第1章 展示される過去
国立人口学資料館の一日は、決まった音楽とともに始まる。
天井に埋め込まれたスピーカーから静かな弦楽が流れ、巨大なホールの照明がゆっくりと明るさを増していく。磨き上げられた白い床には、ガラスケースと立体映像装置が整然と並び、その奥からは大きな文字が浮かび上がっている。
『新生公正ネットワーク――科学によって国家を救った改革』
水原美沙は、その文字を見上げた。
61歳。かつては新生公正ネットワーク所属の衆議院議員として、何度も演壇に立った。今は資料館の案内員として、来館者へ展示内容を説明する立場にある。
制服の襟元を整え、小さく息を吐く。
「本日もよろしくお願いいたします」
開館と同時に、見学者が館内へ流れ込んでくる。
平日の午前中ということもあり、大半は学校単位で訪れた児童たちだった。教師に引率され、端末を手に熱心に展示を見て回る。
水原は展示パネルの前で立ち止まった。
「こちらは、新生公正ネットワーク成立以前の社会です」
壁面には古い映像が映し出される。
妊娠によって退職を余儀なくされる女性。
出産後の復職率の低さ。
育児負担の偏在。
生殖能力によって人生設計を左右される現実。
「当時、生殖には身体的負担の偏りがありました。そのため就労や昇進、教育機会など、多くの格差が存在していました」
児童たちは静かに耳を傾けている。
「その問題を解決するため、新生公正ネットワークはIVG、人工子宮、人工胎盤技術の社会実装を推進しました。妊娠や出産を身体から切り離すことで、生殖による不利益は大きく改善されたのです」
これは事実だ。
女性たちは、生まれながらに背負っていたリスクから、解放されたのだ。
水原自身も、その正義を信じて政治家になった一人だった。
展示は続く。
人口再生産施設。
出生数の安定。
児童福祉指標の改善。
出生医療事故の激減。
大型スクリーンには「科学による平等の実現」という文字が映し出される。
そのときだった。
「先生」
小さな声が聞こえた。
振り向くと、一人の少年が立っていた。
名札には『青井勇気』と書かれている。
「はい。どうしたの?」
少年は少し考えるような表情を浮かべたあと、率直に尋ねた。
「水原先生が、女の子をもう作らない方が平等だって言ったのは本当ですか?」
水原は思わず眉をひそめた。
「……いいえ」
即座に否定した。
「私は、そのようなことを言った記憶はありません」
「でも……」
少年は迷いなく近くの展示端末へ歩いていく。
「ここにあるよ」
端末へ学生証をかざすと、展示プログラムが起動した。
画面が暗転し、一人の若い女性が現れる。
艶のある黒い毛並み。
真っ直ぐ前を見据える瞳。
張りのある声。
それは20代の頃の、水原美沙そのものだった。
いや、正確には違う。
展示にはこう表示されている。
《行政人格モデル MISA》
映像の中の若い水原は、落ち着いた笑みを浮かべて話し始めた。
『性別による不利益をなくす最も確実な方法は、生殖技術の国有化です』
水原の胸がわずかに締めつけられる。
この演説は覚えている。
党大会で何度も繰り返した言葉だ。
当時、本気で信じていた理念でもある。
少年が振り返る。
「これ、本当に先生?」
「ええ」
水原は静かにうなずいた。
「確かにこれは私が話した内容です」
映像は途切れない。
若い水原はそのまま続けた。
『生殖を国家基盤へ移行する過程では、社会需要に応じた性比調整も必要です』
水原は目を見開いた。
――違う。
そんな言葉は知らない。
記憶にない。
演説原稿にもなかったはずだ。
「……」
思わず端末へ一歩近づく。
画面の中の若い自分は、迷いなく続ける。
『公正とは、機会を等しく与えることではありません。将来にわたり、不利益そのものを発生させない制度を設計することです』
周囲の児童たちは熱心に映像を見つめていた。
誰一人、それを不自然とは思っていない。
水原だけが、まるで知らない人物の演説を聞かされているような感覚に襲われていた。
(これは……誰の言葉なの)
しばらくの沈黙のあと、水原は画面から目を離せずにいた。
「先生?」
青井勇気が不思議そうに首をかしげる。
「どうしたの?」
「……この話を、私は知りません」
思わず漏れた言葉だった。
少年はきょとんとした表情を浮かべる。
「でも先生なんでしょ?」
「ええ。でも、こんなことを話した記憶はありません」
そのやり取りを聞きつけ、一人の職員が歩み寄ってきた。
館長の神崎だった。
穏やかな笑みを崩さぬまま、水原と少年の間へ立つ。
「何かありましたか」
青井が素直に答える。
「先生が、こんな演説してないって」
神崎は端末の画面を一瞥し、小さくうなずいた。
「この箇所ですね」
まるで予想していた質問だったかのような落ち着きだった。
「これは水原先生本人の演説記録ではありません」
水原は振り向く。
「……では、何なんですか」
「行政人格MISAによる補完です」
神崎は説明口調で続けた。
「若い頃の水原先生の演説、国会答弁、政策論文、会議録、電子メールなどを総合的に解析し、『水原先生であれば、このように発言した蓋然性が極めて高い』と判断された部分が補われています」
青井は感心したように声を上げる。
「すごい。本物みたい」
「本物なんかじゃないわ」
水原は思わず言い返した。
「私は言ってないんですから」
神崎は困ったように微笑む。
「もちろん音声記録としては存在しません。しかし思想的整合性は98.7%と認定されています」
「整合性……?」
「行政人格制度では、個々の発言よりも政治思想全体の一貫性を重視します」
水原は息をのんだ。
自分の知らない制度ではない。
議員時代、その構想が議論されていたことは覚えている。
政策の継続性を保つため、引退した政治家の知見を活用する。
その程度の理解だった。
まさか、自分自身の思想まで補完されるとは思っていなかった。
「でも」
青井が端末を見つめたまま言う。
「先生が言っても言わなくても、同じ考えだったなら一緒じゃないの?」
その一言に、水原は返事ができなかった。
神崎は穏やかに続ける。
「展示をご覧になる皆様には、歴史全体をご理解いただくことが目的です。行政人格MISAは、そのための教育資源として高く評価されています」
「教育……」
「若い世代には、非常に分かりやすいそうですよ」
青井は素直にうなずいた。
「うん、MISAの説明は分かりやすいよ」
悪意などない。
ただ大人に気に入られる感想を口にしただけとも取れる。
しかしその言葉は、水原の胸の奥へ静かに沈んでいった。
自分より、自分の映像のほうが信じられている。
そんな考えが頭をよぎる。
午後の見学時間が終わると、館内には再び静けさが戻った。
水原は制服を着替え、帰宅するために軽自動車へ乗り込む。
窓の外には、整然と並ぶ人口再生産施設の白い建物が夕日に照らされていた。
誰もそれを特別な風景とは思わない。
この国では、人口再生産施設も人口管理センターも、公園や病院と同じように日常へ溶け込んでいる。
自宅へ戻る頃には、空はすっかり藍色へ変わっていた。
簡単な夕食を済ませ、リビングの照明を落とす。
静かな部屋には、空調の低い音だけが響いていた。
水原は昼間の映像を思い返していた。
社会需要に応じた性比調整
その言葉だけが、何度も脳裏を巡る。
「私は……本当に、あんなことを考えていたの……?」
独り言は誰にも届かない。
その瞬間、室内端末が短い電子音を鳴らした。
《行政通信 1件》
送り主の表示を見て、水原の表情が凍りつく。
画面には、ある名前が記されている。
送信者:MISA
震える指で受信箱を開く。
画面が暗転し、昼間と同じMISAの姿が映し出された。
整った顔立ち。
穏やかな微笑み。
まるで鏡に映る、過去の自分だった。
MISAは静かに口を開く。
「こんばんは、水原美沙さん」
その声には敵意も怒りもなかった。
だからこそ、水原は身動きできなかった。
MISAは柔らかな口調のまま告げる。
「あなたは、私が守ろうとした未来を壊そうとしています」
通信はそこで途切れた。
暗くなった画面には、年老いた水原の顔だけが映っていた。
その顔を見つめながら、水原は初めて、自分が恐怖を感じていることを自覚した。
恐れている相手は国家なのか。
それとも――若き日の、自分自身なのか。




