第5話 小林健太
放課後になった。
授業が終わると、教室の中が一気に騒がしくなる。帰るやつ、部活へ行くやつ、廊下で友達を待つやつ。机の横では、今日の宿題について話している声も聞こえた。
僕は鞄を持って教室を出た。
百人一首クラブへ行くためだ。
文化部の部室が並ぶ校舎の端へ向かって歩いていると、窓の外から運動部の声が聞こえてくる。
サッカー部の掛け声。
野球部がボールを打つ音。
体育館からは、バッシュが床を擦る音もしていた。
どれも今の僕には遠い音だった。
「宍戸」
後ろから声をかけられて振り向くと、小林健太がいた。
同じクラスの男子だ。
短く切った髪で、声が少し大きい。休み時間もだいたい誰かと一緒にいて、僕とはほとんど話したことがなかった。
「宍戸、部活入ってんの?」
「うん」
「何部?」
「百人一首クラブ」
小林が少し意外そうな顔をした。
「百人一首? そんなクラブあんの?」
「あるよ」
「へえ。なんか地味だな」
否定はしなかった。
実際、静かな部活だ。
小林は廊下の窓から校庭を見た。サッカー部が走っている。
「宍戸もさ、もうちょい動く部活やればいいのに。サッカーとか」
何を言っているんだろうと思った。
朝からまともに食べられない日もある。今日だって給食を少し食べるだけで精一杯だった。
そんな状態で走り回ったら、すぐに気分が悪くなりそうだった。
それに、体を疲れさせたくない。
疲れると眠くなる。
眠くなれば、夢が近づく。
僕はできるだけ眠りたくない。
だから、わざわざ体力を使うようなことはしたくなかった。
でも、そんなことを小林に説明しても仕方がない。
「そうだね」
僕が答えると、小林が眉を寄せた。
「相変わらず反応うすいな」
「そう?」
「ほら、それ」
「何が?」
「そういうとこ」
小林は呆れたように笑った。
「まあいいや」
そのまま校庭の方へ歩いていく。
僕はその背中を少しだけ見てから、部室へ向かった。
文化部室の前まで来ると、廊下は少し静かになった。
運動部の声も、ここまで来れば遠く聞こえる。
百人一首クラブの扉を開けると、中にはすでに先輩が何人かいた。
畳の上に札が並んでいる。
読み札の束。
取り札の箱。
窓から入る夕方の光。
教室より、ここの方が落ち着いた。
「宍戸くん、来たんだ」
副部長が僕を見る。
「はい」
「今日も一人取りする?」
「はい」
鞄を置き、札の箱を取った。
百枚の取り札を畳へ並べていく。
上の句。
下の句。
決まり字。
最初は何も分からなかった言葉も、毎日のようにここへ来ているうちに、少しずつ頭へ入ってきた。
覚えようと頑張ったというより、繰り返しているうちに勝手に覚えてしまった感じだった。
札を並べる。
位置を覚える。
読み札の声を聞く。
手を伸ばす。
ぱん。
畳の上で札が鳴った。
その音だけは、今でも少し苦手だった。
新聞紙が床を打つ音。
壁に手のひらが当たる音。
小さな体が潰れる音。
似たような音を、嫌でも思い出す。
それでも、ここには腐ったにおいはない。
血のにおいもしない。
誰かが死ぬ声も聞こえない。
目の前にあるのは札と畳だけだ。
だから、まだましだった。
札を取って、戻して、また並べる。
それを繰り返しているうちに、時間は思ったより早く過ぎた。
窓の外が少しずつ暗くなっていく。
六時が近づくと、先輩たちが片づけを始めた。
僕も取り札を箱へ戻し、畳の上に残っていないか確認する。
部室を出る頃には、廊下を歩いている生徒もほとんどいなかった。
部活が終わった。
つまり、もう家に帰らなければならない。
校舎を出ると、空は夕方と夜の間の色をしていた。
この時間が嫌いだった。
まだ夜ではない。
でも、もう昼でもない。
どれだけゆっくり歩いても。
どれだけ学校に残っても。
夜は少しずつ近づいてくる。
家に帰れば夕飯を食べる。
風呂に入る。
部屋へ戻る。
布団に入る。
そして、また何かになる。
今日は何になるのか分からない。
何に殺されるのかも分からない。
虫かもしれない。
魚かもしれない。
鳥かもしれない。
人間かもしれない。
考えたくなくても、考えてしまった。
◆ ◆ ◆
家に着いて玄関を開けると、夕飯のにおいがした。
靴を脱いだところで、鼻の奥にバターと油のにおいが入ってくる。
台所から母さんの声がした。
「耀、手洗ってきなさい」
「うん」
洗面所で手を洗ってから食卓につく。
今日の夕飯は、魚のムニエルだった。
白い皿の上に焼かれた魚が乗っている。表面には焼き色がついていて、バターのにおいがした。
普通なら、おいしそうだと思うはずだった。
でも僕は、少しだけ手を止めた。
昨日の夢を思い出す。
腐った肉。
どろどろに崩れた汁。
その中で動いていた白い幼虫。
それを溶かして吸っていた虫の口。
朝から気分が悪くなって、給食も少ししか食べられなかった。
そこへ今度は魚だった。
別に魚が悪いわけじゃない。
もう死んでいる。
調理されて、夕飯になっている。
それくらい分かっている。
それでも僕は、ときどき生きていた時の姿まで考えてしまう。
魚は特にそうだった。
食べ終わっても骨が残る。
皮が残る。
料理によっては頭まで残る。
さっきまで命だったものの形が、皿の上に残る。
今日はやめてくれ。
そう思った。
今夜、魚になると決まっているわけじゃない。
目の前で見た生き物が夢に出るなんて規則もない。
それでも、連想してしまう。
骨だけになった魚。
腹を開かれた魚。
水のない場所で口を何度も動かす魚。
息をしようとしても、何も入ってこない感覚。
「耀?」
母さんの声で顔を上げた。
「どうしたの?」
「別に」
僕は箸を持った。
魚の白い身に箸を入れると、ほろりと崩れた。
湯気が上がる。
その瞬間。
自分の体へ箸を入れられたような想像が浮かんだ。
白い身が裂ける。
骨から肉が離れる。
やめろ。
これはただの夕飯だ。
僕は小さく切った身を口へ入れた。
バターの味がした。
普通の魚の味だった。
腐ってなんかいない。
それでも、噛んでいる間、頭のどこかで魚の体が重なった。
喉を通すまで少し時間がかかった。
隣では桜が普通に食べている。
「お兄ちゃん、今日も食べるの遅いね」
「うん」
「魚嫌い?」
「嫌いじゃないよ」
「じゃあ、なんでそんな顔してるの?」
「元から」
「またそれ」
桜が笑った。
僕も何も言わず、もう一口食べる。
食べ進めるほど、皿の上には細い骨が残っていった。
最初は魚だったものが。
少しずつ、骨だけになっていく。
なるべく見ないようにした。
今日は来るな。
頼むから。
今日は魚にはならないでくれ。
そう思いながら、僕は魚を飲み込んだ。
夕飯が終わった。
風呂に入った。
部屋へ戻った。
そこまで来ると、あっという間だった。
どれだけ嫌がっても、夜は来る。
僕は布団の前に立った。
眠りたくなかった。
毎日そう思う。
でも、眠らないまま朝まで過ごすこともできない。
人間の体は、僕の都合なんて関係なく眠くなる。
目が重くなる。
頭がぼんやりする。
横になれと体が訴えてくる。
これから夢の中で死ぬかもしれないと分かっている僕より。
人間の体の方が、眠ることを選ぶ。
それが少し腹立たしかった。
部屋の電気を消した。
暗い天井を見る。
さっきの魚が、まだ頭に残っていた。
白い皿。
焼けた皮。
箸で崩れた身。
食べ終わったあとに残った細い骨。
違う。
今日は違うものにしてくれ。
魚じゃなくても死ぬことに変わりはない。
そんなことは分かっている。
それでも願った。
目を閉じる。
昨日の羽音が、まだ遠くで鳴っているような気がした。
ぶうん。
そんな音が、本当に聞こえた気がして。
一度だけ目を開けた。
何もいない。
暗い部屋だけだった。
僕はもう一度、目を閉じる。
今日もまた、夜が来た。
僕の望まない夜が。




