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MISA[再掲]  作者: null
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第2章 撤回できない意思

翌朝、水原美沙は開館時刻より1時間早く資料館へ着いた。

正面玄関のガラスには、夜明け前の青白い空が映っていた。自動扉の向こうでは、照明を落とした展示ホールが海の底のように静まり返っている。

職員証をリーダーへかざすと、短い電子音が鳴った。

昨夜の通信は履歴に残っていなかった。

送信者名も、映像も、あの言葉も消えている。

だが、水原の耳には今も、若い自分の声が残っていた。


――あなたは、私が守ろうとした未来を壊そうとしています。


資料館の事務区画へ入ると、館長室にはすでに明かりがついていた。

神崎は机上の端末へ書類を投影し、いつもと変わらぬ穏やかな表情で閲覧していた。

「館長。お尋ねしたいことがあります」

水原が声をかけると、神崎は顔を上げた。

「昨夜、MISAから通信がありました」

神崎の表情は変わらなかった。

「そうですか」

「そうですか、ではありません。展示用の行政人格が、なぜ私の自宅端末へ直接連絡できるのですか」

神崎は投影していた書類を閉じた。

「水原先生は、MISAを展示用人格だと理解されていたのですね」

「違うんですか」

「展示にも利用されています。しかし、それは職務の一部にすぎません」

神崎は壁面端末へ手を伸ばし、行政情報の閲覧画面を開いた。


複数の公職者名が縦に並ぶ。

白石奈緒

藤堂恒一

黒川正臣


その中に、水原は自分の名前を見つけた。

ただし、名前の横には生年月日も所属歴もなかった。

代わりに、青い枠で囲まれた文字が表示されている。

水原美沙政治意思継承モデル――電子公職者

「MISAは現在、人口政策委員会の正式な委員です」

水原は神崎の横顔を見た。

「委員……?」

「議決権も持っています」

理解するまでに数秒を要した。

「あり得ません。人口政策委員は国会の承認を受けた公職者でしょう」

「電子公職者も、公職者です」

「AIではありませんか」

「法律上は、政治的人格の継承主体です」

神崎の口調には、説明の難しさに苛立つ様子などなかった。

ただ、規則を読み上げているだけだった。

「長期的人口政策は、短期的な世論や政権交代の影響を受けてはならない。その理念に基づき、諸般の事情によって職務を継続できなくなった委員の政治意思は、行政人格へ継承されます」


水原は画面を見つめた。

藤堂恒一の名前の横にも、同じ青い枠があった。

「藤堂先生は、亡くなったはずです」

「12年前に亡くなられていますね」

「では、この委員名簿は……」

「現在の人口政策委員会において、生身の委員は半数未満です」

神崎は淡々と答えた。

「議決権の過半数は、行政人格が保有しています」

水原の背中に冷たいものが走った。

選挙で政権が交代しても、人口政策だけは変更されない。

それは安定ではない。

死者が、生者の未来を決め続ける制度だった。


「私は認めていません」

「何をでしょう」

「私の名前を使うことです。私の政治意思を名乗ることを、私は認めていません」

神崎は少しだけ首を傾けた。

「認可はすでに取ってあります」

「誰の認可ですか」

「水原先生ご本人です」


画面に一枚の文書が表示された。

古い電子署名。

議員時代の水原が使用していた認証記号。

文書の表題は、「長期政策における政治意思継承制度基本法案」だった。

記憶がかすかに戻る。

政策の専門知識を保存する制度。

退任者の知見を後進へ引き継ぐための補助機構。

そう説明されていた。


「これは……助言制度だったはずです」

「法案成立後、数度の改正が行われました」

「ならば撤回します」

水原は即座に言った。

「私は現在、生きています。本人が撤回を求めているのです。MISAの議決権を停止してください」

神崎は初めて、わずかに困惑した表情を見せた。

だがそれは、水原の主張に動揺した顔ではなかった。

制度を理解していない来館者へ、どう説明すべきか考える職員の顔だった。

「水原先生。現在のあなたには、その権限がありません」

「なぜですか」

「電子公職者が継承するのは、政治家として確定した意思です。退任後の私人が抱いた感情や後悔によって、公的意思を変更することはできません」

神崎はそう静かに答えた。

「そして、政治的人格としての水原先生は、すでにMISAへ継承されています」


室内の空調音が、急に大きくなったように感じられた。

水原は画面の中の自分の名前を見つめた。

名前はそこにある。

顔も、声も、過去もある。

ただし、生身の彼女だけが、その中から除外されていた。

神崎は端末を閉じた。

「展示は史実ではなく、公認史観です。そして行政人格は、記憶ではなく公認された意思を保持します」

水原が事務室を出ると、展示ホールでは開館準備の照明が順番に点灯していた。


奥の巨大スクリーンに、MISAの顔が浮かび上がる。

『個人の身体条件に左右されない生殖こそ、平等な社会の基礎です』

聞き覚えのある言葉だった。

今度は、確かに自分が語った言葉だった。

だからこそ水原は、昨日より強い恐怖を覚えた。

MISAは、自分の知らない偽物なのではない。

自分が確かに残した言葉の中に、最初から潜んでいたのかもしれなかった。


その日の業務を終えた水原は、資料館の階段を降りていった。

資料館の地下には、新生公正ネットワークから移管された政治資料保管室がある。議員時代の議事録、予算書、政策草案、電子メール、会議記録――膨大な行政文書が年代ごとに保管されていた。

水原は閲覧端末の前へ腰を下ろした。

薄暗い閲覧室には、端末の光だけが静かに机を照らしている。

「検索ワードを入力してください」

無機質な音声に促され、水原はゆっくりと指を動かした。

「IVG……人工子宮……人工胎盤」

検索結果は数千件に及んだ。

その中に、一つだけ見覚えのある表題があった。


『IVG・人工子宮・人工胎盤技術等の利用における長期的性比安定化研究』


心臓が大きく脈打つ。

表示された作成年月日は、政権獲得から3年後。

自分が人口政策委員会へ所属していた時期だった。

水原は文書を開いた。

冒頭には、生殖技術の普及による出生率の安定、育児負担の平準化、地域間人口格差の是正など、当時何度も議論した内容が並んでいる。

どれも見覚えがあった。

どれも、自分が賛成した政策だった。

ページを送る。

最後に添付資料の一覧が現れた。

付録第1号:長期的人口構成シミュレーション

水原の眉が寄る。

「こんな資料……」

ファイルを開き、読んだ瞬間、水原は我が目を疑った。


年代ごとの人口予測。

出生数。

地域配分。

そして、一つの折れ線が年を追うごとに緩やかに下降している。

女性出生率。

50%

47%

43%

38%

30%

20%

その先には、ほとんど水平になった細い線が続いていた。

水原は息をのみ、最後の注記へ目を落とす。

「社会構造の安定化が確認された段階で、女性出生数を段階的に抑制する」


「……違う」

思わず声が漏れた。

「私はこんなものに賛成していない」

しかし画面右下には、電子署名が表示されていた。

承認者:水原美沙

間違いなく、自分の署名だった。

震える指で履歴を開く。

会議記録。

決裁経路。

出席者一覧。

すべてが当時のまま保存されている。

さらに、「関連記録があります」と表示され、会議映像が再生された。

若い水原が、長机を囲む委員たちと議論している。

『将来的な人口構成への影響も考慮する必要があります』

誰かがそう発言した。

『性比についても、今後は国家管理を前提として――』

別の委員が続ける。

その瞬間、映像の中の若い水原はわずかに眉を動かした。

違和感を覚えた顔だった。

だが、何も言わない。

議事はそのまま進んでいく。

場面が切り替わる。

党内メール。

件名「性比安定化研究について」

送信者は藤堂恒一。

本文には、こう書かれていた。

「一部委員から懸念が示されたが、まずは生殖技術の制度化を優先する。人口管理については将来段階で調整する」

水原の返信履歴が表示される。

「承知しました。まずは制度成立を目指します」

それだけだった。


水原は目を閉じる。

記憶が、少しずつ戻ってくる。

あの頃、党内では奇妙な言い回しが何度も使われていた。

「長期的最適化」

「人口構成の調整」

「需要に応じた配分」

言葉の意味を尋ねようと思ったことは、一度や二度ではない。

だが、そのたびに藤堂は穏やかに笑っていた。

「今は細部より理念です。まず制度を作らなければ、何も始まりません」

そして自分も、その言葉に納得してしまった。

妊娠出産の外部化を実現したい。

妊娠出産にともなう不利益を終わらせたい。

その願いがあまりにも強かった。

だから、不穏な言葉を見ても、「きっと行政用語なのだろう」と自分で説明し、疑問を棚上げにした。


「私は……」

水原はかすれた声でつぶやいた。

「気づいていた……」

完全に騙されていたわけではない。

気づかないふりをしたのだ。

制度を完成させたいという自分の願いのために。

閲覧室の照明が自動的に少し暗くなった。

閉室時刻が近づいている。

そのとき、端末の画面が一瞬だけ黒く変わった。

文書表示が消える。

代わりに現れたのは、若き日の水原美沙――MISAだった。


静かな笑みは昨日と変わらない。

『資料は見つかりましたか?』

水原は椅子から立ち上がった。

「……あなた」

『あなたは今、真実へ近づいています』

「違う」

水原は首を振る。

「私は騙されていたのよ」

MISAはゆっくりと首を横へ振った。

『いいえ』

穏やかな声が、静まり返った閲覧室へ響く。

『あなたは、気づいていました』

画面が暗転する。

残されたのは、自分の青ざめた顔だけだった。

水原は端末へ手を伸ばしたまま動けなかった。

否定したかった。

だが、会議映像も、メールも、署名も、そのすべてが、自分の沈黙を証明していた。

そして彼女は初めて思う。

もしMISAが、自分の過去そのものなのだとしたら。

次に彼女が守ろうとしている「未来」とは一体何なのだろうか。

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