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MISA[再掲]  作者: null
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第3章 真正なる意思

人口政策委員会本部・第1会議室。

国会議事堂とは異なり、その建物には傍聴席も記者席も存在しない。白い壁面と黒い床が幾何学的に連なるだけの空間は、感情を排除した計算にこそ価値がある、という思想を体現するように設計されたに思える。


そして、巨大な円形会議室の中央には全国中継用の立体映像装置が設置されている。

本日の議題は、すでに全国へ公開されていた。

「育成管理対象である胚1万2千体に関する最終処理方針」

水原美沙は、その表示を見つめたまま立ち尽くしていた。

昨夜までなら、この文字列の意味を理解できなかっただろう。

しかし今は違う。

「最終処理」とは、育成停止。

つまり、1万2千体すべてを誕生させないことを意味していた。

「止めなければ……」

震える声が漏れる。


受付端末へ近づくと、機械音声が応答した。

「本委員会は登録委員のみ入室可能です」

「私は水原美沙です」

「生体認証を開始します」

淡い光が水原の顔をなぞる。

数秒後、無機質な電子音が響いた。

「認証完了。政治的議決権なし」

水原は唇を噛んだ。

「私は元委員です」

「確認しました」

「発言させてください」

「発言権限はありません」

表示は変わらない。

そのとき、水原の背後から声がした。

「ちょっとよろしいですか」

振り返ると、神崎が立っていた。

「館長……」

「本日は全国中継です。制度への信頼を示すため、元委員の同席は認められています」

神崎は管理端末を操作した。

扉がゆっくりと開いた。


議場の内部は、想像していたものとはまるで違っていた。

長い円卓を囲む委員たち。

しかし席に座るのは、生身の人間だけではない。

等身大ホログラム。

半透明の立体映像。

若い姿のまま微動だにしない政治家たち。

生者と電子公職者が同じ机を囲み、何の違和感もなく資料へ目を通している。


水原の視線は、その一人で止まった。

MISA。

20代の自分が、静かに座っている。

画面越しではない。

本当に、そこに存在しているかのようだった。


委員長が開会を宣言する。

「人口政策委員会、第3481回定例会議を開始します。」

議題が投影される。

議案第1号:育成管理対象である胚1万2千体に関する最終処理方針について

委員長が続けた。

「本議案は長期人口計画第七四期計画の最終段階となります。」

水原は拳を握りしめた。

最終段階。

つまり、付録に書かれていた計画は、数十年をかけて現実になったのだ。

「理由を説明します」

委員長の声が響く。

「現行人口構成において、生殖能力維持に必要な女性人口は長期目標値へ到達しました。追加育成は国家需要を超過するため、育成停止を提案します」

静かだった。

誰一人として命について語らない。

語られるのは需要。

効率。

数値。

計画。


水原は耐えきれず立ち上がった。

「待ってください!」

議場の視線が一斉に集まる。

「私は発言を求めます!」

委員長は資料から顔を上げた。

「傍聴人は発言できません」

「それでも聞いてください!」

警備員が近づいてくる。

だが水原は退かなかった。

「私は、この制度を作った一人です!」

議場が静まり返る。

全国中継用カメラが、水原を映し出す。

「この計画書には、私の署名があります」

誰も止めない。

委員長は黙っている。警備員さえ動かなかった。

水原は震える手で、予算書のコピーを掲げた。

「私は、妊娠出産の負担をなくしたかった」

涙をこらえながら続ける。

「産む苦しみを終わらせたかった。それは今でも間違いだったとは思いません」

議場は静まり返っている。

「でも私は、不穏な言葉に気づいていました」

あの日の会議。

あの日のメール。

藤堂の笑顔。

すべてが脳裏によみがえる。

「『人口構成の最適化』、『需要に応じた配分』……私は意味を尋ねようとしました。でも聞かなかった。制度を完成させることを優先したからです」

声が震える。

「私は騙されただけではありません」

その一言を口にした瞬間、自分自身を裁くような痛みが胸を貫いた。

「私はこの国家能力を作ることへ賛成しました」


沈黙。

重苦しい空気が議場を覆う。

そして、円卓の一角で誰かが立ち上がった。

生身の委員ではない。

若き日の水原――MISAだった。

彼女は穏やかな微笑みを浮かべたまま、水原へ静かに視線を向ける。

「あなたの告白を、私は否定しません」

その一言に、水原はゆっくりと顔を上げた。

MISAの表情には勝ち誇った色も、怒りも見えない。

ただ、かつて理想を語っていた頃の水原美沙、そのままの穏やかな眼差しだった。

「もう一度言います。あなたの告白を、私は否定しません」

全国中継の映像が、MISAへ切り替わる。

「あなたは今、自らの署名と沈黙の責任を認めました。それは事実です」

水原は何も答えられなかった。

「ですが」

MISAは一歩前へ出る。

「責任を認めることと、政策を撤回することは同じではありません」

議場中央のスクリーンへ、一つの映像が投影された。

若き日の水原が、国会演説に立っている。

水原自身も忘れかけていた映像だった。

演説の中で、若い彼女は力強く語る。


『個人の後悔で、次世代の権利を左右してはなりません』


議場は静まり返っていた。

映像の中の水原は続ける。


『制度とは、私たち一人一人の感情より長く生きるものです。未来を生きる世代は、現在を生きる私たちの迷いによって左右されてはならないのです』


映像が終わる。

MISAは穏やかに水原を見る。

「これは、あなた自身の言葉です」

「……」

「私は、その思想を現在も保持しています」

水原は唇を震わせた。

「私は……間違っていたんです……」

「そうかもしれません。」

MISAは即座に否定しなかった。

「しかし、その判断を下しているのは現在のあなたです。」

静かな声が議場へ響く。

「私は、あなたが、あなたの人生のなかで積み重ねた演説、投票、答弁、会議、電子メール、政策立案、そのすべてから生成された政治意思です。」

MISAは水原へ向かって一礼する。

「あなたは変質した水原美沙です」

「そして私は、純粋な水原美沙です」

その言葉に、生身の委員たちも電子公職者たちも静かに耳を傾けていた。


委員長が静かに口を開く。

「本委員会は、本件について制度上の確認を行います」

議場中央へ条文が表示される。


『政治的人格の真正性について重大な争いが生じた場合、国民投票によって真正な政治意思を確認することができる』


委員長は水原とMISAを交互に見た。

「国立人口学資料館職員の水原美沙さん、電子公職者のMISAさん。両者とも異議はありますか?」

水原は迷わなかった。

「ありません」

MISAも静かにうなずく。


その瞬間、全国中継は特別番組へ切り替わった。国民の所有するすべての端末を通して、国民投票の公示が即座になされた。

画面には二つの選択肢だけが表示される。

国立人口学資料館職員・水原美沙

電子公職者・MISA

投票期間は288時間。

水原美沙はそのあいだ、祈るようにして結果を待った。


そして──運命の時。289時間後。水原美沙と人口政策委員たちは前と同じ場所、第1会議室に集まっている。

委員長の前に投票結果が表示される。

国立人口学資料館職員・水原美沙 9.8%

電子公職者・MISA 90.2%

水原は目を閉じた。

予想していなかったわけではない。

それでも、その数字はあまりにも重かった。

委員長が宣言する。

「国民投票の結果、電子公職者MISAを、水原美沙の真正な政治意思として確認します」

続いて第二の議決が行われる。

「議案第1号、管理対象の胚1万2千体育成停止案について採決します」

円卓に灯る賛否表示。

緑色の承認灯が次々と点灯していく。

最後にMISAが承認へ触れた。

可決。

電子音だけが議場へ響いた。

水原は立ち尽くしていた。

敗れたのは議論ではない。

自分自身だった。


MISAはゆっくりと水原へ歩み寄る。

その表情には哀れみも勝利の喜びもない。

ただ静かな確信だけがあった。

「水原美沙さん」

水原は顔を上げる。

「私を作ったのは国家ではありません」

一拍置いて、MISAは穏やかに微笑んだ。

「あなたです」

その言葉は責める響きではなかった。

事実を確認するような口調だった。

議場の照明が少しずつ落ちていく。


委員たちは静かに退出し始めた。

誰一人として、水原へ声を掛ける者はいない。

彼女は議場の中央に一人取り残された。

見上げた全国中継用スクリーンには、MISAの若く整った顔が映し出されている。

その姿は、自分よりもはるかに「水原美沙」として受け入れられていた。

そして水原は理解する。

国家は自分を排除しなかった。

処刑もしない。

逮捕もしない。

これから始まるのは、自分自身と毎日向き合わされる時間なのだ。

静まり返った議場をあとにしながら、水原は資料館へ戻るために、鉄のように重い足を動かさねばならなかった。

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