第2話 食欲のない朝
朝ごはんの匂いがした。
それだけで、胃の奥が重くなった。
直ぐ様、今日はもう無理だと思った。
台所から、味噌汁の匂いがする。
焼いた何かの匂いもする。
母さんが食器を並べる音が聞こえる。
いつもなら、何も考えずに席につく。
食べたくなくても、食べる。
味が分からなくても、飲み込む。
そうしないと、朝が進まないからだ。
でも、今日は本当に無理だった。
夢の中の匂いが、まだ残っていた。
腐った野菜。
濡れた紙。
古い油。
何日も前に捨てられた肉の臭い。
黒いゴミ袋の破れ目からにじんでいた、茶色く濁った汁。
その上に浮いていた白っぽい脂の膜。
あの光景が、目の裏に残っていた。
思い出したくないのに、思い出す。
腐った肉の表面が、どろりと崩れるところ。
それを溶かして、舐めた感覚。
味とは呼びたくないものが、口の中いっぱいに広がった感じ。
もう口の中には何もないはずだった。
僕は人間に戻っている。
羽もない。
足も二本しかない。
腐った汁なんて、どこにもない。
それなのに、喉の奥にまだある気がした。
「お兄ちゃん、また顔変だよ」
桜の声がした。
僕は食卓の前で立ち止まっていた。
桜は椅子に座って、箸を持ったまま僕を見ている。
朝から元気そうだった。
僕とは違う生き物みたいに見えた。
「そう」
僕は答えた。
「そう、じゃないよ。すごく変」
「元からだよ」
「元からじゃないもん」
桜は少し怒ったように言った。
母さんが僕を見る。
「耀、早く座りなさい。冷めるわよ」
「いらない」
そう言うと、食卓の空気が少し止まった。
姉さんがスマホから顔を上げる。
父さんも、新聞をめくる手を止めた。
「いらないって、朝ごはん?」
母さんが聞いた。
「うん」
「具合悪いの?」
「別に」
別に、ではなかった。
でも、説明できることでもなかった。
昨日の夜、虫になって腐ったものを食べた。
ゴミ袋の破れ目で、腐った肉を溶かして吸った。
そのあと小鳥に食われて死んだ。
そんなことを言ったら、また変な顔をされる。
だから言わない。
「何も食べないで学校行くつもりか」
父さんが言った。
「うん」
「朝飯を抜くと、体が動かないぞ。頭も働かない。ちゃんと食べないと、学校でも何もできない」
父さんの言っていることは、たぶん正しい。
体を動かすには食べ物がいる。
頭を動かすにも食べ物がいる。
人間は、食べないと生きていけない。
それは分かっている。
分かっているけど、今日は無理だった。
味噌汁の湯気を見るだけで、ゴミ汁を思い出す。
焼いたおかずの匂いを吸うだけで、腐った脂のぬるさが戻ってくる。
口に入れたら、たぶん吐く。
「水だけ飲む」
僕はそう言って、コップに水を入れた。
冷たい水を一口飲む。
口の中が少しだけましになる。
でも、喉の奥の気持ち悪さは消えなかった。
「耀」
母さんの声が少し困っていた。
「本当に大丈夫なの?」
「大丈夫」
大丈夫じゃないときほど、僕はそう答える。
大丈夫と言えば、それ以上は続かないことが多いからだ。
姉さんがため息をついた。
「また変な意地張ってる」
「張ってない」
「張ってるじゃん。朝ごはんくらい食べなよ」
「無理」
「無理って何」
僕は答えなかった。
どうせ言っても分からない。
分かってほしいとも、もうあまり思っていない。
この家の人たちは、僕のことを心配していないわけじゃない。
母さんは困っている。
父さんは正しいことを言っている。
姉さんは呆れている。
たぶん、それぞれに僕を見ている。
でも、僕の中に残っているものは、誰にも見えない。僕にしか理解できない。
腐った汁の色も。
羽音の震えも。
くちばしに挟まれた感触も。
飲み込まれる前の、ぬるい暗さも。
誰にも分からない。
「お兄ちゃん、ご飯食べないと元気出ないよ」
桜が言った。
その声だけは、少し違って聞こえた。
桜はたぶん、本当に心配している。
理由は分かっていない。
僕が何を見たのかも知らない。
どうして食べられないのかも知らない。
それでも、ただ心配している。
僕は桜の方を見た。
桜は箸を持ったまま、僕を見上げていた。
少しだけ、胸の奥が変な感じになった。
嫌な感じではなかった。
「ありがと」
僕はそう言って、桜の頭に軽く手を置いた。
桜の髪は、朝の光で少しだけ明るく見えた。
「でも、今日はいい」
「ほんとに?」
「うん」
「給食は食べてね」
「たぶん」
「たぶんじゃだめ」
桜がむっとした顔をする。
僕は少しだけ息を吐いた。
笑ったわけではない。
でも、たぶん、いつもよりは顔が緩んでいたと思う。
「行ってくる」
僕は鞄を持った。
母さんが何か言いたそうにしていた。
父さんもまだ納得していない顔をしていた。
姉さんはまたスマホに目を戻していた。
桜だけが、まだ僕を見ていた。
「いってらっしゃい」
「うん」
玄関を出ると、朝の空気が入ってきた。
外の匂いは、食卓より少しましだった。
それでも、全部が消えるわけじゃない。
夢の中の匂いは、まだ僕の中に残っている。
腐ったものを食べた虫の朝。
それを誰にも言えないまま、僕は学校へ向かった。




