第3話 早い登校
学校には、いつもより早く着いてしまった。
朝ごはんを食べなかった分、家を出るのも早かった。
教室には、まだ人が少なかった。
何人かは席についていたけど、話し声もまばらだった。
机の上に鞄を置いて、僕は椅子に座る。
何もすることがなかった。
本を読む気にもならない。
寝る気にもならない。
机に突っ伏すと、またあのにおいを思い出しそうだった。
だから、ただ前を見ていた。
黒板には、今日の日付と、授業の予定が書かれている。
国語。
数学。
技術・家庭科。
英語。
それから、給食。
その文字を見ただけで、少し気分が悪くなった。
食べることを考えると、喉の奥が重くなる。
昨日の夢の中で、僕は虫になっていた。
ハエだったのか、別の虫だったのかは分からない。
でも、腐ったものに引き寄せられていた。
ゴミ袋の破れ目に止まって、腐った肉の表面を溶かしていた。
食べる、というより、舐める。
腐ったものを溶かして、吸う。
また、つまらない知識を手に入れてしまった。
知らなくてもよかったことが、また一つ増えた。
猫が車に轢かれたときの感覚。
魚が水の外で息をしようとする感覚。
虫が腐ったものをうまいと思う感覚。
そんなものばかり、僕の中に増えていく。
僕は机の上で、自分の手を見た。
人間の手だった。
五本の指。
爪。
薄い皮膚。
昨日の虫の細い足とは違う。
それなのに、まだ体のどこかが羽音を覚えている。
ぶうん。
あの音が、耳の奥じゃなくて、胸の中で鳴っている気がした。
腐った汁の下で何かが動いていた光景も、頭から離れなかった。
白っぽくて細いものが、ぬるい汁の中で少し動く。
脂なのか、虫なのか、肉だったものなのか、分からない。
分からないのに、気持ち悪い。
忘れようとすると、余計にはっきり思い出す。
「宍戸くん」
声をかけられた。
顔を上げると、佐倉が立っていた。
同じクラスの女子。
昨日、蟻の巣のところで僕に話しかけてきた人。
佐倉は、少し心配そうな顔をしていた。
「もしかして、気分悪い?」
「別に」
いつものように答えたつもりだった。
でも、声が少し低かったかもしれない。
佐倉は僕の顔をじっと見た。
「顔色、悪いよ」
「元から」
「それ、昨日も言ってなかった?」
「言ったかも」
「保健室、行く?」
僕は少しだけ驚いた。
そんなことを言われると思っていなかった。
「一緒に行こうか。私、保健委員だから」
佐倉はそう言った。
保健委員。
そういえば、そんな係があった気がする。
僕はすぐに首を振った。
「いい」
「でも」
「大丈夫」
大丈夫ではなかった。
でも、保健室に行くほどでもない。
こういうのには慣れている。
死んだあとの気持ち悪さも。
朝になっても残る味も。
体の中に別の生き物の感覚が残ることも。
しばらくすれば、少しずつ薄くなる。
完全には消えない。
でも、奥に沈む。
いつもそうだった。
それに、朝から保健室に行って、クラスで変に目立ちたくなかった。
宍戸がまた具合悪いらしい。
顔色が変だったらしい。
あいつ、やっぱり変だよな。
そういう声を聞くのは、もう面倒だった。
「本当に?」
佐倉が聞いた。
「うん」
「無理してない?」
「してない」
嘘だった。
でも、佐倉はそれ以上聞かなかった。
ただ、まだ心配そうな顔をしていた。
「気持ち悪くなったら、言ってね」
「うん」
佐倉は少しだけ笑った。
それから、自分の席へ戻っていった。
僕はその後ろ姿を見ていた。
変なやつだと思った。
普通、僕みたいなやつに、あんなふうに声をかけない。
気味悪いとか、暗いとか、何を考えているか分からないとか。
そう思って、少し距離を置く。
それが普通だ。
でも佐倉は、昨日も今日も、普通に話しかけてきた。
優しいのかもしれない。
それとも、ただの保健委員だからなのかもしれない。
どちらでもよかった。
少なくとも、悪い気はしなかった。
授業が始まるころには、教室の中もいつも通りになっていた。
誰かが笑う。
誰かが教科書を忘れたと言う。
先生が入ってきて、日直が号令をかける。
僕はノートを開いた。
昨日のことを、いつまでも引きずってはいられない。
そう思う。
思うだけで、忘れられるわけではない。
でも、奥に押し込むことはできる。
今までだって、そうしてきた。
猫になって死んだ朝も。
魚になって死んだ朝も。
虫になって死んだ朝も。
全部、少しずつ奥へ押し込んで、普通の顔をして過ごしてきた。
そうしないと、一日をやり過ごせない。
一日をやり過ごしても、夜は来る。
夜なんて来なくていい。
でも、どうせあいつは必ず来る。
今日もまた、忌々しい夜が。
だったら、昨日の死にいつまでも捕まっているわけにはいかない。
僕は黒板を見た。
先生の声を聞いた。
ノートに文字を書いた。
授業に集中しているふりをした。
昼になった。
給食の時間だった。
配膳台が運ばれてくると、教室に匂いが広がった。
今日は、いつもなら嫌いではない献立だった。
でも、湯気を見ただけで、朝の気持ち悪さが戻ってきた。
今日は自分が給食係じゃなくてよかったと思った。
もし配る側だったら、鍋の中を見続けなければいけなかった。それは、おかずの匂いを真正面から吸うことになっただろう。
下手をしたら、配膳台の前で吐いていたかもしれない。
僕は列に並んだ。
前の生徒たちが、普通に皿を受け取っていく。
普通に食べる。
普通に笑う。
普通におかわりの話をする。
それが少しだけ不思議に見えた。
僕の番になった。
給食係の男子が、僕の皿におかずを入れようとする。
「少なめでいい」
僕は言った。
「え、これだけ?」
「うん」
「少なすぎじゃね?」
「いい」
男子は少し変な顔をしたけど、それ以上は何も言わなかった。
皿の中には、いつもよりかなり少ない量だけが乗った。
席に戻る。
箸を持つ。
しばらく、食べ物を見た。
食べ物だ。
腐っていない。
ゴミ袋の中にあったものとは違う。
ちゃんと作られた、人間の食事だ。
そう分かっている。
でも、湯気の中に、昨日のにおいが少し混ざっている気がした。
腐った脂のぬるさ。
濁った汁。
溶けた肉。
羽音。
くちばし。
暗い喉の奥。
僕は目を閉じた。
一口だけ。
そう思って、口に入れた。
味はした。
でも、うまいとは思えなかった。
飲み込むのに、少し時間がかかった。
それでも、吐かなかった。
二口目も食べた。
三口目は、少し迷った。
結局、食べた。
全部は無理だった。
でも、少しは食べられた。
今日は、それで十分だと思った。
昨日の夢は、久しぶりにきつかった。
死ぬ瞬間より、その前がきつかった。
腐ったものを食べたこと。
それを、この体がうまいと思っていたこと。
あれはたぶん、しばらく忘れられない。
僕は箸を置いて、午後の授業の予定に目を向けた。
まだ一日は終わらない。
夜までは、まだ時間がある。
でも時間は、必ず進む。
どれだけ気分が悪くても。
どれだけ昨日の死が残っていても。
今日も、少しずつ夜に近づいていく。




