまった。
「なによ。高みの見物ってわけ?」
ネネが黙っていると、マリーはネネを睨みつけ言った。
「あなただって人を見下せる立場じゃないでしょ。聞いたわよ。あなた魔法が使えない無能者なんでしょ」
「……はあ、そうですね」
ネネはあまり関わりたくなかったので適当に返事をして済ませた。がそれが気に入らなかったらしく、マリーはその赤ら顔をさらに真っ赤にして言った。
「なによ自分は関係ないみたいな顔して。私がこんな醜くなったは、きっとあなたの作った食事のせいだわ。あなた、魔法が使える私たちがうらやましくてみんなの食事に呪いをかけてるんでしょ!」
さすがのネネもこれにはイラっときた。
八つ当たりもいいところである。
ネネはもう返事をするのもアホらしくなって、黙ったままベンチから立ち上がり去ろうとした。すると後ろからすすり泣く声が聞こえてくる。
「無視するの? あなたのせいでこんなことになったのに……。私、もう嫌。こんな体。消えてしまいたい」
放っておこう。ネネはそう思った。彼女がなんと言おうと自分には関係のないことだ。
と歩き出したところ、石ころにつまづいた。
(なっ?)
足下に目を向けてみれば、後ろから石ころが飛んできている。
ふり返るとマリーがこちらに向かって石を投げていた。
(そこまでするか)
悪態だけなら無視してすまそうと思ったが物理攻撃までしかけてくるならこちらにも考えがある。
ネネは猛烈な勢いで駆けだしマリーの元へ一直線に向かった。その挙動はマリーの想像を上回っていたらしい。マリーは恐怖に目を見開き逃げようとする。が遅い。
彼女が立ちあがるより早く、ネネがマリーの胸ぐらをひっつかんだ。
マリーは大きな声で叫ぶ。
「な、なにするのよ! このっ、無能者のくせに! 離してっ」
マリーは両手をばたばたしてネネを振り払おうとする。しかしネネは胸ぐらを掴んだ手に力を入れたまま、静かに言った。
「そんなに辛いなら、私があなたをカボチャの馬車に乗せてやる」
その言葉に、暴れていたマリーは一転、ポカンと口を開いてネネを見つめた。
◇ ◇ ◇
「というわけで、私はしばらく忙しくなりそうです」
ネネは学校の医務室にいるルスランのもとへ来ていた。
「マリー・ビッツの食生活を改善したい、か。うん。ぜひ気のすむまでやってみるといい」
ネネは自分の料理のせいで醜くなったなどという、とんでもなく失礼な勘違いをしているあのマリー・ビッツに、ぎゃふんと言わせてやりたかった。そのために自分の作った食事で、彼女が満足する体に変えてやろうと決意したのだ。
「俺もしばらく忙しくなりそうだよ。占い学のせいで患者がひっきりなしだ」
この医務室に入って来るとき、表に学生が何人か待っていた。全員マリー・ビッツと同じ衝突事故を起こし負傷したらしい。
魔法の使えないネネでも、占い学の講義で教わったという魔法が馬鹿げたインチキ魔法だということはよく分かった。
ネネは医務室を出ると、指をポキポキ鳴らしながらマリー・ビッツのもとへ向かった。




