第4話 燕
昼休みになっても、僕の気分は完全には戻らなかった。
給食は少しだけ食べた。
吐かなかった。
今日は、それだけで十分だと思う。
でも、教室にいるとなんとなく落ち着かなかった。
誰かが弁当の話をしている。
誰かが購買のパンの話をしている。
誰かが昼休みに外へ行こうと言っている。
まだ、食べ物の話を聞くのは少しきつかった。
僕は机の中からタブレットを出した。
調べたところで、どうなるわけでもない。
昨日、僕を食べた鳥のことを知ったところで、もう何も変わらない。
虫の体は壊れた。
鳥に飲み込まれた。
僕は朝、目を覚ました。
それで終わりだ。
終わったはずなのに、気になってしまう。
あれは、何の鳥だったんだろう。
夢の中では、姿をはっきり見たわけじゃない。
空中で前から何かが来た。
小さくて、速くて、黒っぽい影。
次の瞬間には、くちばしに挟まれていた。
最初はスズメかと思った。
でも、思い返してみると少し違う気がする。
スズメより体が細かった。
羽の形も、もっと鋭かった気がする。
何より、空中で曲がる動きがやけに速かった。
検索して、いくつか画像を見る。
ツバメ。
たぶん、これが一番近い。
ツバメが飛びながら虫を捕まえることくらいは知っていた。
でも、調べてみると思っていたよりずっと空を飛ぶのが上手いらしい。
速く飛び、空中で方向を変えながら、飛んでいる虫を捕まえる。
画面の説明を読みながら、僕は少しだけ眉を寄せた。
なるほど。
あれじゃ、逃げられない。
僕がハエだったのか、別の虫だったのかは分からない。
でも、あの小さな体で逃げ切れるような相手じゃなかった。
こっちは必死に羽を動かしていた。
進む方向も変えようとした。
それでも、向こうの方がずっと速かった。
小鳥、なんて言葉で片づけるには。
あの体から見れば、大きすぎる。
化け物みたいなものだった。
また、余計な知識が増えた。
腐ったものを溶かして吸う虫。
空中で虫を捕まえるツバメ。
巣で待つ雛のために、親鳥が虫を捕まえて運ぶこと。
知らなくてもよかった。
知ったところで、昨日の僕が助かるわけじゃない。
それでも、知ってしまった。
僕の中には、そういうものばかり増えていく。
「鳥、好きなの?」
声がして、顔を上げた。
佐倉が立っていた。
僕のタブレットを見ている。
画面にはツバメの写真が表示されていた。
黒っぽい背中。
白い腹。
長く割れた尾。
「別に」
僕は画面を少し伏せた。
「じゃあ、調べもの?」
「うん」
「理科?」
「違う」
「じゃあ、なんで?」
僕は少し考えた。
本当のことは言えない。
昨日、虫になって飛んでいたら、たぶんツバメに食われた。
だから、その鳥について調べている。
そんなことを言ったら、佐倉も変な顔をするかもしれない。
昨日も今日も普通に話しかけてきたけれど、だからといって何でも言っていいわけじゃない。
「なんとなく」
そう答えると、佐倉が少し笑った。
「宍戸くん、なんとなく多いね」
「そうかも」
「鳥、詳しいの?」
「詳しくない」
「でも、すごく真剣に見てた」
「見てただけ」
「そう」
そこで話は終わるかと思った。
でも、佐倉はすぐには離れなかった。
僕の机の横に立ったまま、少しだけ教室の方を見る。
昼休みの教室はうるさかった。
男子は何人かで固まって、くだらないことで笑っている。
女子もいくつかの集まりに分かれて、机を寄せて話している。
佐倉は、そのどこにも入っていなかった。
眼鏡をかけていて、髪も目立たない長さで、制服もきちんと着ている。
地味、という言葉がたぶん近い。
でも、暗い感じではない。
誰かに嫌われているようにも見えなかった。
ただ、教室の中にいるのに、少しだけ輪の外に立っているように見えた。
僕が言えたことじゃない。
僕の方が、よほど浮いている。
暗い。
気味が悪い。
何を考えているか分からない。
変なことを言う。
そう思われているのは、たぶん僕の方だ。
それなのに、佐倉のことを少し気にしている自分がいた。
変な話だ。
「佐倉は」
言いかけて、少し止まる。
佐倉が僕を見た。
「何?」
「昼休み、友達といないの」
言ってから、少し失敗したと思った。
こういうことは、あまり聞かない方がいいのかもしれない。
でも、佐倉は怒らなかった。
少し目を丸くして、それから笑った。
「宍戸くんに言われると思わなかった」
「それは、そう」
自分でもそう思う。
佐倉は机の端に指を置いた。
「別に、いないわけじゃないよ」
「そう」
「でも、ずっと一緒にいる感じでもないかな」
「ふうん」
「宍戸くんは?」
「いない」
「はっきり言うね」
「嘘ついても仕方ないし」
佐倉は少し困ったように笑った。
朝、「保健室、行く?」と聞いた時と少し似た笑い方だった。
優しいというより。
少しだけ、自分を誤魔化しているような笑い方。
僕はタブレットに目を戻した。
画面には、まだツバメの説明が表示されている。
巣。
雛。
親鳥。
虫を捕まえて運ぶ。
教室の中を見ると、人間もいくつかの集まりに分かれていた。
男子同士で固まる人。
女子同士で固まる人。
いつも同じ友達といる人。
一人でいる人。
みんなが同じように過ごしているわけじゃない。
それなのに、一人でいると少し目立つ。
僕はもう、そういう場所にいる。
佐倉も、もしかしたら少しだけこっち側なのかもしれない。
そんなことを考えた。
「ツバメって」
佐倉が言った。
「うん」
「かわいいよね」
僕は少し考える。
かわいい。
昨日の僕をくちばしで挟んで、腹を潰して、飲み込んだ鳥。
画面の中では、たしかにかわいいと言えなくもない。
でも、昨日の僕には、悪魔にしか見えなかった。
「虫から見たら、怖いと思う」
佐倉が一瞬黙った。
それから、小さく笑う。
「宍戸くんって、やっぱり変わってるね」
「よく言われる」
「悪口じゃないよ」
「分かってる」
本当に分かっていたかは、少し怪しい。
でも、佐倉の言い方は他の人とは少し違った。
気味の悪いものを見るような声ではない。
ただ、本当に変わっていると思っただけみたいだった。
「じゃあ、また気分悪くなったら言ってね」
佐倉はそう言って、自分の席へ戻っていった。
僕はその背中を見る。
最近、佐倉とよく話す。
よく、と言ってもほんの少しだ。
保健室に行くかと聞かれた。
鳥が好きなのかと聞かれた。
それくらい。
それでも、僕にとっては多い方だった。
佐倉は何なのだろう。
ただの保健委員なのか。
誰にでもこうやって声をかける人なのか。
それとも僕と同じように、教室の中で少しだけ浮いている人なのか。
分からない。
でも、少し気になった。
僕はもう一度、ツバメの画面を見る。
空を飛ぶ鳥。
虫を食べる鳥。
人間の近くに巣を作る鳥。
巣では雛が餌を待っている。
昨日の僕を捕まえたツバメにも、もしかしたら待っている雛がいたのかもしれない。
僕は昨日のことを思い出した。
虫は逃げようとしていた。
必死に羽を動かしていた。
ツバメは、その虫を捕まえようとしていた。
たぶん、どっちも自分が生きるために動いていただけなんだと思う。
虫からすれば、ツバメは化け物だった。
でも、ツバメからすれば、ただ餌を捕っただけだ。
もしかしたら、自分が食べるためじゃなく、雛へ持っていくためだったのかもしれない。
その結果。
僕は食べられた。
誰かが悪かったわけでもない。
それでも、死ぬ側にいた僕には怖かった。
そして僕だけが、毎晩そのどれかになって死んでいる。
画面を閉じると、教室のざわめきが少し大きく聞こえた。
昼休みは、まだ少し残っている。
でも、もう何かを調べる気にはなれなかった。




