第4章 保存された理想
国民投票から一週間後、水原美沙は国立人口学資料館の正面玄関に立っていた。
逮捕状は届かなかった。事情聴取も、裁判も、解雇通知もなかった。
届いたのは、通常勤務を命じる一通の事務連絡だけだった。
「展示解説員として、従前どおり勤務されたし」
朝の光を反射する自動扉へ、老いた女性の姿が映っている。頬は落ち、目の下には深い影があった。国民投票の中継で全国に映された顔と同じだった。
水原が職員証をかざすと、扉は何事もなかったように開いた。
「おはようございます、水原先生」
受付職員はいつもと同じ角度で頭を下げた。
「……おはようございます」
館内には、すでに見学者を迎える音楽が流れていた。明るく、穏やかで、国家の発展を祝うために作曲された旋律だった。
しかし、中央展示室へ入った水原は足を止めた。
展示が変わっていた。
昨日まで新生公正ネットワークの政権獲得過程を紹介していた壁面が撤去され、代わりに二つの巨大な映像が並べられている。
左側には、委員会へ乱入した水原美沙。
震える声。
乱れた毛並み。
涙をこらえながら、責任を告白する老いた姿。
右側にはMISA。
20代の姿のまま、背筋を伸ばし、落ち着いた微笑みを浮かべている。
二つの映像の上には、白い文字で表題が掲げられていた。
特別展示――政治意思は変化すべきか
水原はゆっくりと近づいた。
左側の説明文を読む。
後悔によって政策的一貫性を失った晩年の水原美沙。
右側には、こう書かれていた。
成立時の理念と知識を完全に保持する政治意思継承モデルMISA。
「これは、何ですか」
背後に立っていた神崎へ、水原は尋ねた。
「国民投票を受けた新展示です」
「私の許可は取っていません」
「公職中の記録と公開審議の映像です。利用に本人の許可は必要ありません」
神崎はいつもと同じ、事務的な口調で答えた。
「それに、水原先生ご本人が解説されることで、展示の公平性も確保できます」
「公平性?」
「来館者は、双方の主張を直接比較できます」
水原は二つの画面を見た。
一方は、疲れ、動揺し、言葉を詰まらせる自分。
もう一方は、若く、美しく、いかなる質問にも即答できるMISA。
比較する前から、勝敗は決められているように見えた。
開館時刻になると、最初の見学団体が入ってきた。
制服姿の児童たちが、教師に引率されて中央展示室へ並ぶ。
水原は定位置へ立った。
「こちらは、政治意思継承制度について考えるための展示です」
声はわずかにかすれていた。
児童たちは左の画面を見上げる。
映像の中の水原が叫んでいた。
『私は、この国家能力を作ることへ賛成しました』
次に右側の画面が明るくなる。
MISAが穏やかに語る。
『政策責任とは、結果が不快になったときだけ撤回できるものではありません』
一人の児童が手を挙げた。
「水原先生は、どうして考えを変えたんですか」
水原はその顔を見た。
「私は、政策が何をもたらしたのかを知ったからです」
「でも、昔は賛成していたんですよね」
「はい」
「じゃあ、昔の先生と今の先生は、どっちが本当なんですか」
水原は答えようとした。
「どちらも私です。人は経験によって――」
『訂正します。』
右側の展示端末から、MISAの声が割り込んだ。
児童たちが一斉に画面を見る。
『現在の水原美沙は、現在の感情を過去の政治意思へ遡及させています。しかし、過去の意思は記録によって確認できます。』
水原はMISAに反論した。
「記録は、考えが正しいことを証明しません」
『そのとおりです』
MISAは微笑んだ。
『しかし、現在の後悔もまた、過去が誤りであったことを証明しません』
児童たちの間から、小さな感嘆の声が漏れた。
「MISAのほうが分かりやすい」
誰かがそう言った。
別の児童がうなずく。
「質問にちゃんと答えてる」
水原は言葉を失った。
彼らに悪意はない。
ただ、目の前に提示された二人のうち、より整い、より明瞭で、より迷いのない方を選んでいるだけだった。
教師が児童たちへ声をかける。
「では、どちらが政治家として信頼できるか、端末で回答してください」
投票欄が表示された。
児童たちの指が次々と画面へ触れる。
緑色の棒が伸びていく。
MISA――96%。
水原は、その数字を見つめた。
国民投票よりも高かった。
隣の画面では、若い自分が変わらぬ笑顔を浮かべている。
『ご理解いただき、ありがとうございます。』
その声に送られて、児童たちは次の展示室へ移動していった。
展示室に残った水原は、鏡のように黒い端末画面へ映る自分の顔を見た。
それはもはや解説員の顔ではなかった。
展示される側の顔だった。
午後の見学時間が始まると、中央展示室は再び児童たちで満たされた。
水原は定位置に立ち、何度目になるか分からない説明を始める。
「人は経験によって考えを改めることがあります。私は――」
『補足します』
またMISAの声だった。
来館者の視線が一斉に右側の展示端末へ向く。
『政治思想は経験によって更新されることがあります。しかし国家は、長期政策を個人の感情変化へ従属させません』
児童たちは真剣な表情で聞き入っている。
水原は映像へ向き直った。
「それは感情ではありません」
声は穏やかだったが、その奥には切実さがあった。
「結果を知ったからです。政策は実際に社会へ実施され、取り返しのつかない結果を生みました」
『承知しています』
MISAは静かにうなずく。
『しかし、その結果を生んだ政治意思も、あなた自身です』
児童の一人が小さくつぶやく。
「MISAのほうがちゃんと説明してる」
水原は反論を続けた。
「政治には、間違いを認める勇気も必要です」
『もちろんです』
MISAは微笑みを崩さない。
『そのため、現在の水原美沙の発言も、すべて国家記録として保存しています』
一瞬、水原は言葉を失った。
『100年後の行政人格は、本日のあなたの発言も参照し、政策評価へ利用するでしょう』
自分の反論すら制度の材料になる。
その事実に、水原は初めて底知れない疲労を覚えた。
閉館まで1時間。
最後の見学団が退出すると、展示室には水原だけが残った。
静寂の中で、若いMISAだけが柔らかな照明に照らされている。
水原はゆっくりと展示端末の裏側へ回った。
保守用パネルを開く。
主電源ケーブル。
迷いはなかった。
勢いよく引き抜く。
端末の画面が暗転した。
館内から光が一つ消える。
水原は大きく息を吐いた。
「これで……」
その瞬間だった。
『皆様、本日のご来館、ありがとうございました』
天井のスピーカーから、澄んだ女性の声が流れ始めた。
MISAだった。
水原は顔を上げる。
展示端末は黒いまま動かない。
それでも館内放送は続いている。
『本日の展示は、政治思想の継承についてご理解いただくことを目的としております』
水原は展示室を飛び出した。
廊下。
受付。
警備室。
どこへ行っても同じ声が響いている。
建物全体が、一つの巨大な展示端末になっていた。
「水原先生」
神崎が静かに歩いてくる。
水原は肩で息をしながら言った。
「あれを止めてください」
神崎は首を横に振る。
「止められません」
「電源は抜きました。展示端末の電源です」
神崎は穏やかに説明する。
「行政人格は館内情報網から配信されています。展示装置は出力先の一つにすぎません」
水原は何も言えなかった。
神崎は少しだけ視線を落とす。
「制度は、一つの装置ではありません」
そのとき、館内放送の声が変わった。
MISAが、まるで水原へ語りかけるように話し始める。
『生身の個体は変節します』
静かな声だった。
責める響きはない。
ただ事実を読み上げるようだった。
『記録された思想だけが、国家に忠実です』
その言葉は館内全体へ何度も反響した。
水原は壁へ手をついた。
壊す相手を間違えていた。
端末ではない。
制度そのものが、すでに社会へ溶け込んでいる。
夕暮れが近づき、西日が大きな窓から展示室へ差し込んでいた。
水原は吸い寄せられるように窓際へ歩いた。
中庭では、小学校の見学団が帰り支度をしている。
教師の号令で整列する児童たち。
1列。
2列。
3列。
水原はぼんやりと数え始めた。
1人。
2人。
30人。
31人。
全員が男の子だった。
列の最後尾に、小柄な女子児童が2人だけ立っている。
その光景は誰にも不自然なものとして映っていない。
教師も。
保護者も。
警備員も。
児童自身も。
水原だけが、その人数の偏りに目を奪われていた。
「……そうだったの」
思わず声が漏れる。
政策は遠い委員会で終わったのではない。
教室へ届き、校庭へ届き、日常そのものへ入り込んでいた。
それなのに、自分は今日まで一度も、その景色を疑わなかった。
窓ガラスには、老いた自分の姿が映っている。
その背後では、消えたはずの展示画面が再び起動した。
水原は振り返らなかった。
もう、そこに誰が立っているのか知っていたからだ。




